日本人だから作れる映画がある。「陰陽師0」を通して考える適切なポリコレ

こんにちは。映画好きのIMOだ。最近呪術廻戦がジャンプ本誌でようやく盛り上がってきたとこだよね。とはいえもうすぐ終わりも近い。妖怪とか呪いとかこういうファンタジーというのはアジアの特権で日本だからこそ作ることができる物語だ。犬夜叉なり結界師なり、昔から今も続くゲゲゲの鬼太郎シリーズもそうじゃない?定期的に日本はこういう作品を生み出している。その流れの中で生まれた最新作「陰陽師0」を今回はレビューしていこう。いつも通り前半はネタバレなしにプレゼン、後半はネタバレ含め自由に語ろう。

プレゼン

時は平安時代、政治にしても病気の対応にしても、重要な決断は陰陽師の占いによってなされていた。この陰陽師の力は、ただのまやかしなんかではなく、まやかしはまやかしでも人を本気で信じ込ませるまやかしだ。木の枝を燃えた鉄の棒と信じ込ませ、火傷を負ったように苦しめることもできる。それを呪(しゅ)と呼び、陰陽師は呪にかけられた者たちを救うことが仕事だった。陰陽師になることは平民の唯一の出世の道だった。学生(がくしょう)たちは必死に陰陽師を目指し日々勉強の日々だ。これは安倍晴明の学生時代に起こる、ある事件の話。


さて、陰陽師のざっくりとした役割も含めあらすじを語らせてもらった。この映画における陰陽師の力とは、思い込ませる力であり、思い込みから救う力でもある。妖怪が実際にいてそれを退治するとかではなく、妖怪がいるという思い込みを取り払うのが陰陽師のやることなわけだ。この陰陽師の中で最も有名であり、最も優れていたとされているのが、山崎賢人演じる安倍晴明だ。

陰陽師と聞いて和風バトルファンタジーを思い浮かべた人も多かったかもしれないが、この映画はどちらかというと和風の異能力ミステリーだ。実はこの映画において安倍晴明は、陰陽師としての仕事にはあまり乗り気ではないという意外な一面を持つ。陰陽師の仕事はありもしない怪異をでっちあげてそれを広めるろくでもないものだから偉くなることに興味はないと言ってしまう始末だ。物事を冷静に分析する性格で、「人々が騒ぐ夜中の異音は温度差による家の軋みの音だ」と科学的な見地も持っている描写も見受けられた。こういう性格なので、劇中でトラブルを解決する際も探偵のように現実的な推理を行うことも多く、ミステリーのような作風も感じられた。この点が意外性があって楽しかった。

この現実的な晴明と一緒に事件に迫ることになるのが醍醐天皇の孫で中務(なかつかさ)の大輔(たいふ)というそこそこ偉い地位(その辺の平民はみなひれ伏すレベル)についている貴族源博雅(ひろまさ)という男だ。楽器に秀でたお気楽な性格の男で晴明に振り回されながらともに事件に立ち向かうことになる。この二人のコンビの掛け合いと、だんだんと育まれる友情が作品の魅力だ。晴明は聡明でなんでもわかる男で、陰陽師の力を通して普通は見えないものも見透かしてしまう。反対に博雅は、どちらかというと少しおバカなキャラ付で、すぐに騙されるし、超常的な力も感じ取れない。博雅はかなり親近感のあるキャラで、見る側の我々としても感情移入しやすいし、自然と博雅の視点に立つように誘導しているように感じた。特に陰陽師の呪(しゅ)について晴明から博雅に説明するシーンなんかは、見る側の疑問を自然に博雅が聞いてくれるのでわかりやすい。博雅と一緒にだんだんと陰陽師の世界を理解し、最後まで楽しめる丁寧なつくりになっているので、陰陽師を扱った作品に触れてこなかった人たちにもおススメできるだろう。

他にもこの映画は迫力のあるCGも魅力だ。この映画を異能力ミステリーといったが、ミステリーと言ってもずっと推理をしているような地味な映画ではない。晴明は陰陽師を嫌っているとはいっても素質は十分にあるのでしっかり術を使うシーンもある。術のシーンは派手でかなりファンタジーっぽいし、最後のほうは怪獣バトルのような派手さになっていくから最後まで飽きずに楽しめるはずだ。この辺はかなり満足していて陰陽師というタイトルにふさわしい陰陽師らしい演出に溢れていた。陰陽師の騙すちからで、あり得ないものを見せる事象は、CG映えするし、騙す力という性質はミステリーともがっちり嚙み合っている。どちらが優れているとかそういう話ではないが正直呪術廻戦より呪術していた。

