幽鬼伝エピソードオブカヤオ 中編

「あれ…、オルキスさん?」
少し休憩する為に切り株に腰掛けたのが、五分程前。任務に同行していたオルキスの姿が視界から消えたのも、それとほぼ同時。
周囲を見回してみても、オルキスの影も形も見ることが出来ない。こんな状況下、任務中に隠れて脅かそうという、ふざけた性格では無い事も分かっている。
そもそも自分が彼女から目を離したのは、水筒の水を飲んでいたほんの十秒位だ。そんな短時間で音も立てずに隠れられるのか?
カヤオは自身の《極み》の影響で、視覚・聴覚・嗅覚がいずれも常人の倍以上に優れている。山に足の踏み場も無い程散らばっている
枯れ枝や乾いた落ち葉を踏めば、その足音で必ず気付ける自信がある。そもそも休憩しようと提案したのは彼女であるし、夜間の単独行動を恐れるのも彼女だ。神隠しにでもあったと考える方が、よっぽど妥当である。
この目で実在を確かめた訳では無いが、此処は吸血鬼の縄張りで、随意の領域である。
何が起きても不思議では無い、そう、カヤオは考える事にした。だとすると、今自分が出来る事は何だろうか。恐らくオルキスは―下手すれば自分も、敵の何かしらの術中に嵌まっている可能性が非常に高い。放っておいて事態が好転する事は決してないだろう。
まだ遭遇してはいないが、吸血鬼は当然の事ながら、人為らざる存在である。恐らく自分の極みで感知出来ない対象では無い筈。
分からないままにして置いても埒が開かないので、何故自分が此処に居て、オルキスは此処に居ないのか。カヤオはその違いを考えてみる為に、一度切り株から立ち上がった。
自分とオルキスは一緒にここに歩いて来た。
そして、休憩をしようと提案を彼女の方から受けて、切り株に二人で同時に座った。
これまでは全く同じな筈。他に何か違いは無いだろうか。性別?年齢?そんなのを正確に見分ける事なんて、果たして出来るのか?
吸血鬼の姿は周囲に無い。匂いも気配も、呼吸の音もしない。存在しないとしても、極みで感知出来ない位遠くに居るのだとしても、先ほどカヤオが挙げてみた二人の違いが認識出来る訳がないのだ。だったら何故、一緒にいた二人の内、片方だけが消えた?
この任務に着くにあたって、カヤオは自分なりに詳しく、吸血鬼についての情報を伝承で調べて来た。本人からの口伝では無いから、どれほどの信憑性があるのかは定かでは無い情報である。言ってしまえば、あまり当てに成りそうにないだろう。だからこの不可解な状況について考えるのには、先入観を捨てる必要があるのだ。何が出来て何が出来ないなんて、本人以外は分からない。そんな不確かな物を判断材料にしても、却って遠ざかる。
本人にしか分からないのならば、いっそ本人になってしまえば良いのだ。カヤオの育った
村では、先祖と死後の世界を信仰していた。
シャーマンやイタコと呼ばれる霊能力を持つ人々は、見えない神や精霊、死者をその肉体に降ろして、語らぬ者達の口となっていた。
その様な珍しく高度な技能を持つのは村でもほんの一握りであったし、宗教弾圧によって集落のカヤオ以外が皆殺しにされた今は、世界に五人と居ないだろう。
しかし、そのシャーマン達の姿勢から学ぶ事は有る。語らぬ者と対話する為には、その相手自身に成る事が必要なのだ。
カヤオは考えた。己が吸血鬼本人だとして、
どの様な考え方、物事の見方をするのか。
自分の精神全てを吐き出すイメージを作る。
目を静かに閉じて、耳を塞ぎ、心に凪を。

―風が止んだ。
誰かの呼吸が己の精神の中に吹き込まれる。
声は聴こえない。感情も分からない。
ただ、何者かの残穢を掠め取った。
何故、根城を山に築いたのか。
先ずは其処だ。どうして一人だけが消えるのか、それは人間側の視点である。
住居を構える理由は何だ?安心する為か?
