文学は、聖域ではない
時間とか金ではなく言葉
とりあえず今日も書き始める。時間も金もない。そういう訳で立ち止まっている暇はない。
或いは、今までは時間とか金とかを基準に生きていた。ただ、最近では少し違う事を考えていたりもするが。
気になっているものは、率直な話言葉だ。そもそも、ぶんがく、という名前で書いているのにそれに気が付かないというのもおかしな話だ。
最初から自分は、言葉それ自体をテーマにしていた。しかし、自分でそれに気が付いていなかった。結局自分は、これからも言葉を問題にして行くのだろう。
そう言えば、一昨日投稿した記事のスキが意外と伸びていた。割と皆さん、言葉とか文学とかに肯定的である。
最も重要な事はコミュニケーションであると最近では思っているが、自分はそのコミュニケーションに言葉は必須だと思っている。
本を読まなくなって、SNSやネットで文章を読む機会が増えた
そういう訳で、テーマは相変わらず文学であり言葉である。自分で気が付く前からそうだったので、それはある程度得意分野であると言えるかもしれない。
それにしてもこうして書き進めている文章は、どのくらいの価値があるのだろうかとか、そういう時に金額的に幾らだとかどのくらい時間を費やしているだろうかとか考えてしまう。
そういう打算で動いている自分はどうなのだろうとも思うが、相変わらず時間も金も重要だ。だから仕事にも行くし、無駄な時間は削る。
それでそうして無駄な時間は削っているけど、そうしたらここ何年か本を読まなくなった。それに対してSNSやネット等で文章を読む機会が増えた。
例えばnoteやXで他の人が書いた文章を読んだりとか。新聞は、未だに電子版で読んでいるが。
文学は聖域ではないが、時間とか金の問題を迂回するものではある
結局、ぶんがく、と名乗っているが本も読まない。それくらい時間がない。或いは、金もない。
生活の中から無駄なものは削って行く。時間と金の節約だ。文学も聖域ではなく、時間とか金に侵食されている。
現実的に考えて時間と金は重要だ。しかし、それはただそれを追っていれば得られるというものではない。
時間も金も、他の事に打ち込んだ結果得られるものではないのだろうか。自分の場合とりあえず仕事に打ち込んだ結果収入を得ていて、本を読まない生活をして時間を確保している。
それで結局、今回何が言いたかったのだろうか。それは或いは、こういう事だ。
自分は相変わらず文章を書く事や読む事から、時間や金の問題を迂回して生きている。時間や金は重要だが、自分にはそれを迂回するものが文学でありそっちが寧ろ重要だった。
そして、それはコミュニケーションとか自己表現とか呼ばれるものに密接にかかわっているようである。
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