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推しを現世に降ろしてる推し(と呼んで良いのだろうか)を目撃した「舞台 モノノ怪〜座敷童子〜」のろくろ。


どうもどうも。お久しぶりの妖怪です。

アウトプットのし過ぎと労働による疲労で言語能力が衰えてしまったので、リハビリを兼ねて軽くろくろを回します。

今回は3/21、4/5に観劇した「舞台 モノノ怪〜座敷童子〜」のろくろを回していこうと思います。
が、人によっては批判的に読めてしまう部分があるかもしれないので、少しでも嫌な気配を察知したらペッしてください。

どうぞよしなに。

余談ですが、これが解禁された時、私は村正双騎のグッズを携えながらエダニクに向かっていたんだよな…
動揺と興奮のあまり、ボディピアス(ちょっと高い)をひとつ無くしたのも良い思い出です。

【以下ろくろ回し】

いや〜〜重いですね!!!

物語のあらすじを10行以内に収めると、

元女郎屋の宿に、身重の志乃がやって来るが、宿は雨を凌ぐ客で既に満室。
しかし、志乃は仕えていた家に雇われた殺し屋・直助に追われていたため引くに引けず、状況が状況ゆえ渋々折れた女将・久代にいまは使っていない部屋を案内される。
だがそこは只の部屋に在らず、女郎屋時代に堕胎部屋と供養の間として使われていた部屋で…

というもの。

こんな感じではあるものの、後味は悪くなく、勧善懲悪という面も少なくて比較的ハピエン寄りな物語だったと思います。
けど、それぞれのバックボーンであったり、場の成り立ちとかが絡みに絡んで大変なことになってる(?)ので、
それに触れられた時の感情の爆発力が凄まじくて、度々情緒を持っていかれそうになりましたね…

個人的に、座敷童子・イチ(演:高山孟久さん)が殺意に溢れながらも、徳次へ向けた嫉妬と、若き久代(演:井筒しまさん)から受けった愛情に葛藤するさまがとても好きです。

あれは濃度が高い苦しみでしたね…

確かな言葉として与えられることはなかったものの、行動で示された愛って不確かだから、
事実として在る「憎くて羨ましくて仕方ない徳次への感情」の方が発露は容易なんですよね。
でも徳次という存在には、久代が自分を堕したことに対して後悔の念があったという事実も同時に存在してるから、
大変複雑で苦しくなる。

全体の所感はこんな感じ。

ここからは、モソモソ詳細を連ねていきます。

今回の演目は「観劇して泣く泣かない」の差がとても顕著だな〜〜と思いました。
演出や物語の刺さり方が極端というか、一般(?)の舞台での感想には「共感はしないけど理解はする」というのが通用するイメージだけど、
今回の物語は「共感もしないし理解も難しい」というのが成立してしまうような、
観た人間の根幹にあるものが透けて見えそうになる危うさがあるように感じた。

お察しの通り私は泣いた

語弊が生まれないように、ここを掘り下げる前に簡単にタヌキさんのステータスを開示しますね。

・モノノ怪は〜ayakashi〜含め全て5周は見てる。

・コミック版も履修済み

・子どもだとか血のつながりというものに思い入れがない(寧ろ苦手とすら感じてる)

という感じです。

なので、この「泣いた」はどちらかというと、
観劇につきものである半ば強制的な感情の揺さぶりによるものだと思う。

各々のつんざくような悲鳴だとか、冒頭の徳次が不安気に歌うところであったりとか、志乃さんとフクのやりとりだとか。
瞬時に理解できる・感じ取りやすい情報によって、反射的に涙が出てきてたというのが近い。

物語をなぞって、考え抜いた先に辿り着く自分なりの答え〜ではなくて、物語と座組の掌の上で踊るような感覚。

ストーリーに泣かされたというとはまた異なるものだった。

ここからは、物語そのものへの解釈や印象を連ねていきますね。

第一印象としては化猫と全然違うやんけ!!!です。

ツイの方では、絶賛するわけでも批判するわけでもなく、ぼんやりとその時感じたものを漠然と並べるだけに留めましたが、
正直これは人によっては受け入れ難いものがあるだろうな〜と感じはした。