雨風を防ぐ為か?それも人間の考え方だ。
吸血鬼が気にする事ではないだろう。獣も魔物も恐ろしく無い吸血鬼が、怖いもの。
それは何か。
結託、である。何者よりも脆弱な存在である人間は、逆にその脆弱さ故に結託を選ぶ。
孤独を恐れ文明を築き、闇を恐れ火を灯す。
恐怖するからこそ知恵を獲得し、恐怖するからこそ勇気を獲得する。恐怖するからこそ備えるし、恐怖するからこそ武器を手に取る。
個体ではどんなに脆くとも、人間は群生する生物だ。森の王たるヒグマですら、軍隊蟻の行進を避けて通る。圧倒的で絶対的な強さを誇る吸血鬼は、その無敵さ故に群れない。
他者と相容れず、群れる事が出来ないのだ。
一息に皆殺しにしてしまうのではなく、加護と生け贄のギブアンドテイクを結んだ理由もそれだろう。一人や二人、十人や二十人、百人や千人で現れても、全て返り討ちに出来る自信はある。では、二千人は?無傷で済むだろうか?五千人は?一万人は?殺されるかも知れない不安はまだ無い。じゃあ百万人ならばどうだろうか。問題は、現実問題、何人で来るかでは無い。終わらない事にあるのだ。
だから、恩恵を与える事で、恐れを畏れへと変えたのだ。恐怖はいずれ克服される可能性がある。人間はそれが出来る。火を騙り、風を穢し、地を屠り、水を腐す。人間はたった一つの火種を頼りに、全てを奪って征服し、栄えた生物である。力で押さえ付けていて、
己の首に刃が届くのは一体何時であろうか。
そんな事に、秘かに怯えていたのだろう。
秘かに、恐れていたのだろう。夜の支配者である吸血鬼は、力の代償に昼を、太陽の下を生きられない。棺の中で一人眠る気分はどうだったのだろう。気分が良い筈が無い。
皆殺しにするか?駄目だ。堅牢な城砦を築き上げるか?駄目だ。吸血鬼は独り。人の手を借りなければならない城は、群衆の力でいずれ破られるのだ。どうすれば良い。
簡単な事だった。見付からなければ良い。
己の眠る姿を、人に晒さなければ良いのだ。
吸血鬼は、今度は人間の気持ちになった。
強大な存在に反旗を翻す時、人間は武器を取って群れる。血眼になって探し、数で押し潰す様に雪崩れ込むのだ。であれば、数を通さなければ良い。吸血鬼は、己の魔力全てを、館を覆い隠す幻術の構築と、維持に回した。
自身すらもその幻術の対象になると言う縛りを掛ける事で、仕掛けはより強固になる。
館に辿り着く方法も、敢えて対象を選ばずに設けた。これも、幻術を確固たる物にする為の縛りである。そんな言葉は無い時代であるが、パスワードや合言葉の様な物。
蓋を開けて見ればお粗末な程にシンプルな答えである。一人で、山頂付近の特定の切り株に腰掛ける事だ。こんな事は、群れで殺しに来る人間が取る筈の無い行動だ。逆に、もし何れだけの多勢に無勢だとしても、このたった一つの行動をするだけで、自分だけは安全に雲隠れする事が出来るのだ。もしかすると
偶然山を通り掛かり、遭難してしまった土地勘の無い旅人が偶然休憩をしようとして、条件を満たして迷い込んで来るかもしれない。
寧ろ、それは吸血鬼である自分としては好都合である。旅人なら死んでも、誰にも気付かれる事は無い。喰ったところで誰の怒りも不満も買う事が無い。一石三鳥であった。
―カヤオは、目を開いた。
これ以上は無理だ。マトモな降霊訓練を行った事がないカヤオには、《極み》の応用だけに頼った残穢拾いは、身体や精神への負担、疲労感が計り知れない。
しかしそれ以上に、自我を何度か持って行かれそうになった。危なかった。もしカヤオが直接声を聴ける程、高度な霊能力や技術を持っていた場合、チャンネルを合わせようと試みた瞬間に、瘴気に障てられて壊れていたかも知れない。残穢に触れて、その立場になって考える。これだけで相手の力が持つ、強大さが痛いほどに理解出来た。
しかし、カヤオの行動はもう決まっている。
