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この世の終わりを心底願った絶望の時間と、長い時間をかけて分かってきた大事なこと

「何か残したい。私の経験を発信することで誰かに、光を射せるような、何かヒントになるような、そんなことができたら…」

noteに辿り着いた時、最初からそう思っていました。

今書いているこの記事も、
どうやって書いていこう…
書き出しはどうしよう?…
伝わり易くするにはどう表現しよう?
書いては消し、消しては直しを繰り返していました。

でも、もうアレコレ考えるのをやめました。

noteの便利そうな機能は使いこなせないまま
単純に「書いて投稿する」ことにしました。

…うまく伝わるか分かりませんが、精一杯の気持ちで書きます。


私は3人の子どもに恵まれましたが、
その中の一人である次女は、
障がいを持っています。
後天性で、進行性の脳の病気です。
日本に数名の稀なものです。

小さかったけれど、それでも元気よく産まれてくれました。

しかし、生後1ヶ月にもならないうちに、
ウイルス性の感染症にかかりました。

次女の感染源は…「私」でした。

私も、そして、新生児だった小さな次女も
生死の境をさまよいながら奇跡的に乗り越えました。

様々な事が重なり、辛いだけでは語りつくせない一ヶ月を過ごしましたが、その後の次女は、そんなことも無かったかのようにぐんぐん成長しました。

とても成長の早い子でした。

首がすわらないうちに寝返りができるようになってしまい、いつ間違えて窒息するか、
目が離せませんでした。

生後5ヶ月で「つかまり立ち」ができました。ぐにゃぐにゃと頼りない腰で立つ姿は
人形に無理矢理そうさせているような不安定さでした。

歩くことも、走ることも、後ろ歩きも、
くるくると回ることも、、
早生まれの小柄な体で身軽にどんどんこなしてきました。

身体能力が抜群で、やったこともないのに、ジャングルジムのてっぺんまですいすい昇ったかと思うと、
眉間に力を入れた顔でキッとこちらを向き、
「どうやって降りればいいのー💢」と
怒鳴る子でした。

おしゃべりが上手で、よく長女の真似をしては、度々イライラさせていました。
「マネしないで!」と怒られれば
「マネちたっていいでちょー💢」と
カタコトで怒鳴り返してケンカになっていました。


のんびりな長女がテレビに夢中でいる隙に、
同じだけ分けたおやつは姉の分までコソコソと食べていました。

お菓子が大好きで、ごはんが進まず、
「そんなにお菓子が好きならお菓子で育てばいい!ママはもうごはんなんて作らないから!」と言うと、
「え?いいの?✨やったーー!」と目を輝かせてお菓子を取りに行く子でした。

気に入らないと場所も気にせず、ひっくり返って大声で泣き、バタバタと手足をバタつかせる姿には、親の私ですら
「マンガみたいな子だな…」と物珍しく見入ってしまうほど豪快でした。

非常に頑固で、気が強く、機嫌が悪ければ相手が誰でも反抗し、悪さをしては先生に追いかけられて、こっぴどく叱られる。
家と外の裏表がない奔放な子でした。

それでも自分の可愛さはよく分かっていて、
くるくるのくせ毛を可愛く揺らしながら
上手に歌をうたい、人を気遣い、優しい言葉をかけ、ニコニコと、そしてケラケラと本当によく笑う可愛い娘でした。

産まれた時、あんなに辛い思いをしたことが、ただの思い出話しになるほどに、
平和で、賑やかで、
慌ただしい毎日だったけど、これからが楽しみで仕方なかった。


…でも、それは、もうどうにも戻れない
本当にかけがえのない日々になってしまったのです。


3歳のお誕生日を迎えて間もなくのことです。
はじめは、体が勝手にビクッと動いてしまう
不随意運動という状態になり、
その後は、走れない、歩けない、
立ち上がれない、座れない、起き上がれない。
嚥下がうまくできなくなり、食べ物や飲み物が必要量摂取できない…
あんなに上手だったおしゃべりもできなくなりました。

