どこまでも清潔で明るい家

11. 三人のマダム

 強い西日の光から顔を背けるように、そしてときどき手で遮りながら、僕はその道を一人歩いていた。顔を上げるとちょうど、トヨタカローラのうすらでかい看板の真下にいた。まだ閉店には早いということもあって、青の作業着に空調服を着た整備士たちは忙しく立ち回っている。アドブルーの入れ方を知らない面倒な客でも入って、その対応に追われているのかもしれない。アドブルーって何だ?なくなるとどうなるんだ?簡単に言いますと、排出ガスをクリーンにするためのものでして。なくなっても急にエンジンが止まるということはありませんが、切ったあとの再始動はできなくなります云々……。
 僕はトヨタカローラの反対側にあるコメダ珈琲店を目がけて、とりあえず歩くことにした。喉が渇いていたので、何でもいいから何か飲みたかった。把手をつかんで扉を開けると、頭の上の方で鈴の音がした。全体的に木調の店内にはそこそこ客がいる。僕は店員に一言声を掛けてから、トイレに行き、用を足した。尿意はあったのだけれど、実際に出たのは雀の涙ほどの量でしかない。早く水分を摂った方が良さそうだった。
 臙脂色のソファー席に座るのとほぼ同時に水、そして、おしぼりが運ばれて来る。僕はメニューに目を通す間もなく、一息でそれを飲み干した。でも、塩分が足りない。メニューの中から比較的安価で、それが含まれていそうなホットドッグを注文し、水のおかわりも頼んだ。そこまでしてしまうと、安堵からかどっと疲れが押し寄せて来た。しばらく動けそうになかった。
 どうやらここは近隣の老婦人の溜まり場となっているらしい。落ち着いた目でぐるっと店内を見渡して、そう思った。通路を隔てた隣のテーブルにも三人のマダムが座っていて、何やら大きな声で話し込んでいる。女性はおしゃべりが高じるとボリュームの調節ができなくなるというのは、老いも若きも一緒らしい。僕は暇に飽かして、聞き耳を立ててみた。
「いつぶりだろう、この三人が一緒になるのは」と一人目のマダムが言った。
「一年ぶりぐらいかしらね。ほら、ちょうど新型コロナが国内でも流行り出したころだったでしょう、最後に会ったのは。私、旦那の目盗んでここに来た憶えあるもの」と二人目のマダムが言う。
「福田は父ちゃんがいないから来られた」と三人目が続いた。
「父ちゃん、今どこにいるんだっけ?」二人目が訊ねる。
「シンガポール」
「帰って来られるの?渡航制限かかってるんじゃ……」と一人目が心配げな顔をした。
「しばらく帰れそうにないから任期を伸ばしてもらうって、こないだ連絡あった」
 ここで注文してあったホットドッグが運ばれて来た。メニューの写真に違わず、ウインナーの下にコールスローが挟み込まれている。おしぼりで手を拭いて(というのはいかにも日本式のやり方だが)、一口頬張ると、その塩味が口の中に広がった。頼んで正解だった。
「で、最近どう?お変わりなく?」と一人目が水を向ける。
「お変わりありまくりよ」反応したのは二人目だった。その声には幾らか溜息も混じる。
「何かあったの?」
「いや実はね、義理の父と息子の関係が最近になって悪化しててさ。割と仲良かったのよ?息子からしたらじいじなわけだし。すぐ近くに住んでいることもあって、義理の父も息子のことは可愛がってくれてたのよ、昔から。それがここに来て、急に―」
「喧嘩でもしたの?」一人目が話を先取りする。
「いや私もそうかと思って息子に聞いてみたんだけど、どうもそうではないらしいのよ。息子が言うには、小説を書いていることを打ち明けたとたん、爺ちゃんの顔色がさっと変わったって」
「なんで?」一人目と三人目が声を揃えて訊ねる。
「さあ」そう言って、二人目のマダムは両の手の平を上に「わからん」というポーズをして見せた。僕は追加の飲み物を注文しようかどうか迷っていて、小銭入れのなかを覗き込んでいた。五百円硬貨が一枚、百円硬貨が七枚、五十円硬貨が二枚、そして、それ以外の硬貨がじゃらじゃら入っている。お世辞にも裕福とは言いがたかった。
「息子さん、いくつになるんだっけ?もう高校生?」
「十七。高校二年。だから義理の父は『中だるみだ』とか言うんだけどさ」
「そんなこと言うの?」
「ひどいでしょ?別に学校の成績が落ちてるわけでもないんだし、これまでこれといった趣味もなかったから。そりゃ私も幾らか心配は心配だけどさ。でも、好きでもないことを嫌々やらすよりは…」
「そうねぇ」と一人目が同意した。「たとえ好きなことをやってても思うようにならないことは社会に出たら、たんとあるからね。関心のないことやってたんじゃ、尚更―」
「絶対勝てない」と三人目が被せた。店の入り口の方でまた鈴の音がして、若めのカップルが一組入って来た。僕は豆菓子をつまみながら、まだ時間を潰していた。そういえば、ここに限らず、店でおしぼり袋を見かけなくなった。ラベルレスのスポーツ飲料がケース販売される時代なのだ。おしぼり袋が淘汰されても、無理はなかった。
「そういえば、目の前の通り、聖火リレーのコースになっているみたいね」と一人目のマダムが話題を変えた。
「あら、そうなの?聖火リレーっていつだっけ?」
「七月七日。水曜日」
「だれが走るの?」と三人目が訊ねる。
「それがまだはっきりとはわからないんだけど、噂じゃ川島永嗣さんは聖火ランナーに内定しているみたいね。あの日本代表の、ゴールキーパー」
「ずいぶんなビッグネームじゃない。他には?」
「他は……、ごめん、知らないわ。ただ一般にも募集はかけているはずだから、最終的には著名人との混合っていうかたちになるんだと思う。賑やかになるわ、きっと」
「政府もうるさくアナウンスするでしょ?『沿道に出ての声援はお控えください』とか」
「だから賑やか、でしょ?」
「余計にね」三人はそう言って、クスクスと笑い合っていた。