同時だと思っていたが、言い出して行動した分、オルキスの方が僅かに腰掛けるのが早かった、それだけの話だ。
再び、切り株に腰掛ける。
カヤオは気付けば、見知らぬ石畳の庭園の中に放り出されていた。
少々動揺したが、元よりこの程度は覚悟していた事である。敵は吸血鬼。人間のスケールで捉えていい相手では無いのだ。
カヤオは黒い薔薇の植え込みに挟まれた道を歩み、何故か破壊されていた門を潜る。
階段を上ると、大きな、両開きの鉄の扉があった。カヤオはほんの僅かな逡巡の後に、この鉄の扉を押して開いた。
彼の場合も、扉はすんなりと受け入れる。
屋敷の中へと意を決して進む。
ぎぃ、ばたん。
背後の扉がしまり、
ぎぃ、ばたん。
何処かの扉が開く音がした。
カヤオは、屋敷のエントランスに自分以外の誰かの気配を感じた。
思わず、息を飲む。緊張感が彼を包んだ。
少し低く、弾んだ女性の声が訊ねる。
「こんばんは。何の用かな?私?それとも」
「赤い髪の女性が、私より前に、此処に訪ねて来ませんでしたか?」
カヤオは先ず、オルキスの存在を確認する事にした。広いエントランスに響く様に、なるべく大きく声を張って。
数秒、声の主は沈黙する。
沈黙の最中に、時計の鐘が鳴った。
暗闇の中に、一つの灯りが灯った。
ランプの灯りだった。それを誰かが手に持っている。階段の一番上の段に立っていて、背後の大きな柱時計を振り返っている。
「…今日は誰も来てないよ。残念だけど、赤い髪の人も知らない。」
所々黒いラインが入った灰色の長い髪に、黄色い目の背の高い女性だ。緑色で、ベルトと金具が至る所に付けられた、拘束衣の様な独特な服を着ていた。
声のトーンにも表情にも、嘘はついていない様に見受けられる。雰囲気が先ほど、庭園に入る前に感じた吸血鬼の残穢と少し似ている様だが、同じ物ではなさそうだ。
カヤオは一度、様子を見てみる事にした。
「それで、何の要件なのかな?」
女は怪訝な顔をしながら、ゆっくりと階段を降りてくる。
カヤオは何となく、まだ彼女に全てを打ち明けてしまうのは、何処か危険な気がした。
「この近辺の山を、赤い髪の女性と歩いていました。彼女が吸血鬼を探しているというので、私が案内を務めていて。」
「ふぅん…そう。」
一番下の段まで階段を降りきって、女は頷きながら相槌を打つ。何か別の事を考えているか、ハナからカヤオの言い分を聞くつもりが無さそうな、テキトーな相槌だった。
女はそのまま歩みを止める事無く、真っ直ぐにカヤオへと近付いて来る。
「わたし、結構疑り深くてさ。あんまり人の事を信用しないんだよね。裏に何を隠して繕っても、顔を見れば直ぐに分かるから。」
女はランプを顔の高さまで持ち上げた。何となくでしか見えなかった輪郭が、これでカヤオには明瞭に見えた。鼻筋は通っているし、目鼻立ちもクッキリしている。目付きが少々鋭いが、十分に美人と呼ぶには足りる。
黄色い瞳はランプのぼんやりとした暖色の光を受け、肌の白さも相まって少し不気味な印象を感じさせた。瞳孔が縦にやや細長く開いていて、猫…いや、どちらかと言うならば、イメージは爬虫類の目に近かった。
そんな粘着質で鋭い目でねめつける様に、締め上げる様に、カヤオの姿を見る。
爪先から頭頂部、髪の毛先から指の爪、耳の形から匂いまで。全てを逃さずに捉える様に
、舐めるを通り越して味わう様な視線で。
「君さ、名前は?」
女の独特の気迫と、得体の知れない不気味な圧力に思わず、少しうつ向いて身体が固くなっていたカヤオに合わせる様に、首を傾げて膝を曲げる。それから、斜め下から覗き込む様に、無理矢理視線を合わせて来た。
「…カヤオです。」
「カヤオ…カヤオ。なるほどね。」
女は何度か、咀嚼する様に名前を反芻した。
それから飲み込む様に深く頷いて。