今まで出来ていたことが、ひとつひとつ失われていきました。

たった一ヶ月で、
寝たきりの状態になりました。

当たり前と思われることが、突然当たり前ではなくなってしまった現実に、どう向き合えば良いのか分かりませんでした。

たくさんの検査をして、疑われる病名がいくつか挙げられました。
最終的な診断がくだったのは、
その中で最も最悪な病気でした。
「予後不良」
治ることはありません。
病名がついてから辛い治療が始まりましたが
それは治すためのものではなく、
進行をゆっくりにするためのものでした。
安全に投薬していくために開頭手術もしました。
同時に始めた服薬の処方箋には
「…延命のため」と書かれていました。

新生児期に感染した
あのウイルスが、
この病気の原因でした。


「小さい頃に感染したウイルスが、長い潜伏期間を経て、再び暴れだし、脳を壊していく。」


この診断を受けた時、私は泣き崩れながら隣にいる主人に謝りました。
すがりつき、何度も何度も謝りました。

主人はその時も、その後も、今に至るまで私を責めることは一度もありません。
主人の心情を私は今も知りません。
怖くて聞くことはできませんでした。

私のせいだ。私が、
可愛い娘を、可愛い妹を、可愛い孫を、
…私がみんなから奪ってしまった。

次女を抱きしめ、不自由にしてしまったことを謝り続けるしかできませんでした。

そうやって、誰からも責められる事のない私は、
自分自身をずっとずっと責め続けていました。

それは今でも、深く掘り返せばまたすぐに
出てくる気持ちです。

しかし、
それを胸に閉じ込めたままのこんな私にも、
「時の流れ」と、「娘の生き様」は、
本当に大切なことや、人と関わることの尊大さ、最優先を考え、最善を選ぶ思考、
他にもたくさんの気づきを教えてくれました。
今まで素通りしてきた感情も、周りの人たちの言動も真意も、以前よりくっきりと見えるようになってきました。
様々な事態の受け入れ方が
どんどん変わっていきました。

生きていくことが、全て学びになりました。


それから17年。
今年、次女は二十歳になりました。

相変わらず小柄ではありますが、
ゆっくりゆっくり成長しました。
言葉を発することができなくても、
それなりの表現を
…わずかな表情の変化だけだとしても、
家族はそれをちゃんと感じとります。

食事ができなくなってすぐ
経鼻経管栄養
(鼻から胃まで管を入れ栄養を摂取する方法)で獲ていた栄養も、
発病から10年後には、胃ろう(お腹に器具を付け直接胃に栄養を注入する)に変わりました。
胃ろうの手術をしてからは栄養の種類も変わり体重も増えました。

全エネルギーを使い、頑張ってやるしかなかった自力の呼吸は、
気管切開術をし、呼吸器に手伝ってもらうことにしました。

排便も排尿も自力と介助の両方でうまく調整できています。
まだ自分でできることがある素晴らしさは
奇跡のようで、次女の持ち前の根性を感じます。


娘は、今も、あの頃と変わらず、とてもパワフルです。
訪問看護師さん、訪問入浴のスタッフさん、デイサービスのスタッフさんや、お友達、
今年に入ってからも新たな出会いは沢山ありました。
娘の発するエネルギーに引き寄せられた、
娘を囲むたくさんの方々は、
その大きな愛を
次女だけに限らず、私たち家族全員にも与えてくれます。
人とのめぐり逢いに本当に恵まれています。
こんなにも感謝できる日が今もあることに幸せで胸がいっぱいになります。


次女は、そんな風にして、今日も私たち家族に癒しと、今というかけがえのない日々を与えてくれているのです。

生まれてからずっと、
今でも変わらず愛しくて堪らない存在です。


※追伸

産まれてから、今に至るまでを
ざっと書いてきましたが、
私が残したいのは、
我が子が障がいを持ったことの悲壮感ではありません。

もちろん、健常であった頃の愛おしい日々を思いだしては涙に暮れたり、
病気になっていなかったら今はどうだったろう。と
想像しては哀しむことも何度もありましたし、絶望で、ずっと闇が続く日もありました。

