見出し画像

普天間飛行場―米軍は返還するか①

 米軍普天間飛行場は、人口10万人の宜野湾市のど真ん中にあり、面積は475.9㌶と市の総面積の4分の1を占めている。軍人・軍属は約3200人。長さ2800㍍、幅46㍍の滑走路を持つ海兵隊ヘリコプター部隊拠点で58機の軍用機が配備されている。2023年11月29日に鹿児島・屋久島沖に墜落したCV-22オスプレイと機体構造、エンジンなどの基本性能が同じMVー22オスプレイは24機配備されている(2018年時点)。

普天間飛行場ができた経緯をたどろう。1945年6月ごろの沖縄戦の組織的な戦闘が終了する直前、米軍が本土決戦に向けて強制的に土地を接収し建設したのが始まり。1960年には施設管理権が空軍から海兵隊に移管され、1978年にハンビー飛行場がの返還に伴って基地機能が普天間飛行場に移され、現在の運用形態になったという。

 宜野湾市によると、年間の騒音発生回数は1万1千回を超え、夜間の騒音最高値は2019年2月10時53分に上大謝名地区で記録した100.1デシベル。これは電車が通る時のガード下と同じくらいだそうだ。普天間飛行場は住宅地に近く、日本の基準でも米国の基準でも安全性を満たしていない「世界一危険な飛行場」として知られている。

嘉数高台公園の展望台から見た普天間飛行場。オスプレイが並んでいる

 飛行場の南側からおよそ1.2㌔離れた嘉数高台公園にある地球をモチーフとした展望台から飛行場の全景が確認できる。展望台には滑走路にレンズを向けたカメラマンがよくいる。オスプレイの飛行や飛行場に珍しい機種が飛んできたりした場合に撮影してテレビ局に渡すためだ。何かの動きがある時には沖縄タイムスや琉球新報の記者も駆け付ける。話を聞いたカメラマンの男性によると、休日は動きはなく、オスプレイなどが飛ぶのは平日がほとんどだという(でも、男性は休日にいた)。

嘉数高台公園の展望台

 望遠レンズで飛行場を覗いてみると、基地を囲むようにして多くの建物が密集していることがよく分かる。2004年には、大型輸送ヘリのCH53Dが訓練中にコントロールを失い、沖縄国際大学1号館に接触し墜落。民間人にけが人こそいなかったものの、1号館はその後取り壊され、周辺の木々も燃えてしまった。ヘリの放射性物質で汚染された疑いももたれた。


沖縄国際大に今も残る、ヘリの落下で焼失した樹木

 また、飛行場の北側に隣接した位置にある普天間第二小学校は、グラウンドのすぐ横に米軍のフェンスがあり、2017年には米軍のヘリから重さ7.7㌔の窓がグラウンドに落下した。米軍はこの事故を受けて「最大可能な限り学校上空を飛ばない」と説明したが、周辺上空を米軍機が日常的に飛行する状況は今も続いている。

 米国の安全基準では、滑走路の両端に危険を避けるために土地を利用しない緩衝地帯の「クリアゾーン」を設けるように定められている。だが、普天間飛行場では設定されておらず、区域内に学校や住宅、病院などがひしめき合う。これ、米国内では厳格に運用されている。私が2010年に訪れた米国・フォートワースの海軍航空基地ではクリアゾーンがしっかりと設定され、騒音などはほとんど感じなかった。ちなみに、軍関係者と地元住民で協議会が作られており、話し合いを行う場が設けられていた。

 だが、こうした基準は沖縄にはいまだ適用されず、住民の生命や安全はないがしろにされている。日米両政府はこの危険性を除去するために、1996年に設置された「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」で、「今後5~7年以内に、十分な代替施設が完成した後、普天間飛行場を返還」することで合意したのである。ところが、27 年たった今も、返還は実現していない。

 次回は、普天間飛行場返還問題を深掘りしたい。

 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?