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家庭教師、月刊誌記者を経て現在は熱絶縁工。埼玉県幸手市在住。1991年生まれ。小説『冷…

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家庭教師、月刊誌記者を経て現在は熱絶縁工。埼玉県幸手市在住。1991年生まれ。小説『冷戦』『どこまでも清潔で明るい家』を連載中。

最近の記事

どこまでも清潔で明るい家

13. グッドルーザー「だから、グッドルーザーには次があるんだよ!」僕は珍しく声を荒げていた。声を上げた相手はもちろん、父親だ。 「はあ?ブルドーザー?」耳の悪い父親が聞き返す。父は長年、建設現場で働いていることが祟って、近ごろ難聴気味になっていた。補聴器を買うよう説得しようかとも思ったが、どうせ聞き入れはしないだろう。健康診断の聴力検査の欄に毎年、医師の所見が記載されているにもかかわらずだ。 「グッドルーザー」健全な耳を持つ母親が正確に発音してみせた。そして、「どういう耳し

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      12. 東京オリンピック スターバックスの店内。スーツ姿の男二人が小さな丸テーブルを間にして腰掛けている。場所を取ると思っているのか、あるいはただ単に腹が空いていないのか、二人とも軽食は頼んでいない。テーブルの上にはドリップコーヒーのショートが二人分、そして、いかにも軽そうなラップトップが一台置かれてある。男の一人が腕時計に視線を落とした。時計の針は午後の五時十五分を示している。開会式まではまだ三時間ほどある。 「まあでも気の毒だったよな、佐々木は。不幸な役回り、押し付けられ

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        11. 三人のマダム 強い西日の光から顔を背けるように、そしてときどき手で遮りながら、僕はその道を一人歩いていた。顔を上げるとちょうど、トヨタカローラのうすらでかい看板の真下にいた。まだ閉店には早いということもあって、青の作業着に空調服を着た整備士たちは忙しく立ち回っている。アドブルーの入れ方を知らない面倒な客でも入って、その対応に追われているのかもしれない。アドブルーって何だ?なくなるとどうなるんだ?簡単に言いますと、排出ガスをクリーンにするためのものでして。なくなっても急

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          10. どこまでも清潔で明るい家 ミキシングドラムを積んだミキサー車が来たのは、九月の一日のことだ。僕はその日の朝、朝食をとりながら回転するドラムをずっと眺めていた。その気になれば、いつまでも見ていられる。洗濯機と一緒だ。  地面には基礎の形に合わせて、石が敷き詰められていた。割に粗い石だ。そのすき間を埋めるため、あるいは地面を平らにするために砂利が入れられている。上に被せてあるのはたぶん、防湿シートか何かだろう。そこにまず、高低差をなくすための捨てコンが流し込まれた。  コ

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          9. 地鎮祭、そしてクレーム そうこうしている間にも、弟の新宅にかかる話は前に進んでいた。まだうだるように暑かった二ヶ月前、僕はリビングでカレンダーの七月の頁をミシン目に沿って切り取っているところだった。しかし、案の定、器用にはがせず右端の方に小さな紙片が残った。わりに物の扱いががさつなのだ。僕は残った紙片をむしり取ってから、冷蔵庫を開けて、ウーロン茶を出した。グラスに注いで飲むそれは格別で、体の細胞のすみずみにまで行き渡るような気がしたほどだ。  飲み干したグラスをテーブル

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          8. 土地・歴史に関する覚書 父は、西宝珠花という土地の生まれだった。人口は一二〇〇人を少し下回るぐらい。江戸川の河川敷沿いにある小さな村ないしは町だ。同じ宝珠花でも東の方は江戸川をはさんだ別の県に属しているのだから不思議な話だ。だが土地の話はまたあとにしよう。  父は三人兄妹の長男として育った。その父親、つまり僕の祖父に当たる人は、父がまだ小学校に通っていた頃に家を出た。子供を残して雲隠れした理由はわからない。仕事が上手く行かなくなったか、女房と反りが合わなくなったか、現代

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          7. 鋼管島「明日、五時半な」  階下から野太い男の声がした。僕は特に返事をすることもなく、電気スタンドの明かりを消した。とりあえず目は閉じたものの眠れるわけはなく、長い夜を過ごした。寝返りを何度か打った。でもじきにそれすら面倒に感じて、仰向けのままゆっくり体の力を抜いた。疲れが溜まっていたせいか、体がベッドの中に沈み込んでいくような感覚があった。  目が覚めたのはアラームの鳴る五分前だった。最後に時刻を確認したのは午前三時だったから、二時間は寝られたことになる。このところ出

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          6. 原エレーナの家 2 原エレーナの家のシャワールームは二階にあった。浴槽付きのバスルームもあるのだろうが、僕はどこにあるのか知らない。彼女でさえそこを使用することは、冬の一時期を除けば、ほとんどないそうだ。「ここは酷暑で名の知れた町なのよ?湯船に浸かる前からのぼせそうよ」と彼女がいつだったか笑って言っていたのを憶えている。僕はスウォッチの腕時計を外し、服を脱いで、シャワールームに入った。そこはクローゼットほどの広さだった。僕は熱めの湯で体にまとわりついた嫌な汗を洗い流す。