最後のセールスポイントとしては、山崎賢人の演技を推していきたい。いやぁ少し前までゴールデンカムイで北海道で活躍してたと思ったら今度は平安時代で陰陽師ですよ。男気溢れる杉本だけじゃなく、不愛想な晴明まで演じ分ける力量は素晴らしい。もう令和の藤原竜也だと思う。正直今後映画で主演山崎賢人を見かけたら安心するかもしれない。芸能人にありがちな俳優のキャラの押し付けがないので、かなり万能な演者なんだろう。クールな天才キャラを違和感なく演じているので、きっとこの作品の表現したかった安倍晴明を表現しきれていると感じた。つまりぴったりハマっているということだ。

大体こんな感じで、あまり目立っていない本作だが、十分お勧めできる。実は俺は見るときに予約する劇場を間違えてしまい、せっかくAUマンデイで1100だったのに、結局2000円ほどかかってしまった。そのうえでも全然見てよかったと満足したので、よかったら劇場に足を運んでもらいたい。

プレゼンは以上だ。



ネタバレ

ネタバレ含め感想ってところなんだけど、今回はネタバレなしでこの映画を通して考えたことをサクッと語って終わろう。

この映画を見てやっぱり感じたのは、日本には日本の作れる映画があるという点だ。そもそもが日本人の話だし、それを演じるのも日本人なわけだから真っ当な作品ができるのは至極当然の結果なわけだ。日本が舞台の日本人をアメリカ人が演じる映画はあっても別に構わないが少し冒険が過ぎる。

もっと踏み込んだ話題にいくと、ポリティカルコレクティネス、つまりポリコレの映画における適用にも言えることがある。もともとが白人の設定であるキャラクターを無理に黒人に演じさせることも同じではないか。

俺は別にレイシズムを唱えたいわけではない。

俺が言いたいのは人種の尊重というのが黒人に白人のポジションを譲ること以外にもやり方はあるのではないか?ということだ。

今回の陰陽師0で言うならここに無理やり外国人をねじ込むのではなくそもそも海外の陰陽師という概念からスタートするべきではないだろうか。陰陽師というワード自体は日本のものだし日本の文化に根差したその役職はどうやっても海外には存在しない。だが同じポジションの存在はある。映画として陰陽師に求められるのは何か不思議な力を使って呪いや悪霊なんかを追い払ったりして事件を解決することなわけで、同じことはエクソシストなりシャーマンなりもやっている。どんな文化にもそれぞれに信仰する神がいるし、恐ろしい怪異の概念も存在している。やろうと思えば無理に日本の世界観に合わせる必要なんてないはずだ。

迫害されてきたマイノリティに敬意を払うことは正しい。しかしそれでやることが結局、迫害された当事者たちをベースに作品を作ることではなく、他の人種をベースに作られていた既存の作品に無理にねじ込むだけなのが現状だ。黒人をベースに話を作るのではなく、黒人が役をもらうことに満足して結局乗っかるのは権威を得ている人種の作品の上というのはむしろ黒人たち自身の文化や背景に対して失礼ではないだろうか。

つまるところ黒人は白人には絶対になれないし、日本人もアメリカ人にはなれない。一方で白人も決して黒人にはなれないし、アメリカ人も日本人にはなれない。黒人には黒人でブラックミュージックなり、優れた文化がある。マイノリティ達の歴史は迫害されてきた部分も多く、自身の歴史に向き合ったときに嫌な思いもするだろうが、彼らだからこそ生み出せたものもいっぱいあったはずだ。白人の中でも、ポリコレを大事にする企業は多いが彼らもそんなにポリコレを大事にしたいなら自分たちの文化の作品をベースにするのではなく、ちゃんとマイノリティに向き合って彼らをベースにする方針で監督なり映画会社なりに仕事を振ってほしい。

今回の話で言うなら、もしワーナーがポリコレに力を入れていることをアピールしたいなら、そもそも陰陽師0の企画が決まってからではなく、そもそも企画時点でポリコレを適用しても問題のない作品選びをするべきだろう。

陰陽師0は日本をベースにした日本人が演じる映画なので普通に面白い作品になったわけだし、これからのポリコレも素直にその人種にしか作れないものを見出して適用されてほしい。



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