ヴァサラ戦記非公式外伝《拳神伝》エピソードオブファンファン第三話

「…。強いですよ。」クガイは言った。
「端的に…化け物です。」ツキも言った。
「ありゃあ…無理だな。」カルノすら言った。
経歴も性格も、何もかもが異なる三人は、質問に対して殆んど同様の答えを示した。

クガイは、頭にきつく包帯を巻いていた。
彼の全身を見れば、あちこちに湿布が貼られている事、脚をギプスで固定している事など
一瞬で判る物だが、それでもパッと見て一番目立つ変化は、彼が整っている顔と派手な髪色であるからか、やはり頭部の処置である。
ハズキの診療室のベッドに寝ていた彼は、ファンファンとオルキスが一声掛けて備え付けのカーテンを開くと、既に上体を起こしている状態であった。
二人の顔を交互に見やった彼は何かを直ぐに察した様子で、聞かれるよりも先に、開口一番でただ、「…。強いですよ。」と言った。
クガイがここに運び込まれたのは昨晩の事。
―頭から血を流して気絶している彼を、スイヒという新米の隊員が背負って連れて来た。
桃色の髪で、額に特徴的な入れ墨がある、可愛らしい顔の少女だった。
彼女の談によると、たまたまパトロールで繁華街を通り掛かった時に悲鳴が聞こえたので、何事かと駆け付けてみると、そこにクガイが居たらしいのだ。しかし彼は頭部から大量に流血して既に意識が無い状態で、水色の髪の女性に背負われていたと言う。その状態で建物の地下階段から現れて来たので、目撃して驚いた女性が思わず悲鳴を上げた―と。
クガイと以前から面識の有ったスイヒは、水色の女性を不審に思い、周囲の人間を退かせてから彼女に剣を向けた。
彼をどうしたのか、なぜこんな事になったのか、色々と質問は尽きなかったが、
“この綺麗な女性がクガイをこうしたのだ”という事に関しては、一切誰かに説明を受けた訳でもないのに、疑問を持たなかった。
クガイは任務中にも関わらず常に酒を持ち込むろくでなしだが、ただの間抜けでは無いし、何も考えていない気楽な人間ではない。
何より、下手すれば隊長格にも届きかねない程の実力者である。酒で判断力が鈍っていたか、油断していたか。それも、クガイのたぐいまれな強さが否定していた。
しかし―何故。だったら尚更どうしてクガイは敗れたのか。どうしてあんなに気の良くて頼れる兄貴分がこんな目に遭っているのか。
スイヒは納得出来なかった。普段は大人しく引っ込み思案な彼女は、今回ばかりは表情に怒りを滲ませていた。
「どうしてこんなことを…」
スイヒは水色の女を睨み付け、怒りを噛み潰す様に、声帯の震えを圧し殺す様に言った。
対して、女の取ったリアクションは弁明でも降参でも無かった。透き通った蒼玉の瞳を細めて、愛おしむ様な艶っぽい―しかし同時に酷く恐ろしい微笑みを浮かべたのである。
「―真好看。」
そう言って自分の唇をペロリと舐めて、クガイを背負ったままスイヒに近付いた。
武器を持っているのはスイヒの方なのに、手が細かく震えているのもスイヒの方だった。
普通なら、刃物を向けられた人間は怯える。
寧ろ鍛えている人間ほどその恐ろしさを知っているから、背中を無防備に晒して逃げたりこそしないが、斬られる隙を与えない為に、刃物やそれを持つ手、その視線を注意深く観察する事で、恐れはしなくても警戒はする。
だが、この女は違った。まるでスイヒが剣等持っていないかの様に、剣等見えていないかの様に、スイヒへとゆったり近付いて来る。
微笑みを絶やすこと無く、ゆったりと。
―或いは、刃物など、彼女にとって一切の脅威では無いのかもしれなかった。
一歩彼女が近付くごとに、スイヒの心臓は大きく跳ねた。だんだん手の震えも大きくなって、どれだけ力を入れても消せない。
いっそ目を逸らして逃げ出してしまいたい位だったが、スイヒの残り僅かな勇気だけが、彼女を其処に止めていた。
斬りかかる隙なんて、両手がふさがっている筈なのに、女の何処にも無かった。寧ろ、スイヒが一歩踏み出す事さえも、命取りになる様な気がした。
そうこうしている内に、女はスイヒの直ぐ目の前まで来ていた。
「…っう…」
声を上げそうになるのを、必死で堪えた。
女はスイヒにグッと顔を近付けた。耳元だ。