 この街に住んでいて、その通りの名を知らない人はいないだろう。仮にいるとしたら、他所から越して来て間もない新婚夫婦ぐらいのものだ。彼らにたいして、親切にその通りの名を教えてあげるもよし、「新参者か」と内向きの時世に倣って嘲るもよし。態度はともあれ、通称ラグビーロードと呼ばれるその道は、中央交差点から熊谷スポーツ文化公園まで弓なりに伸びていた。距離にして二キロほどの平坦な道だ。
 ミニチュアサイズの新車のラインナップが店のガラス越しに見られるカローラを通り過ぎると、先の方で別系列のディーラーが見えてくる。そちらの販売店は白と緑を基調にしていて、同じようにでかい看板を備えている。僕ら三十代向けだ。目線の先、上方には熊谷バイパスが太く走る。大型の貨物トラックがさっきから途切れなく走っていた。その車の往来の音をうるさいと感じたことはなかった。なぜだろう?それは不思議と、そしてほぼ完璧に、街全体の中に溶け込んでいた。一つの街をその街たらしめているその最後のピース…、そんな気がした。
 高架下を過ぎると、目に見えて緑が多くなった。象の皮膚のように干からびた畑、取り残された配水管(そこにあったはずの給水栓のバルブはどこに行った?盗まれでもしたのかもしれない)、水をたたえて青々とした田んぼ、給水栓が隠されていそうなトタン小屋、そして、信頼の厚い会計事務所。その辺りには細い用水路もあった。子供の頃、よくそこでは遊んだ。アパートの前にもちょっとした遊具が置いてある公園はあったのだけれど、なぜかそっちには惹かれなかった。柵を乗り越える罪悪感がなかったからかもしれない。
 僕はすっかり冷めてしまった珈琲を飲み干し、我に返って周りを見た。三人のマダムはすでにいなくなっていた。僕は伝票を手に、レジへと向かい会計を済ませた。きっかり千円だった。外に出ると、早速、生暖かい空気が僕を出迎えてくれる。この分だと、今夜も熱帯夜になりそうだ。僕はいくぶん肩を落としながら、道路の反対側へと渡った。道端では白蝶草が花を咲かせていた。

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