生死に関わる究極の選択は、事あるごとにあり、その決定の責任感の重さに潰されそうになることは一度や二度ではありません。

それでも…
それでも、今、

「私は幸せだ」と、思えるのです。

当初、
「できないことばかり増えてしまった。」
と嘆いていたのは私であり、次女本人はまだまだ可能性を秘めていました。
リハビリの先生や、音楽療法の先生、
学校の先生方、支援学校の友達、
たくさんのふれあいによって、無くしたと思われた笑顔を取り戻したり、(今はまたしばらく笑顔は見れていないのですが…)
喜怒哀楽の表現がとても上手になったり。と、まだまだ頑張る力を持っていたのです。

勝手に色々諦めていたことが恥ずかしく、申し訳なく、次女に対して、本当に失礼なことを思ってしまった。と、親として十分反省した出来事も何度もありました。

末っ子長男を弟に迎えてからは、姉弟の関わりは益々盛んになりました。

日常を生活するということに、
健常も、障がいも関係ありません。
皆、私の子どもです。
誰かのために誰かが我慢したり、困った時は協力し、助け合う。
たくさん褒めたり、叱ったり、
そこに、障がいと健常を区別するような
特別扱いはありません。
どの子も各々特別なのです。

それは、「普通」の大切さを知ったから
そうしているのだと思います。

私は、いつまでもクヨクヨするのが得意ではありません。時間がもったいないと感じるからです。

私の記憶の中で、
「そう思うようになったのはこれがきっかけだ。」と
確実に言えることがあります。

病気を宣告した、先生が言った一言と
その頃の次女からの精一杯の気持ちです。

「脳が指令をやめてしまえば、いつ心臓を止めてしまうか分かりません。それは、何年後かもしれないし、…明日かもしれない。」

その時は、次女の前でたくさん泣きました。
毎日毎日、二人きりの病室でずっとずっと泣きました。
まだ表情がしっかりしていた娘は、言葉は
何も言えなくなってしまったけど、
「ふぅぅん…ふぅぅん…」と一生懸命に声を出し、そして、
とても哀しい顔で私を見ていました。

こんな時でも、私を心配してくれていたのだと分かりました。

その時、私は目が覚める思いでした。

「…私は、
いつどうなるか分からないこの子に
泣いてる顔しか見せてないじゃないか。
この子は私の泣き顔だけを持って過ごすのか?それでいいのか?」

「今は、私が一番笑ってなきゃいけない!
私はこの子にみんなの笑顔を残したい。
いつまでもクヨクヨしてたら間に合わない。
泣いてるばかりの私では、今もここにいてくれる娘のがんばりを無駄にしてしまう。」

そう思うことができたあの日から、
私の意識は変わりました。


これは、
唯一の次女への特別扱いなのですが。

…今も私は、
「この子のために」

家族みんなが、
そして、次女に関わる全て人が
絶対に笑顔でいられるように、

いつもオモシロイを愛し、
人に寄り添い、人を想い、
笑いで溢れることを心がけ、
そうやって私は
生きているのです。

人の人生がいつ終わるか分からないのは、
誰にも平等なこと。
その人生の中で
思い通りにいかないことがあっても、
絶対に支えてくれる人たちがいるから、
悩み、考え、弱音も、…時には暴言も吐ける事に感謝しながら、過ごしたいのです。

3人の我が子が、
それぞれの手段で私を困らせ、
どんなに私を悩ませても、

泣いたり笑ったりの愛おしく、時に激しく、人間味溢れるごく普通の日常を一緒に生きていたいのです。

読んで下さった方に、

「いつでも全力で、いつでも前向きで明るくいることが正解ですよ!」

なんて決して思わないし、

「小さなお子さんがいらっしゃる方々、
大変でも、今が大切な日々ですよ。
自分のことは後回しで子どもさんを大事にして下さい」

なんてメッセージを残すつもりもありません

ただ、私が残していく話しを読んで下さった方が、何かの時に、

「あんな人もいたな。」
「そうゆう考え方もあるな。」
と、
ほんの少しでも思い出して頂けたら嬉しい。と図々しく願っている。
ただそれだけなのです。


※詳細を省いても長くなってしまいました。
いつか、当時の全てを書き残せたら。とも思います。
最後まで読んで下さり本当に本当に
ありがとうございました。











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