女の髪から、とても良いラベンダーの薫りがスイヒの鼻腔に届いた。冷たい吐息が耳からうなじに掛かってこそばゆく、何故か恐ろしくて仕方無いのにドキドキした。もし、美女に化けている大蛇が現れたなら、こんな感じなのだろうか。生殺与奪の権は完全に握られているのに、蠱惑的な魅力に囚われている。
ゆっくりと自分の身体は巻き付かれ、締める力をじわじわと強められている。今すぐ逃げ出さなければ確実に死が訪れるだろうに、本能が諦めてしまっているのか、指先すら言うことを聞かない。そんな内にも大蛇は口を大きく開いていて、鋭い牙と赤い舌が覗き、息遣いが顔に掛かっている。そう感じた。
生きた心地がしなかった。
永遠にも感じられる数秒が続き、一言。
「…ツヨイ?」
スイヒはその一言だけで、心臓を握り潰された様な心地がした。勝手に脚が崩れ、地面にへたり込んでしまった。ずっと構えていた剣も、手に全く力が入らず、落としてしまう。
そんなスイヒの情けない姿を見て、美女はゾッとする様な笑みを解いた。
「…我很高兴你很弱」
変わりに、何処か安心した様な柔らかい微笑みが、その顔に浮かぶ。何故か、その目だけは、ほんの少し残念そうでもあったが。
「帮助他」
そう、スイヒの肩に手を置いて、真っ直ぐに彼女の目を見つめて女は言う。
「…あぇ?え…?」
女は背中からクガイを下ろして、そのまま何処かへ立ち去ってしまった。
スイヒは暫くその場で座ったまま呆然としていたが、少しして我に帰って、クガイを背負って息を切らしながら診療室に到着して、そして現在に到るのだという。
ハズキはその時、諸用で外出していたので、
治療には留守を任されていたアンという隊員が当たっていた。外傷を治癒するのに適した特殊格の極みを発動させているので、アルコールで充血した頭部からの負傷という危険な局面に有ったクガイは、そこまで危うげ無く意識を取り戻したらしい。
目覚めるなり、アンと心配の剰りか涙目になっていたスイヒから質問責めを浴びた彼は、
酷く心配を掛けてしまった事に関しては詫びたものの、肝心の負傷の原因は、何か思う所があるのか断固として語ろうとしなかった。
帰還したハズキが訊ねてもクガイがその態度を改める事は無かったので、昨夜起こった他三件の襲撃事件との関連性を疑われて、どうやら訳知り風のオルキスとファンファンが、彼のもとを訪れたのだった。
そしてクガイは二人を見るなり直ぐに、冒頭の言葉を言ったのだった。珍しく完全に酒が抜けているので、真っ直ぐな目付きだった。
「…と言うか、どうしてベニバナの美人店主さんが此処にいるんですか?」
「…。ワタシが聞きたい位だな。自分の店が襲撃でもされなければ、あんな野郎には絶対に関わりたくない…。何が拳仙だ…」
オルキスが舌打ちし、忌々しそうに呟く。
「…拳仙!」
クガイは目を見開いた。
「なるほど、これはビンゴだな。ファンファン。既に拳仙の目撃情報が二つだ。」
「…。何か、あの子について知ってるんですか。」
「イヤ、ほぼ何も知らないヨ。知らないからこそ、こうして話を聞きに来タ。」
クガイは、少し残念そうに肩を落とした。
「分かっている事は、拳仙を名乗る拳法家が四人、この国に渡って来ている事、強者との戦いを求めている事、それだけヨ。」
「…。二つ目と言ってましたね、えっと…」
クガイはオルキスを見ながら、思い出そうと指先で空中にぐるぐる輪を描いた。
「オルキスだ。」
すかさず答えた。
「オルキスさん。彼女以外に、既に知っている一人目がいるんですよね。」
「あぁ。そうだ。」
腕を組んで、オルキスは頷く。
「そもそも、ワタシもファンファンも、そいつ以外の拳仙を誰一人として知らん。今ので、二人目が女性だと知った程度だ。」
「他の拳仙は何をしているんですか?」
「お前の状態を見るに、誰に対しても同じ様な目に遭わせているらしいが。」
オルキスはフッと笑った。
「捜しているんですよね?」
「聞いている時点でそうだろう。いなくなった猫の目撃情報だけ集めて、捜さない飼い主を見たことがあるのか?」
「見付けて、どうするつもりですか?」
「お前と街の警邏隊一名、ワタシの同期が一名、ワタシの店の常連が30名、拳仙という奴等にやられている。」
クガイははぐらかされた様な怪訝な目を、オルキスに向けた。
「殺すという意味だ。全員が奇跡的に一命を取り留めたから、殺すだけで赦してやる。」
視線だけで押し潰す様にして、言い切った。
「取引です。俺の知っている限りの情報を話すので、彼女は見逃してくれませんか。」
