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フォトグラファー ~月の段~【ショートショート】

 防風林を抜け砂浜に足を踏み入れると、冷たい北風が顔をなでた。穏やかなさざ波がほぼ一定の調子で音を奏でている。ダウンジャケットを着こんだ吹越ふきこし颯真そうまは、浜辺の真ん中あたりに「よっこらせ」と言いながら腰を下ろし、仰向けになって煌々こうこうと照らす満月を見上げた。空は雲一つない。燦然さんぜんと輝く星を従えるように月は空の中心に立ち、海に優しく光を落としている。

「今日は、きれいだ」

 しわがれた声で、感じ入るようにゆっくりと颯真は呟いた。顔に刻まれた皺は深く、後ろでわいた白髪は混じり気がなく真っ白である。空気の冷たさに、腹の上で組んでいた両手をダウンジャケットのポケットに突っ込み、また独りごちた。

「ここんとこ、機嫌悪かったからなぁ」

 颯真は月に照らされた星野ほしのあかりの横顔を思い浮かべていた——。

 
 あかりは小学校の同級生であったが、再会するまではあまり話をした記憶のない女性だった。再会したのは、お互い四十も半ばを過ぎたころ。それも小学校卒業以来の邂逅かいこうで風の冷たい季節であったと思う。

 ウィンドサーフィン専門誌の特集記事の取材を受けることになり、所属チームが運営するスクールを兼ねた事務所にライターと共にやってきたのが撮影を担当するあかりだった。
 お互いに挨拶をして名前を名乗るまでは同級生であることに気付かなかった。どこか聞いたことのある名前だと思って顔を見つめているうちに、小学校時代の面影をわずかばかりに残した顔立ちから記憶を引き出していくように「星野ほしのあかり」が一致していったのだった。
 それは向こうも同じだったようで、お互いの表情のうつろいはさながら鏡のようであったにちがいない。「潮音しおね小の……」と、隣の市にある地元の小学校の名前を合図にお互いが同級生であることを認め合ったのだった。

 中年になったあかりはすらりとした体躯たいくをしていて、背筋は棒が入っているのではないかと思うほどに伸び、襟足を刈りこんだショートスタイルは利発なキャリアウーマンを思わせた。肌艶も若々しく、切れ長の目は涼しげで、飾り気のない美しい女性だった。
 まだ陽の沈まぬ時間に取材を終え、その日の予定を訊ね飲みに誘うと、撮り溜めた写真の整理と編集作業を終えた後ならということで承諾した。
 

 近場の居酒屋で待ち合わせをして酒が入ると、お互い近況を語り合った。

「吹越がプロウィンドサーファーなんてね……意外」
「星野がカメラマンやってんのも意外だけどな」

 意外も何も、お互いが小学校時代のころをよく覚えていないのだから、どんな職業でも意外にちがいなかった。消防士をやっていても意外だろうし、税理士をやっていたって意外であっただろう。現にプロウィンドサーファーとは言っても、それだけで生計を立てられる人間はほんの一握りで、たいていは何かしら別の仕事に就いていることを説明し、颯真の場合は造園業だと言うと、あかりは「へぇ、意外」と答えた。

 あかりは国内をあちこちと飛び回るように仕事をしているらしく、特定の家を持たない「アドレスホッパー」なのだと言った。古い言葉でいうところの「ジプシー」みたいなものらしい。何人かと相部屋になって宿泊する「ゲストハウス」や、家賃を折半して共同生活をする「シェアハウス」、あとは定額制で全国各地に登録してある共同ワーキングスペースで生活できる「コリビングサービス」などを転々としているのだと言う。なんだかよく分からないが、簡単に言うと不特定の誰かしらと出会ったり別れたりしながら生活しているらしかった。
 だが加齢とともにしんどくなってきているから、そろそろこの暮らしも切り上げようかとも考えているとも言った。

「星野は結婚してないの?」
「してたらこんな生活できないでしょ」

 あしらうように答えるあかりにやや面を喰らいながら、「あぁ……そりゃ、そうだな」とたじろぐように颯真は答えた。サバサバとしてサッパリした物言いは容貌ようぼうどおりである。逆にあかりから結婚のことを訊ねられ、結婚もして子供もいたが離婚したことを明かした。

「ふーん」
 あかりは同情もせず至ってニュートラルに反応した。
「だから今オレ、フリーよ」
「……あっそ」
 冷ややかに言い捨て、あかりはビールジョッキをあおった。
 
 店を出ると、酔い覚ましに軽く海岸を歩いた。空気の澄んだ夜空には満月が浮かんでいた。あかりは月を見上げると思い出したように言った。

「月明りってさ、ホントはもっと明るいんだよね」
「えっ?」
「こんな街灯なんかなくても、けっこう歩けるんだよ。月明りって」
 あかりは二人を照らす歩道の街灯を見上げて言った。
「……へぇ、そうなんだ」
「タイのね、ピピ島って歩いて三十分くらいで周りきれちゃう小さな島に行ったことがあってさ。ある時、島全体が停電になって真っ暗になったの。突然暗くなって身動き取れなくなっちゃったんだけど、しばらくすると目が慣れてきて人影とか道とか見えてきてね。日本みたいにすぐには復旧しないし、現地の人は日常茶飯事みたいな感じでゾロゾロ動き始めるの。自然の本来もつ力を見た気がしたなぁ、あの時は」
 遠い昔を懐かしむ感じで、あかりは言った。
「そっか。ここもわりと田舎だから星とかよく見える方だと思ってたけどな」
「ううん。もっとすごいよ」
「ふーん。日本にあんのかな、そんなとこ」
「どうだろうね——」
 
