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トントゥにご用心【ショートショート】

 たくましい体をした若い男が顔の汗を払うように拭い、立ち上がって室内から出た。

 ドアから一番遠く、且つ一番高い場所に座っていた老人は、体中から滝のような汗をしたたらせ、出ていく若者の後ろ姿を眺めながらこう呟いた。
「我慢が足らんな……」

 顔には多くのシワが刻まれているが、体の方はしっかりと鍛え上げられていて隆々りゅうりゅうとしている。口まわりには白いヒゲをびっしりと生やし、頭をツルリと剃りあげ、鋭い眼光で直立して腕を組むさまは、まるで老いてもなお戦場に立つ将軍のようである。

 老人はサウナが大好きであった。ただし、それは健康のためというよりは、我慢くらべに勝って優越感を得る意味の方が大きい。

 足しげく通っては浴場で居合わせた見知らぬ人々の品定めをする。これと決めたらその人物のあとを付いていって同時にサウナ室に入る。このときに声をかけたりはせず、相手に気付かれないようにさりげなく付いていくのだ。相手の座る位置を確認したら、己はドアから一番遠い場所で開閉に伴うひんやりとした外気を避け、高温になる一番高い場所を選び、より肉体的負荷をかける。わざわざその定位置にこだわるのは、最大限にキツイ場所で耐え抜かなければ完全勝利とは言えないからである。

 このようにして勝手な我慢くらべを始めて相手が先に室内から出ると、「まだまだ我慢が足りない」などと言っては己の忍耐力が他人より秀でていることを確認するのだった。

 誰もいなくなったサウナ室で、老人は大きく息を吐いてから目を閉じ、「骨のあるやつはおらんのかのう」と漏らした。

 サウナ室が忍耐強さを計るものでないことは心得ているつもりであった。あくまで健康促進のための一施設であり、個々の体調をよく考えて利用するべきものだという認識もある。ところがこの体に押し迫る熱気を感じると、途端に闘争心が湧いてきてしまう。こうなると、もはや中毒症状とも言えるほどに誰かと勝負せずにはいられなくなるのだ。

 これまで無数の人々と対戦してきて負けたことが一度もないのは自慢であった。ただ相手にしてみれば勝手に勝負の対象にされているだけで、対抗しようとする意識がないことに物足りなさを感じたりもする。

 老人は真っ向勝負をできることが理想で、直接声をかけて勝負を申し込んだこともあったが、当然ながらそんなことを受けて立つ人間はほとんどおらず、しつこくやり続けたせいで出禁できんになってしまったこともあった。そうしたことから、仕方がないのでこうしてひそひそと独り我慢くらべに\興《きょう》じているのである。

 ふと目を開くとすぐ隣に人の気配を感じて、横を見やった老人はたちまちギョッとしてしまった。

 サウナハットのつもりだろうか、サンタクロースのような赤いナイトキャップを目深にかぶり、長く白いヒゲをたくわえた、老人に負けじと劣らない筋骨隆々とした男だった。帽子とヒゲに埋もれて表情が判然としない不気味さと相まって、明らかに異質なオーラを放っている。

 いつから隣にいたのだろうかと、老人は思った。人の出入りがあれば、ドアが開けられたときにおもてのシャワーや湯の水音が聞こえるはずである。果たして己がボンヤリとしていたせいなのか、全く唐突に姿を現したような気がした。

 老人は正面に向き直り、また沸々と対抗意識が湧いてくるのを感じた。それも、これまでの経験上この人物は〈デキる〉と直感してしまったからだ。
老人はこのサウナ室に入ってからずいぶんと時間が経っていたにもかかわらず、どういうわけか熱さに慣れてしまいこのまま続行しても差支えがないような気がした。ランナーズハイにも似た高揚感こうようかん恍惚感こうこつかんにあふれ、どこまでも行けるような心地よさがあった

 それから老人は暗黙に勝負を始めた。

 しばらくの間、沈黙が続き二人とも微動だにしない。いつまで続けても苦しさを感じることがなく、ついに新境地に達したかと老人は思った。
どれほどの時間が過ぎたのか、ずっと二人しかいないこの空間で老人は口を開いた。

「ずいぶんと長いことられますな。大丈夫ですか」
返ってきた声は思いがけず、子供のように甲高いものだった。
「ぼくはここの住人だからね」

 厳めしい風貌からかけ離れた声音に驚くとともに、〈住人〉という言葉の意味を、老人は理解できなかった。

 すぐ言葉を継げずに男を見つめていると、その体には汗ひとつ浮かべておらず、湯気のような妖気を放っていて浮世ばなれしているように感じた。

「なるほど……住人と言えるほどに慣れ親しんでおられるんですな。ご立派です」
 男はその言葉に同意も否定もせず沈黙している。老人はなんとなく気まずくなり無理に会話を続けた。

「あなたのような方を待ち望んでましたよ。ちかごろの者はどうも根気がなくて退屈をしておりました。ようやく出会えて嬉しい限りです」
「そうなの?」と、意味深な雰囲気を漂わせる感じで男は答えた。表情は相変わらず読めないが不敵に笑みを浮かべたような気がした。

「きみはぼくと出会わない方がいいんだけどなあ————」
 もったいぶるようにして返す言葉の一言一言が、やけにじれったかった。老人はこの男とこの先も関係を繋ぎとめておきたくなって訊ねた。

「あなた、お名前は?」
「トントゥ。人間はそう呼んでいる」

 ————トントゥ?
 耳慣れない言葉だったが、どこか聞き覚えがあった。
 しばらく記憶を探っていると、それが説話かなにかに登場するサウナの妖精だと思い当たった。
 男は老人の心を見透かしたように立ち上がった。

「きみは見えてはいけないものを見ている。それがどういう意味かわかるよね? はやく目を覚まさないと、きみ死んじゃうよ」
 そう聞いたなり老人は深い闇に閉ざされてしまった。

 闇が裂けると、そこには覗きこむ人々の顔ばかりが映った。「意識を取り戻したぞ」という声がどこからともなく耳に届いた。


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