語尾に、同意を請う様なクエスチョンマークは付いていなかった。
「話に為らんな。これはお前の一存でどうにかなる問題では無い。」
オルキスはこれに一切応じようとしない。
「…貴女が戦う様な口振りですね。」
「…ほう。既に引退した身だが、手負いのお前を殺す位は容易いぞ。」
決して脅している様な口調では無かった。
「馬鹿言ってるんじゃ無いヨ。協力して貰う立場だって事、忘れちゃ駄目ネ。」
ファンファンは、剣の柄に手を伸ばし掛けていたオルキスを制した。
「何も手掛かりが無い状態アル。些細な情報でも助かる。望みを全部聞けるかは解らないケド、出来るだけ応じたいネ。」
「…。」
「既に拳仙とは、私と戦う代わりに他の誰も襲わない約束をしたヨ。」
「…根拠は。」
「見せられる物は無いネ。ただ一つ。拳法家は嘘をつかない。」
クガイは慎重に疑り深い視線で探ったが、ファンファンの濁り無い目を見て、取り敢えず信じる事にした様だ。
「…先に、約束して貰えますか。」
「…。あんな奴等に約束も糞もあるものか。」
「…オルキスは少し黙ってるがヨロシ。」
突っ掛かったオルキスが、ファンファンを鋭く睨み付けた。
「直接では無いけど、客の大半は私の部下でもあるヨ。怒りはお前の専売特許では無いネ。」
ギリ…と、オルキスの歯軋りが聞こえた。
渋々ではあるのだが、何とか怒りを飲み込んだ様だった。苦虫を噛み潰した様な―という表現が、この場合は最も適切であった。
何も、オルキスは嫌がらせや当て付けをしたい訳では無い。元部下や、目に見えて馴れ合いはしないが、友人の様に気に入っている常連達が、目の前で半殺しにされているのだ。
その上、これ以上の被害者を出さない為とは言えど、全員の相手をファンファンがする約束を結んでいる以上、自身が仇を討つ事も出来ない。誰に向けるべきか明確に解っている怒りを、誰に対しても振るえないのだ。確かに、拳仙の興味はファンファンにしか無い。隊長を何名か動員すれば、恐らく収まるであろう事態だが、今ファンファンが提示している物の他に、全員を守れるアイデアは無い。
もし衰えている自分が出張って、確実に勝てる保証は無い。それどころか、此方から約束を反古にしている以上、一般市民を捲き込むという最悪な事態に陥る可能性もある。彼等は暴れる良い口実が出来たとして、嬉々として罪無き人々にも猛威を奮うだろう。それらを加味して出した提案なのだ。本人は決して口に出しはしないが、この約束は、黒い拳法着の男と確執の出来たオルキスの身を、守ってもくれている。オルキスの矜持とメンツを傷付けない為にそうとは言わず、敢えて利き腕を負傷してまで剣を止めて一度恩を売り、自分が全て背負う形で飲ませたのだ。
其処まで解っていながら、何も出来ない自分が、腹立たしくて仕方無かった。何も悪く無いファンファンに当たってしまう自分が情けなくて、胸が締め付けられる思いがした。
そんな身悶える葛藤の末、オルキスは爪が掌に食い込む程強く手を握って、
「……済まない。」
そう言った。握った指の隙間からは、紅い血がポタポタと、床に滴り落ちた。
「クガイと出逢った拳仙の女は、まだラッキーな事に一般人には手を出していないアル。」
ファンファンはクガイの目を見て言った。
「それは俺が」
クガイが口を開いて何かを訂正しようとしたが、ファンファンはそれも遮って続けた。
「首を折られていたチンピラは、薬物使用と恐喝・暴行の常習犯で、過去に幼い子供も殺していた外道ヨ。指名手配が出て、彼処の店に潜伏した矢先にああなった。ツケが自分の所に返ってきただけネ。」
そう締め括って、彼は微笑んだ。励ますのが苦手な、ファンファンなりの気遣いだった。
それがどんな屑であれ、敵でない人間が目の前で死んで気分が良いクガイでは無い。子供好きの彼にとって、チンピラが死んでも良い口実を与えて、口には出さない物の、同時に女の行いもフォローした発言でもあった。
「…」
クガイは馬鹿ではない。また、ファンファンの然り気無い気遣いが理解出来ないほど、
野暮な男でも無かった。
「……ありがとうございます。」
言葉で大袈裟に飾り立てるのも最早失礼に当たる気がして、クガイはそれだけに万感の思いを籠めて言った。
「例は良いヨ。まだ何もしてナイ。」
目の前で手を振り、ファンファンは返した。
