頬に感じたフローリング

その夜、私達は真っ暗な部屋で這いつくばって、途方に暮れていた。

犬や猫に比べて、家チンチラがどのように暮らしているかはあまり知られていない。と思う。
ハムスターのように、人生の大半をケージで過ごすと思われているかもしれないが、チンチラには「部屋んぽ」という文化がある。

部屋んぽとは、室内で行われる散歩のことだ。
基本的にケージの中で暮らす彼らだが、健康のため、毎日決まった時間に部屋に出し、運動してもらうのだ。
非常に大きなケージで飼われている場合は別として、多くのチンチラは夜になると(夜行性のため)リビングなどに解き放たれると思われる。

我が家のチンチラ氏は、部屋んぽが大好きだ。
開始時刻の22時を体内時計に刻み込み、時間になると熱い視線を投げかけてくる。
そして、ケージを開けると「搭載エンジン変えた?」という勢いで嬉しそうに飛び出していく。

余談だが、私はこの時、同時刻にケージから飛び出す国内のチンチラの皆さんと、時差によって、これから数時間後に放たれる海の外のチンチラの皆さんの嬉しそうな姿を想う。
その光景はまるで谷川俊太郎先生の詩「朝のリレー」だ。
この地球では、いつもどこかで部屋んぽが始まっていて、眠る前のひととき耳をすますと、どこか遠くでチンチラが駆け回る嬉しそうな足跡が聞こえるのだ。

その日も、チンチラ氏は部屋中を駆け巡り、K氏の肩に登ったり、私の足を齧ったりしていた。
なお、チンチラは想像の8倍好奇心旺盛で、向こう見ずな生き物だ。
感電するものを齧りたがり、先が見えない暗闇に入りたがる。
降りれない高さまで登りたがり、骨折する高さから飛び降りようとする。
そのため、部屋んぽ中はあちこち覆ったり、目を離さないことが大切だ。

開始から1時間が経った頃、おやつを出してケージに誘った。
我が家ではこの手法でケージに帰宅いただいており、これまではスムーズに部屋んぽが終了していた。

しかし、今日は全くケージに帰ろうとしない。
おやつを鼻先で揺らしても堪えているし、近づいたら逃げていく。
「長めに出たい日もあるよね〜」と笑っていた私達だったが、30分、1時間が過ぎた当たりで(このままずっとケージに戻らないのでは…?)と不安になってきた。
子供が公園から帰りたがらない時の親御さんは、こんな気持ちだろうか。

そして不安は的中し、チンチラ氏はソファーの下で帰宅拒否の座り込みを始めた。

外を走るバイクの音が怖くて、ソファーの下から動けなくなってしまったのかもしれない。
もしくは、日頃から「部屋んぽ1時間は短い」と不満を溜めていたのかもしれない。
私がぐるぐる考え込んでいた時、建設的なK氏が「野生に近い環境なら安心して出てくるかもしれないから、電気を消してみよう」と言った。
確かに夜行性のチンチラは、野生では暗闇で活動するわけだし、それは一理あるかもね。と思い電気を消した。

そして、1 匹と二人は真っ暗な部屋に投げ出された。

出てきたところを踏んづけても困るので、私達は這いつくばってソファの下に目を凝らした。
目が慣れてくると、暗いリビングの中の、更に暗いソファの下から、黒い瞳がこちらを見つめていた。
私とK氏は、フローリングに頬を押し当てて、見つめ返した。

暗闇と、冷たいフローリング、しんとした部屋で聞こえる冷蔵庫の微かな活動音。
見つめ合う私達。

自分以外の生き物と暮らすということは、こういう今年の連続だと思った。
何を考えているかわからない瞳を見つめて、限られた手段で意思疎通を図る。
その結果、幸せなのかも、本当のところはわからない。
ただ、鮮烈な思い出が増えていく。

30分が経過した頃、K氏の思いやりが功を奏したのか、空腹に耐えられなくなったのか、そろそろとソファの下から顔を出した。
そして、150分が嘘の様に、とことことケージに戻り、とぼけた顔でおやつを催促し始めた。
私とK氏はどっと押し寄せた安心感でソファに座り込んだ。一件落着だ。

私は笑い合いながら、
いつかこの日のことは忘れるだろうけれど、
暗闇からこちらを見ていた瞳と、頬に感じたフローリングの冷たさは忘れないだろうな、と思った。



この記事が参加している募集

ペットとの暮らし

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?