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          5. 原エレーナの家 1 明け方、僕はいつものようにベッドの中で目を覚ました。マットレスはいつもと違って少し柔すぎるような気がしたが、不審には思わなかった。むしろ心地良いと感じた。僕は微睡みの中で起き上がるにはまだ早い、もうひと眠りして夢の続きでも見よう、そう思った。とても気がかりな夢だったのだ。僕はもう一度目を閉じて、眠ろうとする。が、思うようにいかない。僕の気持ちとは裏腹に、眠気は去り、目をつむっているのが苦しくなってきた。なぜだ?急に心臓の鼓動が速くなる。何かがおかしい

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          4. アルツハイマー「これは、アルツハイマーでしょうね。しかも見たところ、かなり進行しています」  そこは診察室だった。病院それ自体は、駅の西口からときわ台駅行のバスに乗って十四分の場所にある。その間に語るべきところはあまりない。乗車しているバスもどの街にも走っていそうな興業バスであったし、その日乗り合わせていたほかの乗客たちも、ごく数人であったが、平凡そのものだった。みな一様に、家族から免許証の返納を説得されてきた直後のようなしけた顔をして、前を向いている。運転士が「志村一

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          3. 祖母、詐欺に遭う 家の固定電話が鳴ったのは夜の11時過ぎだった。受話器をとったのは母親だ。風呂からあがって、ソファーでくつろぎながら録りためていたテレビドラマを観ている最中だったらしい。電話をかけてきたのは、祖母と同じ階に住む、永井さんというご高齢の女性だった。受話器越しの彼女の声は、少しくぐもって聞こえた。 「星名さんのお電話番号でお間違いないでしょうか?」 「はい、そうですが」 「私、保子さんと同じ都営住宅に住んでいる永井という者ですが、夜分遅くにすみませんね、少

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          2. 悪い気はしない 後日、玄関口に現れたのは岩のような男だった。背丈はさほど僕と変わらない。一七〇か一七二三、せいぜいそのあたりだろう。ただ肩幅が広く、がっしりとした体格のために、その男は実際以上に大きく見えた。なぜハウスメーカーがこの手の男を社員として迎えたのか、その採用理由には想像がおよばなかったが、もしかするとそれは僕がステレオタイプなイメージを抱きすぎているせいかもしれなかった。今どき、細身で長躯の、整った顔立ちをした男は雇ってもらえないのかもしれない。僕はとりあえ

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          1. 土地の話2016―2021  これは、ある一軒家が建つまでの記録である。 「なあ、インスタントミーティングIDとマイ個人ミーティングIDって何がちがうんだ?」 「知らないわよ、そんなこと。自分で調べなさい」 「マイと個人っておんなじ意味だよな、かたいっぽうじゃだめなのか?」 「どうだっていいでしょう、そんなこと。それより早くアプリ、立ち上げて。招待URLが届いているはずだから。ほら、来てるじゃない」 「パスワードは何だ、そんなもの決めたおぼえないぞ」 「それも通知さ

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          冷戦(第11話)

           そのあとの一週間は凪のように過ぎた。凪とはいっても、この時期、年末に特有の慌ただしさはあったがそれも、長い冷戦期間のあとでは、穏やかな、微笑ましいものに見えた。クリスマス・イヴのあの日以来、雪を見ることはなく、かわりに柔らかな日射しだけが地上に降り注ぎ、家々や木々を照らす。冬であることを僕らに思い出させてくれるのは、時折吹く、刺すように冷たい北風ぐらいなものだ。僕らは、いつものように仕事へ出かけ、方々で、良いお年をと、仕事納めのあいさつをしてまわる。母親は、家のなかを忙しな

          冷戦(第11話)

          冷戦(第10話)

           ここに来たのは、ほんの気まぐれにすぎなかった。妹の知る弁護士と電話口で話をしたのは二日前、妹が離婚の経緯を説明しに帰ってきた日の翌日のことだ。この若い弁護士はいわゆる人権派で、難民や外国人を専門として弁護しているらしかった。妹は、交際したての頃から、自分の夫のことでたびたび相談していて、今回の離婚にさいしてもその弁護士が間に入ってくれることになったのだ。受話器越しに伝わる声は若くはあったが、非常に落ち着いていた。年は三十三、四といったあたりだろうか。 「今回のことで彼が、妹

          冷戦(第10話)

          冷戦(第9話)

           三日後、僕はひとり、横浜方面に向けて車を走らせていた。首都高速はふだんに比べるといささか混んでいるように思えたが、苛々させられるというほどではない。ときどきブレーキペダルを軽く踏まなければならない程度だ。車内のカーステレオでは、さっきからひっきりなしにクリスマス・ソングが流れていた。ラジオ番組が毎年この時期に恒例のクリスマス・ソング・メドレーをかけているのだ。マライア・キャリーの「オール・アイ・ワント・フォー・クリスマス・イズ・ユー」、ワム!「ラスト・クリスマス」、そして、

          冷戦(第9話)