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METライブヴューイングファルスタッフとほんの少しだけ関係のある散文

先日ヴェルディが晩年に書いたファイルスタッフを、METライブヴューイングでみた。
4月1日に上演した分が5月にみれるので、
最新の衣装、舞台の様々なバランス、
多様な人種のキャスティング全てを楽しんだ。

METの劇場は素晴らしい。
しかしながら、個人的な好みだけでいくと、ヨーロッパの劇場に軍配をあげざるを得ない。歴史を感じる重厚な建物が、勝手に自分に語り掛けてくるあの感じがたまらなく好きだ。

METとも対話ができる自分でありたいが、
たぶん何か自分に足りないものがあって、ダイアローグが成り立たない。

出演者に黒人やアジア人も入っているのをみて自分は「今」を生きているのだなとつくづく思う。このキャストなら全て受け入れてくれそうなMETがふさわしいのかもしれない。
ヨーロッパの主な劇場でも最近はミックスキャストがスタンダードなのだろうか。

さて。ヴェルディに断ることなく、勝手に長めの食事休憩をさせてもらった。長いので全部はみれず。

当時の人だって、毎日色んな事がおきるのに
芝居見る日が決まっていて、そこに自分を合わせていかなきゃならんのは大変だったと思うし、全部見れない人がいても別にいいのではないか。

雑念が脳内に蔓延る中年なので、その日、1幕終わって物語が心に入ってこなかった故。

物語の設定は昔だが、喜劇で男女の心の移ろいを描いているそうしたテーマのオペラ作品は非常に多い。

テーマ自体は古代ギリシアの戯曲も光源氏の話も、今も全く色あせないように本当に普遍的なテーマである。

深く物語を描こうとすると、過去の古典にあたるという手法を無視できなくなり、現存するあらゆるメディアのほとんどの物語が、ここを下敷きにしている事に気がつく。

引用元が深く辿れば、オデュッセイアとか、シェイクスピアとかすぐ出てこればいいのだが、教養が足りない分は調べるしかないのである。

こうした教養のある、と言われる各種の体系だったものが頭にある方との会話に近いものが、チャットGPTで成り立ちつつある。

これが叶うのは悲劇か喜劇か。

ヴェルディの人生最後の作品は喜劇、このファルスタッフだったようだ。

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