観るのが辛くない・・・映画「老ナルキソス」評、その1

私にとって、この映画の一番良いところは、安心して観れたということ。言い換えると「ゲイということがおもちゃにされていない」という感覚。

この映画には「ゲイという自分と違う他者を揶揄しよう」とか、あるいは「過剰にドラマティックな存在にしよう」という意図がない。

そしてこの映画を見た後、今まで映画やドラマの中で、同性愛者がどれだけそのような視線に向けられていたかと言うことを改めて実感した。

私には、ゲイの登場する映画やドラマ・・・最近だと「きのう何食べた」や「おっさんずラブ」・・・を見た時、傷つく感じがあった。ゲイということが、異性愛者の人々によって面白いこととして消費されるという感覚。だからそういう作品を楽しむには、そこは見ないことにしないといけない。

例えば、前にも書いたけど、ドラマ「きのう食べた?」の主演の内野聖陽さんは、第101回ザテレビジョンドラマアカデミー賞主演男優賞 受賞インタビューで、以下のように言っている。

男女のカップルならベタになってしまうところも、男性同士だと笑って見ていられる。

なんで「男性同士だと笑って見ていられる」の?

(私は、このインタビューを読んだとき、「『きのう何食べた?』を観ると(ゲイが)うっすら笑われているような気がしたんだけど、気のせいじゃなかったんだ・・・」と妙に納得した。)

これは、外国の人が撮った日本を舞台にした映画に日本人が感じる違和感に似てると言ったらわかりやすいかも。例えば「キルビル」を見ると最初の方のアメリカでのシーンには、ファンタジーでありながらも日常との連続性があるのだけれど、日本に来ると一転、完全なファンタジーの世界に突入してしまう。面白い国「日本」の面白い人たち・・・

もちろん日本でマジョリティーとして生きている人は、それをただ面白いと思って見ることができるかもしれないけれど、海外で日本人としてマイノリティーである体験をしたことがある人には辛いと感じる人もいると思う。「面白い日本人」はフィクションであっても、自分の日常と全く無関係ではないんだよね。

今は、かなり違うんだけど、昔(1990年代くらいまで?)のアメリカの映画やドラマだと、アジア系の人物が出てくるだけで、「あー、これからこの人笑われるんだろうな」と思うような時代もあった。ゲイについても、アメリカでもその頃までは「笑われ要員」扱いことも多かったと思う。(そうでない作品も登場していたけれど)

ゲイやアジア系に限らず、マイノリティがテレビや映画の中で笑われるってことは、世の中に対する「この人たちは笑ってもいい」というメッセージになってしまうと思う。

「ゲイ=笑い」みたいなドラマや映画は、今ではアメリカだけじゃなくて日本でもかなり減った。でも、シリアスなドラマや映画でも、ゲイってことが(直接的な笑いじゃなくても)「面白い」とか「ドラマティック」なネタになってるものはたくさんある・・・というかほとんどかも。たとえば先日書いた、映画「エゴイスト」に登場した、原作のリアリティを削ってまで作られた「(ストレートの)僕が考えた素敵なゲイ」とか。あと、世の中に溢れてるいわゆるBLは基本的にはそうだと思う。

とはいえ、「きのう何食べた?」や「エゴイスト」が大好きというゲイの人はたくさんいる。そもそも、ゲイを肯定的に描いていてるってことだけでありがたい、と思う人もいるし、さらにそれを自分の好きな感じのかっこいい俳優が演じているということなら本当に嬉しいだろうと思う。私は、そういう人に対して、今書いてるような持論をいわない(ようにしている)。(「エゴイスト」6回観たというのに、私の話を聞いてくれた人、本当に人格者だと思う。)
私が批判したいのは、その人たちじゃなくて、作る側の人たちなんだよね。そして、わかってくれるかもしれない人たちに自分の考えを伝えたい。

つづく(次回はもう少し、具体的な話をします)。

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