そもそもの物語が違うのもありますが、雰囲気や薬売りそのものが何もかも異なっていて、
「果たしてこれは本当にあの延長線上にあるものなんだろうか…」と思わず構えるというか、若干懐疑的になる。

私は「観測者として物事を淡々と見つめ、しがらみそのものや場の清算を行うのが薬売りという存在」だと解釈しているんだけど、
今回の座敷童子はどちらかといえば、わかりやすい人間らしさというのが付与されているなという印象を持った。

原作の薬売りに人間らしさや、感情がないと言いたいわけではないんですが 、

(原作の座敷童子も、壁を撫でる描写があったり、座敷童子を斬る時も化猫で見せた派手な立ち回りがなく、最低限の一太刀で済ませたようなサラッとしたものだった)

言葉のないシーンの余剰でしか垣間見えなかったそれらが、わかりやすくオーバー気味に描かれているようにも見える。

想像の余地がないと言うと語気が強いなと思うけど、原作のように「言及されていないからこそ想像を巡らせる」というアクションを起こせるほどの余白がない。

姿形、声、所作、全てが薬売りさんだけど、これは別個体の薬売りさんなんだな、と感じてしまうほど。

私は「これは『舞台の薬売り』であって、原作やコミックの薬売りとは異なる存在」だと認識したので、その違和感を引きずることなく物語を見届けられたけど、
ここが人によっては消化不良を起こす部分のひとつなんだろうなと思う。


なんだかこれだけだと、物凄く批判的というか、
斜に構えたような感想ばかりになってしまうな。

そう。徳次(演:西銘駿さん/白又敦さん)と少年徳次(演:大平峻也さん)の話もろくろ回したいんですね。

私は初日と4/5のソワレを観劇したんですが、
これがもう全然異なる徳次で面白くて仕方なかった

西銘さんの徳次は、どちらかといえばコメディ寄りで、無知を自覚することなく「やれと言われたからやる、言われなければやらない」的な現代人っぽい雰囲気を感じたんですが、
白又さんの徳次は、そこに純粋さであったりとか、肉付けされた部分から膨らませた人間性、
さらには座敷童子が見えている/見えていないの違いもあったんですね。

座敷童子が見えている/見えていないの違いは、そこに設定の自由度が設けられているのに驚いたというか、
「そこの違いってアリなんだ!?!(あの薬売りなら『お前も見えてるのか?!』とか突っ込みかねないため)」とも思ったんですが、
白又さんの描き出す徳次なら、あり得ない話ではない。
むしろ見えていた方が自然と思えるほど純粋で、
子供ならではの「無垢な残酷さ」みたいなものが映える造り方をしてる。

この2人の徳次の違いは、少年徳次(演:大平峻也さん)にも表れてる。
それぞれの徳次の裏付けになるような、大平さんの芝居だけで、どちらの徳次かわかるようなものになっていて、芝居の面白さを噛み締めると同時に
「この座組は、解釈の擦り合わせとか、そういったもののコミュニケーションがきっちり取れる場であるんだな…」という謎の安堵を感じた。

そういう場って現代では割と稀有なので…

上の方で連ねたように、今回の座敷童子は、
「想像の余白が少なく、見たものを受け止めて感情の起伏や芝居を味わうようなものだった」と感じているので、
大したろくろが回せないのが正直なところではある。

正解が分かり易いので、自分の中から「自分の解釈」というのが生まれにくく思える。

情報解禁当時に想像した「モノステ」とは大きく異なっていたけど、私が観たいと願った薬売りさんは確かにそこに存在していたし、
モノステという座組の進化や、舞台「モノノ怪〜座敷童子〜」という物語は、本当に素晴らしかった。

ぜひとも鵺でうっかりしている薬売りさんを拝みたいし、海坊主で露呈する人間の悍ましさを芝居で浴びたい…

以上!解散!

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