「出来るだけの事はするヨ。でも生かして決着を付ける程の余裕があるかは、分からない。それはその女の―」
「コン チュエ、という名前でした。」
「コン チュエの行い次第ネ。私も彼女をなるべく殺さない様に努める。でもそれ以上に、彼女に誰も殺させない事が最優先ネ。」
確認する様に首を傾げるファンファンに、クガイは寧ろ頭を深々と下げた。
「それは寧ろ、俺からお願いします。これ以上あの子に、あんな事をさせたくは無いです。」
ファンファンは深く頷いた。しかし数秒経ってから、ふと思い出した様に呟いた。
「どうして、出逢って一日と経たない拳仙―…コンチュエの為に、そこまで言うアルか?」
そう言えば、当然の疑問であった。クガイの有無を言わさない真剣な態度に、オルキスは突っ掛かりこそはしたが、疑問は持っていなかった。冷静なファンファンとてそうだ。
「あー…そうですね、」
クガイはそう聞かれて初めて、やや固く重苦しい表情を崩した。代わりに何処か気まずそうな、言い出しにくそうな顔をする。
「まさかお前、昨日会ったばかりの人の為にそうまで言うお人好しアルか…?」
ファンファンは俄には信じがたいといった、驚いた表情を浮かべた。
「それを今言うって事は、殆ど殺される寸前まで行ってもまだ赦せるって事アルか?」
疑念はまだまだ尽きないらしく、ファンファンはまだ問を重ねる。
「そもそもどうして」
「止めろファンファン。“こういうの”は理屈じゃないんだ。其処までにしてやれ。」
オルキスはいたたまれず、咄嗟にファンファンの発言を遮った。納得がいかなそうな表情の彼をそのままに、クガイへと向き合う。
「クガイ。其処まで惚れたんだな?」
「……そうです。」
クガイは両手で顔を覆った。それでも恥ずかしさが収まらないらしく、初恋を言い触らされた少年の様に、顔を布団に埋めた。良い年をした青年には似つかない行動だが、クガイの整った外見がそれを赦させていた。
オルキスも内心、気持ちは理解出来ないものの、少しだけ彼を可愛らしいと思った。
「だったら他に言葉は要らん。これ以上は追及しないから、そのコンチュエとやらについてワタシ達に教えろ。」
「でもそれってちょっとおかし」
「ファンファン。お前は少し黙っていろ。その調子だと、もし誰かに想いを寄せられていても、お前は絶対に気付いていないだろうな。」
これではさっきの真逆だと、見ていたクガイも可笑しく感じて笑った。
「ン゛ッ!!…で、どんな人アルか?」
咳払いで何とか気を取り直して、ファンファンがクガイに聞いた。
「綺麗な水色の長髪に…」
「そう言う事では無い!!」
クガイはわざと言ったのだろう。オルキスの鋭い突っ込みに、声を殺して笑っていた。
「…すみません、冗談です。隊長が使う言葉で云うのなら、恐らく彼女は柔の拳の使い手で間違いないと思います。」
今度こそ、クガイは真剣な表情をしていた。
「柔の拳…。ナルホド。」
ファンファンは、あの男は豪の拳の使い手らしかったな、と回想した。
「それにしても、こっぴどくやられたアルな。外傷をあまり付けるタイプのスタイルじゃないハズだから、少し不思議ネ。相手が下手くそだったらそこまでボロボロになるかも知れないケド、お前より強いんだからそんなハズも無いヨ。」
ファンファンは尚更不思議そうだ。
「信じて貰えるか分からないですけど、俺からは全く攻撃を仕掛けなかったんですよ。」
「抵抗しなかったアルか?」
「剣を持って無かったんですよ。……いや、有っても使いませんでした。体術も結構イケるつもりだったんですけど…」
「防戦一方だった…と。」
「……はい。情けないですね。」
「そんな事は無いぞ。どうやらファンファンと過去に肩を並べたほどの実力者らしいからな。形を保っているだけで誇れ。」
意外な事に、オルキスがフォローを入れた。
「いきなり人格が変わった様な狂気的な表情に変わって、蹴りや突きを繰り出して来ました。会話する間も無かったです。」
「……。成る程な。」
オルキスもファンファンも、黒い拳法着の男が暴れる際に見せた、獣の様に凶暴な表情を思い出していた。あれは拳仙に共通する、特有の性質なのだろうか。
「でも暫くするとその連撃が止んで、脚を払われました。咄嗟に受け身を取ろうとしたんですけど、地面に着いた手ごと身体を蹴り上げられて。空中で首を掴まれて、恐らく机の角に叩き付けられたんだと思います。」