 あかりと別れてから、取材のときに渡された名刺を取り出した。そこにはフリーフォトグラファーと肩書を載せ、連絡先があり、「月のひかり」とタイトルのついたWEBサイトのQRコードが記してあった。

(写真家の仕事はいかに被写体の本質を捉えて、その魅力を最大限に惹き出し表現するか)

 酒場であかりはそう語った。カメラマンの撮った写真は、無意識に日常生活の中でかなり目にしている。だがあかりの言う表現世界というものをこの目でしっかり見ておかなければいけない気がした。

 あかりのサイトを開くと、これまでの活動の記録写真が掲載されていた。クライアントとアートとに項目を分け、クライアントの方には雑誌インタビューや製品紹介、料理、ウエディングといった依頼を受けて撮ったであろう写真の数々が並び、アートは旅先や日常のさりげない風景や人物の生活感が色濃く映されたような作品とも言える写真が見られる。
 一枚一枚ていねいに見ていくと、日常的に見慣れた写真が額縁に入れられた作品のように感じられた。

 若者の新規就農を特集したものでは、誇らしげに収穫する瞬間の表情や、仲間と食卓を囲んで顔をほころばせながら口へ運ぶ姿、ザルに乗せたトマトやキュウリやナスなど夏野菜は色濃くてみずみずしく、ザルを掴んでいるゴツゴツとしてガサガサとした両手は農業の苦労を物語っていた。
 エビとブロッコリーのクリームソースペンネは、エビはプリッと、ブロッコリーはコリッと、ペンネはモチッとした食感が伝わり、ふりかけられているパルメザンチーズが口の中に香るようであった。
 アートは、あえて画質を下げて郷愁感のある風景に妙な温かさを感じたり、逆光を利用して人物に紗のようなベールを被せて、シルエットで人物の美しさを想像させたりするのが分かった。

(月明りってさ、ホントはもっと明るいんだよね)

 ふと海岸でのあかりの言葉が、颯真の脳内に甦った。
 
 それから颯真は、漆黒の闇に浮かぶ月が見える場所を探し求めるようになった。ただ見れるだけではなく、その場所に暮らすことまで考えての行動だった。家族は別れてしまったし、ウィンドサーフィンも海沿いであればおそらく続けられる。この土地に居続けるよりもっと大切なことが、そこにはあるような気がした。

 仕事の合間を縫って、探し続ける旅は十年にも及んだ。
 ようやく見つけたその場所は本土と橋をつないだ小さな島にあった。見つけた空き家の裏手にある防風林を抜けるとすぐ浜辺に出られ、そこには人工的な光が差し込むようなものは何もなかった。

 颯真は移住を決心した。
この頃、付かず離れずの関係にあったあかりに短い連絡を入れた。

(星野が言っていた月の見える場所に移住します。住む家に困ったら連絡ください。部屋は用意してあります)

 それに対するあかりの返答はなかった。

 島暮らしをして三年、敷地に畑を作って農作業をしているところにあかりはやってきた。お互い還暦を迎えたころだった。
 颯真は屈めた腰を伸ばし、顔をほころばせて言った。

「おぉ、来たのか」
「えぇ」

 久しぶりに見るあかりは年相応に老いてはいたものの、変わらずに美しいと颯真は思った。

「住むのか?」
「どうしましょう。まだ決めてないの」
「そうか。ま、見てから決めたらいい」

 その晩、空はよく晴れ、いつか海岸で見たときと同じ満月が出ていた。
 月光に照らされ浮かび上がる浜辺を歩きながら颯真は言った。

「月明りってのはよく見えるもんだな。どうだ?」

 立ち止まり振り返ると、颯真は目をみはった。
 月光に吸い込まれるように見上げたあかりの横顔が、ひときわ明るく美しく輝いているように見えた。それはまるであかりそのものが月のようであると思わせるほどだった。思い返せば、ここでだれかと月を見上げるのは初めてのことである。あかりと同じように颯真自身もこれだけ明るく浮かび上がるのか、それともあかりが特別なのか、判然としなかった。
 あかりは優しく微笑みを湛えて言った。

「まぁまぁね」
「……そうか。そいつは残念だな」
「でも——飽きるまでは、ここにいようかしら。部屋はあるの?」
「あぁ、いつでも来れるように空っぽにしておいた」

 あかりはそれから、最期を迎えるまでの十数年間をここで過ごした——。
 

 月を眺めて思い浮かぶのはあかりの顔ばかりであった。
 ここでの暮らしを始めたあかりは写真家活動をこの地域だけに絞って、残りの時間は颯真の畑を手伝った。籍などは入れていない。高齢者となった二人にはそんな形式的な結びつきはどうでもいいものだった。

 家のあらゆるところにあかりの写真が飾られるようになり、颯真にとってはこれまでに感じたことのない賑やかな家となった。写真からは今もなお写真家としての矜持きょうじを感じられる。被写体の魅力を存分に惹き出す感性は、月が優しく照らし輝かせるそれとそっくり重なった。

 あかりは月そのものなのである。

 この世から去っても、毎夜ゆっくり形を変えて浮かぶ月と残してくれた写真があれば、いつでもあかりの優しさに触れることができる。それは人生の終末を過ごす日々にかけがえのない幸福感をもたらしてくれるものだった。

 冷え切った体を起こして、体に付いた砂をはらった。もう一度夜空を見上げ、白い息を吐き出した。

「今日も、きれいだ」

 颯真は一瞬、優しく月明りに包まれたような気がした。
 もしかしたらあかりがカメラを向けてシャッターを切ってくれたのかも知れないなと、颯真は思った。

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