どこまでも清潔で明るい家

8. 土地・歴史に関する覚書

 父は、西宝珠花という土地の生まれだった。人口は一二〇〇人を少し下回るぐらい。江戸川の河川敷沿いにある小さな村ないしは町だ。同じ宝珠花でも東の方は江戸川をはさんだ別の県に属しているのだから不思議な話だ。だが土地の話はまたあとにしよう。
 父は三人兄妹の長男として育った。その父親、つまり僕の祖父に当たる人は、父がまだ小学校に通っていた頃に家を出た。子供を残して雲隠れした理由はわからない。仕事が上手く行かなくなったか、女房と反りが合わなくなったか、現代風に言えば色々あったのだろう。自分の父親がスーツを着て仕事に出かけて行く姿は今でも父の脳裏に残っているらしい。いずれにせよ、そのせいで、残された四人は貧乏暮らしになった。お習字の月謝を駄菓子に使い込んでしまう癖はこの時から頻繫に見られるようになった。
 土地の話にもどろう。西宝珠花に特筆すべき点があるとすれば、それはやはり、大凧あげ祭りになるだろう。この祭りは、江戸時代の後期に出羽(今の秋田県だ)から来た僧侶が養蚕の豊作を占うものとして、凧あげの話をしたことに由来する。凧があがる、すなわち、繭の値段が上がるというわけだ。それ以来、この地の人々は思い思いの凧をあげて繭の豊作を占った。
 時代が下って現在でも、この大凧あげ祭りは盛況に行われている。江戸川の河川敷という同じ場所で、毎年五月の三日と五日に開催されるのだ。僕自身、まだ背丈が一二〇もなかったころに、従兄弟たちとともに連れて行かれたことがある。しかしもっぱら記憶に残っているのは凧ではなくゲーム機の方だ。年長の従兄弟と僕は、有線でゲーム機同士をつないで対戦をしていた。しかし勝負の途中で分が悪くなった僕は、負けるの嫌さに思わずケーブルを引き抜いてしまう。ルール違反というやつだ。通信が切れたことに怒った従兄弟は土手から離れて、的屋がならぶ通りへと去って行ってしまった。土手に座り込んだまま、僕はただその後ろ姿を見つめていた。どういうわけか、「ごめん」の一言が出なかったのだ。
 その土手からは、江戸時代の人々も見ていたであろう同じ江戸川を見下ろすことができる。陽光を受けた水面は今なお輝き、その輝きはこの川が江戸(東京)へのただ一つの舟運交通だったときの面影を映す。それは誇り高き面影なのだ。なぜならこの川の水なくしては、農業も養蚕も成り立たなかったのだから。宝珠花はかつてその二つでこの地方の経済の中心を担ったのだ。繭の収穫前にあげられた凧がいつしか男子の出生を祝う意味を持つようになったとしても、別に不思議ではあるまい。

 その日の夜、我々は三人で食卓に着いた。僕は一人外に食べに行っても良かったのだが、撤去工事の後で体は湿気っていたし、早く風呂に入りたかった。それからわざわざ食事のためだけに街へ出るというのも、いささかかったるい。僕はあきらめて、テーブルに着いた。同じテーブルでは母と父がいつものように、痴話喧嘩を繰り広げている。
「だから宝珠花にそんな洒落た食い物はなかったんだ」
「ホットケーキぐらいあったでしょう。オリーブオイルとか垂らして食べると美味しいのよ?」
「ない。宝珠花にはホットケーキもオリーブオイルもなかった」
「じゃあデザートで何を食べてたのよ?」
「……コーヒーゼリー」
 母親はそれを聞いて、鼻先で笑った。
「宝珠花ディスってんじゃねーよ」
「別に、宝珠花はディスってないわよ」そう言いながらも、母親はけらけら笑い続けている。
「俺の中で一番は、高木の家で食べた苺のショートケーキなんだ。あれは、目が覚めるぐらい美味かった」
「ふうん」
 僕は会話には入らずにずっとテレビを見ていた。いや、正確に言うと、見ていたわけではない。テレビ画面の方に顔を向けていただけだ。事実、さっきから見ているのに内容が全然頭に入って来ない。何チャンネルになっているのかさえ知らなかった。重症だ。意地を張り過ぎる自分にもう少しで愛想が尽きそうだ。
「……明日は?また現場?」
「そうだな。でも明日は県内だから、出発は七時でいいだろう。高速は使わずにのんびり行くべ」
「安全靴は乾かした?」
 それが自分に向けられた質問であると気づくまでに、二秒近くかかった。僕は一瞬、振り返って、「新聞紙詰めて玄関に置いてある」とだけ早口で言った。そしてすぐにテレビ画面の方に向き直る。テレビ画面にはあの北野武が映っていた。彼はとても奇妙な出で立ちでスタジオセットの上を闊歩し、何やら白い粉のようなものを見境なく噴射しまくっていた。出演者たちはみな散り散りになって逃げ回る。そのうちの二人―著名なコメディアンだ―に照準が絞られた。逃げ場のない二人はもう観念したかのように身をすくめて彼の砲撃を待つ。突然、映像が切り替わった。一瞥すると、リモコンを手にしていたのは父親だった。どうやらお気に召さなかったらしい。
「何で急に変えるのよ?」
「別にいいじゃん。見たかった?」
「あなたって、そういうとこ本当に勝手よね」
「へへ」

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