「そこで意識が途絶えたんだな?」
オルキスの確認に、クガイは頷いた。
「あの最後の技のキレを見るに、多分、最初の連撃は様子見か何かで手を抜いてました。」
クガイの声は、少し落ち込んでいた。
彼の全身に貼られている湿布は、きっと治療を受けてもまだ消えていない、よほど濃い痣を覆っているのだろう。
やはり拳仙といった所か。様子見ですら、隊長格にそう劣らないクガイの身体に、そこそこのダメージを与えているのだ。しかも彼女は柔の拳の使い手なのだから、蹴り等のシンプルな打撃は専門外の筈だ。末恐ろしいと言う他に無かった。
「分かったヨ。コンチュエがどう思っているかは兎も角、私に出来るだけの事はするネ。」
ファンファンはクガイの肩に手を置いて、
固く約束する様に深く頷いた。

二人が次に訪れたのは、街の外れにある警邏隊の本拠地だった。今回の拳仙襲撃事件の二人目の参考人は診療室ではなく其処に居た。
ドアを叩くと、おっとりした声の女性が応対してくれた。亜麻色のふんわりとした髪で、若くて、綺麗というよりは少し可愛らしい寄りの顔立ちだが、その外見の何倍生きていたとしてもおかしくない、不思議な落ち着きのある人だ。名前はミドリと言う。彼女は警邏隊という、ヴァサラ軍とは別の、街の治安を守る為に見回り等を行う組織を統治している、言わばリーダーである。ベニバナの酒場の近くにこの本拠地があるので、オルキスとミドリ達警邏隊は、既に顔見知りだった。
「こんにちは。わざわざ御足労戴きありがとう御座います。ツキに御用ですね?」
柔らかく、それでいて上品に微笑むミドリに二人が頷くと、彼女は奥の部屋へと案内してくれた。二人は丁寧に礼を言って、ツキの部屋へと入った。
ツキは安楽椅子に腰掛けて、窓から外の秋めく景色を眺めていた。爽やかで少し乾いた風が部屋に吹き込んで、金木犀のほの甘い匂いが香った。
「―あら。ファンファンさんと、オルキスさんですか?御免なさいね。気づかなくて。」
少し白っぽい、プラチナブロンドが揺れた。
ツキは振り向きながら微笑んだ。その名前の通りに、静かで穏やかな美しさである。
「失礼する。いきなりで申し訳ない。」
オルキスが頭を下げて挨拶をするのに応えて
ツキは立ち上がろうとしたが、ふらっとバランスを崩してしまった。慌てて駆け寄り、倒れる寸前でファンファンが支えた。
「御免なさい…。有り難う御座います。」
エスコートする様に手を取って丁寧に椅子へとツキを導くと、彼女は申し訳なさそうな、控え目な笑みを浮かべた。
「極みの応用で寝ている必要は無い位に回復したんですけど…、まだ立てないみたいです。」
「座ったままでも勿論構わないアル。余裕が有れば、話を聞かせて欲しいネ。」
ツキは健気に頷いた。その後に大きな咳をして、申し訳なさそうな目配せをした。
「私が昨夜のパトロールの途中で竹林を通った時に、出会したんですけど…」

それは、少年の形をしていた。身長は150cm
程で、編み笠を被っている。顔は鉄の仮面で隠れていて、赤というよりは朱色の髪の毛を
何本にも結んでいる奇妙な髪型をしている。
それだけでなく、後髪を一本に太く編んで束ねて尻尾の様にしていたので、ツキはそれを
見た時、人間というよりは、大きな蠍の化身の様に感じた。
少し天然な所があるとは言われるが、ツキは真面目でしっかりとした性格をしている。
喩え往来で出逢ったのが少年であっても、ツキは決して挨拶を欠かさない。下手したら、それが犬や野生の鹿であっても挨拶の対象からは外れる事は無い。視界の奥の方に何か人影が見えたので、こんばんはがツキの喉を通過し、音となって口から出ようとした瞬間、
彼女は思わず口を閉ざした。
「化け物だ。」
そう、思った。
とても奇妙な風体をしているが、それだけで偏見を抱くツキではない。しかしこれは、
ツキの脳味噌が出した思考では無くて、本能が大音量で告げていた危険信号だった。
心臓が早鐘を打ち、じんわりと手の平に汗が浮かんだ。
「……、こんばんは。」
ヒグマに出会しても、もう少し落ち着いていられるし、幾分か返事も期待出来るだろう。ツキはそう確信していながらも、一応、恐る恐る少年へ声を掛けた。
返事は無い。会話をしそうな空気すらも全く無いため、「…。」で表現出来る沈黙や、間すらも存在しない。
