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【閑話休題#31】道籏泰三編『中上健次短篇集』

こんにちは、三太です。

今回はこちらの作品を読みます。

前々回の閑話休題で中上健次『火まつり』を取り上げました。

これまでも中上作品は何作か読んでいました。(片手で数えられるほどですが…)
今回『火まつり』を読んだことによって、もう少し広く浅くでもいいので中上健次作品を読んでみたいなと思いました。
ちょうど岩波文庫から中上健次の短篇集が出るということで、そちらを読んでみることにしました。
吉田修一さんとの共通点はどちらも芥川賞作家ということ。
中上健次は『岬』で戦後生まれ初の芥川賞受賞、吉田修一は『パーク・ライフ』で芥川賞を受賞しています。
また、ある地域を舞台にすることが多いのもどちらの作家にも共通する特徴の一つです。
中上健次はその傾向が特に濃く、紀州(熊野・新宮)を舞台にする作品がほとんどですし、吉田修一は長崎を舞台にすることが比較的多いです。


あらすじ

本書には中上健次の短篇が十篇収録されています。
その構成について編者の道籏泰三は解説で次のように語っています。


「本短篇集は、中上健次の遺した数多くの作品の中から、十の短篇をピックアップし、憎愛(アンビヴァレンス)としての「路地」、そして「楽土」としての「路地」といった視点から、やや一面的になるのを覚悟のうえで、彼の文学の独特のありようを浮かび上がらせようとしたものである」

道籏泰三編『中上健次短篇集』(p.313)


私はこれまで中上健次の作品をたくさん読んできたわけではないので、このセレクトが「一面的に」なっているかなども、よくはわかりません。
けれども、いくつかのタイプには分かれると思いました。
例えば、「隆男と美津子」、「十九歳の地図」は、語り手の「僕」が19歳ぐらい、どちらも予備校生、いわゆる普通の社会からは少し遠いところにいる、などが共通する点です。

「眠りの日々」「修験」「穢土」「蛇淫」「楽土」「ラプラタ綺譚」は、舞台が熊野・新宮、破滅的な展開、御燈祭り・兄の縊死・鶯の飼育などのモチーフ、などが共通する点です。(もちろん、作品によって出てくるモチーフ、出てこないモチーフはあります)

「かげろう」「重力の都」はどちらも性が強烈に匂い立つような、性が全面に描かれる点が共通します。

そういう意味でこの十篇は中上健次の描くいくつかのタイプの物語を味わえる構成だと言えそうです。

感想

この短篇集を読んで、より中上健次に興味を持ちました。
例えば、道籏さんの解説によると「ラプラタ綺譚」は6人の男の物語のうちの一つ(ここでは盗人の新一郎がメインで描かれる)で、他にも『千年の愉楽』で5人の男が別に描かれるようです。
こういうのを聞くと、他の5人も含めて全部読みたくなってしまいます。
馬力があれば、全集で全作品読破ということもしてみたいのですが…
ひとまず『千年の愉楽』でも読んでみましょうか。

ハッピーエンドというよりもバッドエンドでしかも破滅に向かう話が多かったのですが、その破滅の道への盛り上がりが凄いのと、破滅には炎がセットになっているように感じました。
そのためけっこう御燈祭りは中上の物語の中で重要な位置を占めます。

この短篇集の最後には中上の略年譜が掲載されています。
その略年譜を見ていると、中上の短篇は少し私小説的だと感じました。
例えば語り手となる予備校生や兄の縊死、鳥を育てることなどが中上の略年譜にも垣間見えます。
自らの人生と向き合いつつ小説を紡いでいった様が浮かぶようでもあります。

細かい点でいくつか面白い点がありました。
「十九歳の地図」に出てくる男とぼくのやり取り。
すれちがいざまに男は「おっす」と声をかけた。ぼくは反射的に「めっす」と答えた。(p.65)
いやいや、子どもの頃を思い出しそう!

もう一つは「ラプラタ綺譚」で出てくるエピソードで、ある芸妓が鶯のフンで顔を洗い美肌を保つというものがあります。
そんなことあるのかと思いました。
 
男達おっすめっすと夏嶺ゆく

吉田修一作品とのつながり

・「蛇淫」で「彼」が両親を殺すときの衝動性が吉田修一作品で描かれる犯罪の衝動性とつながるように感じました。

今回は道籏泰三編『中上健次短篇集』の紹介でした。
これが中上健次の著作の初の岩波文庫化のようです。
これからも幅広く読まれていってほしいと感じました。(ちょっとどぎつい描写もありますが)
そして自分としてはもう少し中上健次の作品を読めれば、こちらの大著にも挑戦したいと思います。

それでは、読んでいただき、ありがとうございました。


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