がさり、がさり、と落ち葉を踏みながら此方に近付いて来る足音だけが、深夜の竹林の静寂に響いた。少年は異常な程の猫背でもあり、殆ど中途半端な御辞儀をしているとも言える程だ。ただでさえ身長が低いのに、足元をじっと覗き込む様な首は、まるで折れているかの様にとても低く、伏せられている。
こうして注視して見れば、歩き方も奇妙だ。普通、左右の足は身体の軸に沿う様に、真ん中に出す物である。やや大袈裟ではあるが、綱渡りの時の足運びをイメージしてみれば
分かりやすい。しかし少年は足を、今あるその位置から真っ直ぐ前に出しているのだ。
膝がやや外を向いているので、そうではないのに、ややがに股に見えた。背丈が低いので歩幅が小さいが、その速度がとても速い。
この歩き方までもが巨大な蠍の様で、非常に気味が悪かった。
そんなツキの心情を知る筈もなく、仮面の少年は次第に距離を縮めて来る。ここはただの真っ直ぐな一本道だ。左右は竹林で逃げ場が
無い。表情どころか目線すら見えないが、顔の向きはツキを捉えていない。そういう意味では、距離を詰めているという表現は適切では無かったかもしれないが、この得体の知れない不気味な存在と、深夜に無人の竹林で出会して、恐怖しない人間など居ないだろう。
警邏隊で決して少なくない場数を踏んでいるからこそ、ツキはまだこの場に立っていられるのだ。常人なら気絶しているか、腰を抜かして動けないか、荷物全てを投げ出して逃亡している所だ。そんなツキはまだ何もされていないのにも関わらず、無意識に体を少し縮こまらせて身構え、背中の弓に手を伸ばしてしまっていた。いつ怖くて、咄嗟に射ってしまうのか、達人であるツキ自身にすら分かっていない。一歩がさり、が近付く旅に、ツキの心臓は大きく跳ねた。気付けば背中にも冷や汗をかいている。正直、ツキは叫び声を上げたいし、今すぐ逃げたかった。視線も逸らしたい。このまま直視していれば、精神が壊れてしまう様な気すらしていた。しかし同時に、今此処で下手に動いたら、この化け物に殺されて仕舞うのではないか。何の興味も向けて来てもいない少年に対しては自意識過剰が過ぎるかも知れない。だが、ツキの脳味噌には最早何処にも、彼をただの風変わりな人間だと己を説得出来る部分は無かった。
距離が5mを切った。がさがさがさがさと、足音が複数の脚部を持つ生物の様に、連続して聞こえた。ツキとしては早く通り過ぎて欲しくて仕方無い。じっと体を固くして、化け物の往来を待つ他に無かった。しかし、その少年との擦れ違い様、彼女の真横を過ぎていくその瞬間に、これまでは足音に混ざって聞こえていなかった、少年の声が聞こえたのだ。
「谿コ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ谿コ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎」
ツキの全身を鳥肌が駆け抜けた。この仮面の少年がぶつぶつと、酷く小声で取り憑かれた様に呟いているのは、この国どころか、この世の何処にも存在している言語では無い。
何語、と言う名称も無いし、話者すら一人もいない。法則性も無ければ、翻訳出来ない。
事実、ツキ以外の人間がこれを聞いても、酷く怯えはしても、意味が分からないだろう。
しかし、血統に“人為らざる者”の血が混ざっているツキだからこそ、(或いは一番隊隊長のラショウであっても)この真意に気付けた。
気付いたからこそ、言葉を失った。人間の言葉に敢えて変換するのであれば彼は、
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
そう、狂った様に呟いていたのだ。
ツキは気付いた頃には、過ぎ去ろうとしていた少年に―“化け物”に、弓を引いていた。
少年の歩む先には、小さな集落があった。先ほどツキが見回りを終えたばかりの、幼い子供達も多く住む集落だ。其処にこの化け物を行かせては、一体どうなるかなんて、考えてみたくすら無かった。
躊躇せず、ツキは少年の姿をした化け物の頭を、背後から狙って矢を放った。風を裂いて進んだ矢は寸分の狂いも無い。しかし狙い通りに射抜く事はなく、振り返りもしない少年に、頭の後ろで掴まれていた。
ぎぎぎぎぎ、と骨が軋む様な音を立てて、少年は此方を向いた。身体でなく、首だけで。
「拳仙(ケンシェン)―シィエ。」
言葉と言うよりは、そう音を発する様に設計された機械人形の様に、少年は名乗った。
始めて人の言語を使ったのを聞いたが、ツキにはそれが、殺し合いの開始を告げる合図にしか聞こえなかった。
「警邏隊副長―ツキ。」
変な所で生真面目なので、ツキは相手に名乗られたら、反射的に名乗り返してしまう。
そんな紳士的な時間にも、少年―シィエは、先ほどツキから遠ざかった分の距離を走って
詰めようとしていた。
「…ッ!」
あの真っ直ぐ歩行はダッシュでも変わらないらしい。速度が上がった分、足音がさらに繋がって、最早連続した一つになっている。いよいよ音だけですら恐怖の対象とも言えた。
ツキは矢筒から急いで矢を取り出した。
一本、シィエに向かって真っ直ぐ引き放つ。
左右に避ける先はない。掴むか、しゃがむかでしか、これを無効化出来ない。
シィエは―飛んだ。
「…嘘!?」
跳んだというより、そちらの方が寧ろ適切であった。驚愕の跳躍力である。斜め前方に―つまりツキの方に跳んで、回避と移動を同時に行ったのだ。元々、先ほどの不意打ちを掴んだ相手だ。ツキも、これで仕留められるなど全く思っていない。しかし、掴むなり屈むなり、いずれの動作をシィエが取っても、ほんの一瞬だが隙が生まれる筈だった。その一瞬の内に、彼女の月の極みの奥義の中でも、最速の一射を放つ。それなら、もしシィエがどれ程の高速であろうと、雷神のルトでも無い限りは確実に当てられた。
いや、落ち着け。まだ終わっていない。
呼吸を整える。
高さが2mを越えてもまだ上る、異常な滞空時間と脚力であるが、それ故に、最高到達点はまだ過ぎていない。と言うことは、物理学上、刹那に満たない僅かな時間ではあるが、運動が停止する瞬間がある。
そこを逃しては、ならない。
弓に矢を伝えて引く。限界まで弦を強く引き絞り、目に意識を集中させる。ビキビキと、眼球の周囲の血管が浮き出るのが分かった。
先ほどにも書いた“人為らざる者の血”による特異な能力の様な物だ。ツキはとある事情で意識してこれを使わない様にしていたが、これを使用して狙いを外した事は、星明かり一つも無い闇の中でさえ、一度も無い。
ツキの視界と脳味噌が冴え渡り、処理出来る情報量が膨大に膨れ上がる。この覚醒状態に比較すれば、普段の思考能力など、泥酔して錯乱している様な物だ。いまや動植物の息遣い、竹林の中の気流すらも視覚出来た。
世界がスーパースロー映像に切り替わる。
さっきは目にも止まらぬ高速移動が、もどかしい程に酷くゆっくりに見えた。
しかし、決して焦ってはならない。この集中状態は異常に神経を磨り減らす為、日に二度も使用できないのだ。使用後まだ三秒と経っていない今ですらツキは、思考回路が消耗し、焼き切れそうな感覚に襲われている。
少年の上昇が次第に緩やかになり、ツキの頭痛がいよいよ限界に近付いた瞬間。
跳躍が止まった。
ツキは弓を向けて、構える。
月の極み―
少年が消えた。
「―!?」
いや、違う。少年が空中で運動エネルギーを失ったその瞬間に、身を捻り、被っていた編み笠を脱いで放り投げたのだ。少年の小さな体躯が、不釣り合いな程に大きな編み笠の上へと隠れただけだ。焦る事は無い。これで集中を途切らせては、少年の思うつぼである。
やることは何も変わらない。ツキは狙いを少し上方へ修正して、矢を放った。
ツキの極みの波動が籠められた、必中必殺の矢が翔んでいく。そのまま空気を切り裂いて
昇っていき、編み笠の中央を貫いた。
矢は、編み笠を“通過した”。
「うそ―」
その刹那に満たない瞬間に、少年は空中の編み笠を踏み台にして、二度目の跳躍という、有り得ない神業を敢行したのだ。
直ぐに次の矢に手を伸ばそうとしたが、先ほどの覚醒状態よりも何倍も酷い頭痛が、容赦無くツキを襲った。耐えきれず、手にしていた弓を取り落としてしまう。それを拾うよりも先に、少年は目の前に迫っていた。
ツキはいっそ弓を諦めて逃げようとした。
この少年を一目見た時から、取りたくて仕方無かった行動だ。
しかし、ツキの決断は剰りにも遅かった。
背中を向けて走り出そうとした瞬間、ツキの背中を刺す様な鋭い痛みが襲った。
無防備な背中への、少年の跳び蹴りである。
ツキは痛みと威力で受け身を取る事も出来ずに、工夫もなく前へと倒れる。
「ッぐ!」
両足で蹴ったまま、少年が倒れたツキの背中へと着地したのだ。右足では彼女の肩を、左足では彼女の腕を踏みつけて、逃げられない様にしていた。
パキ、と少年が指の骨を鳴らす。それから少年は、右手の中指と人差し指を揃えて、後の指は拳として握った。
「蛇蝎拳―毒牙」
そう、抑揚無く呟くと、空いている左手でツキの首を後ろから押さえる。
少年が右手を捻りながら高く振り上げ、ツキが目をぎゅっと閉じたその瞬間。
鼓膜を破る様な大きな音が竹林に響いた。
低く、重く、何処までも響く様な音。
まるでそれは、巨大な狼の遠吠えであった。
少年はそれを聞くや否や手をピタリと止め、ツキを嘘のようにあっさりと解放する。
それから少しだけ不服そうに首を傾げて、自分がこれから向かう予定だった集落ではなくて、ここまで通って来た道を引き返した。

「…きっと、あの少年と私が擦れ違った時に聞こえたあの言葉は、一種の呪詛の様な物だと思うんです。言葉として脳が受け取るよりも前に、空気の振動として鼓膜に伝わる物。」
ツキは少年の姿を思い出したのか、自分の肩を抱いて身震いした。
「…気を付けて下さい。あの少年の毒は、戦う前から既に始まっています。私は、この身体に流れる“人為らざる者”の血で、幾ばくかの耐性が有ったのでしょう。…少しでも彼に恐怖した時には、次第に身体の自由を奪われて行きますから―。」
ツキは自嘲気味に呟き、自分の足元を見た。
「…。まだ“怖くて”、立てません。」

二人はその後直ぐにカルノの家へ向かった。
彼はオルキスの同期であり、彼女と殆ど同時期に五番隊の隊長を務めていた。
互いに引退してから久しく、長らく逢っていなかったので、照れ臭いから表には出さないものの、オルキスはカルノとの再会を、内心とても楽しみにしていた。もっとも、望んでいたのはこの様な形では無かったが。
二人はカルノの家までの少し長い道のりを、秋の僅かな肌寒さを誤魔化す様に、軽く思い出話をしながら並んで歩いた。
オルキスがヴァサラ軍を引退したのは、もう十年以上前の事であるが、戦場で背中を預けて剣を振るい、時には仲間と熱く語り合った日々は彼女にとっての大切な青春であった。
…一番鮮明に思い出せて盛り上がったのは、勝手な行動をして誰かに叱られたか、人の上に立つ様になってから、誰かを叱ったかの記憶が殆どだったが。
その問題児達の話の中でも、カルノの登場頻度はかなりの物であった。かなり自由奔放―言い方を変えれば制御が出来ない彼は、任務の内容をあまり把握すること無く、単独で突っ込んで片を付けてしまう事が多かった。
その度に、同期で行動を共にする事が多かったオルキスも、よく揃って総督の拳骨を喰らったものだ。根に持つタイプのオルキスは、
未だにこれを許していない。
そうこうしている内に、気付けば二人はカルノの家まで辿り着いていた。
扉を何度か叩いてみるが、応答は無かった。
訪ねて来た事情が事情なだけに、オルキスは血の気が引く思いがした。ファンファンは顔をしかめて、警戒の色を示す。
二人は無言で頷き合って、物音を立てない様に、慎重にドアの取っ手を引く。
鍵は掛かっていなかった。二人はそっと家に入り、そのまま足音を立てない様に奥へと進んでいく。リビングには誰もいない。荒らされた形跡は、一先ずは見て取れないが、全く安心の材料にはならなかった。
オルキスは次々と脳味噌に浮かんでくる悪い想像を掻き消す様に、首を振った。少しずつ鼓動が早くなって行く。走ってカルノの無事を確かめたいのは山々だが、此処は慎重に、息を殺して歩みを進めた。
奥の部屋―寝室だろうか。微かに声が聞こえて来た。耳を澄ませて、忍び足で近付く。
「女の…声…?」
思わずオルキスは声に出してしまった。それを慌ててファンファンが手で塞ぐ。
(…済まない)
目線と仕草だけで謝罪した。
心臓が爆発しそうな思いをしたが、幸い、寝室にいる人物は此方に気付いていない様だ。
もどかしい気持ちを抑え、やっと、寝室の前の扉まで辿り着いた。
二人は呼吸を逢わせて、小声の「せーの」で、一息にドアを蹴破った。
「ルノ君、はい、あ~ん♡」
知らない褐色の女が、ベッドから身を起こして座っている二人の見知った童顔の男に、
“あ~ん”をして、食事を与えていた。


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