「君、めちゃめちゃタイプ。生きてるのに死んでるみたいだし。男なのに女みたいだし。」
女の首が上にグリンと回る様に、ぱきぱきと骨の音を立てながら、元の位置へと戻る。
「カヤオ君、わたしと結婚しない?」
女の背筋が真っ直ぐに伸びた。さっき見た時から背が高いとは思っていたが、平均的な男性の身長分はあるカヤオよりも、七センチ位は上回っていそうである。素足で靴は履いていないのに、彼を若干見下ろせてもいる。
「そしたら、殺さないであげよう。」


鼻の先が潰れている様に痛い。熱い。鉄臭い。息があまり出来ない。というより、粘っこくて、温くて、鼻腔が半ば塞がっている。
鉄臭い。熱い。鼻腔。
割れそうな痛みとぼんやりとした靄に包まれた脳味噌では、情報を途切れ途切れの単語でしか処理出来ず、かなりの手間と時間を掛けて漸くオルキスが理解したのは、自分の鼻が折れていて、血が出ているという事だった。
「うぅ……、」
呻き声を上げながら、手で床を押して、なんとか上体を起こす。正確には違う。起こそうとした、のだ。しかし、それは脳がガンガンと揺れる感覚と、平衡感覚が崩れる程の目眩で阻止されてしまった。
手を着いて体を起こす事もままならず、上半身を支えられない。手が滑って、右肘が地面に強くぶつかる。じんわりとした鈍い痛み。
それなら、と。膝を曲げて立とうとする。
体を浮かし、片足を地面に立てた迄は良かったが、背中から腰にかけてヒビが入る様な鋭い痛みに、再び阻まれ、顎を硬い床に勢い良く打ち付ける事となった。
此処は、屋敷の地下15m。
床―いや、最早地面と言った方が適切なそれには、地下らしく石材が用いられている。
エントランスの床が仕掛けで開き、オルキスはこの地下まで落下して来たのだ。
通常、人間が生身で落下して、ギリギリ生存の確率があるのは、12~13m迄だと言う定説が存在している。それでも打ち所によっては即死をしかねないし、そうでなくても回復困難な重傷は免れない。しかも、着地した先が普通の地面だったら、という仮定である。
この場合は、その高さの基準を3m程も上回っているし、着地したのもクッション性は皆無の石である。咄嗟に、不完全ではあるが受け身を取れた事、そしてオルキスの身体は引退した現在でも一般人に比較すれば、幾分かは頑丈であった事を含めても、何とか生きている上に意識があるのは奇跡と言って良い。
「あの女…」
とんだ、間抜けを晒した物だ。
嘗てのヴァサラ軍隊長が、あれほど単純で古典的なトラップに掛かり、マトモに動けない重傷を負っているなどと。
オルキスが悔しさで食い縛った歯が、強く軋む音がした。口中に苦い血の味がして、上手く噛み合わない。歯がいくつか折れたり、欠けたりしている様だ。不快なので、傍らに血が混じった唾と共に吐き捨てた。
周囲を見回す。目当ての物は、意外と近くに転がっていた。白い鞘に納まった剣。
オルキスの相棒―《極楽蝶花》である。
ずるずると、死にかけの虫の様に地を這って手を伸ばす。そんな自分の姿を俯瞰で捉えた映像を想像すると、プライドの高いオルキスは死ぬ程酷く憂鬱で惨めな気分になった。
それでも世界一美しいその柄を手に握ると、
泥と傷だらけになった自尊心にも、幾分かの光と落ち着きが戻って来た。
二度と離さない様に固く握り締め、マトモに動かない役立たずの足の代わりに腕を動かし、匍匐前進で近くの壁際まで移動する。
寝返りを打つ様にして壁に背を着けて、座る様に上体をなんとか起こす。それから極楽蝶花を床に立てて杖として使う事で、オルキスは漸く、老人の様によろよろとではあるが、己の足で立つ事に成功した。
こんな姿、アイツにだけは見せたくないな。
彼が此処に居れば―一瞬だけそう思ったが、オルキスは助けを求めたい有り難さよりも、たった一人の窮地において他者を頼ろうとした、情けない己を恥ずかしく思った。
この陰惨たる肥溜めの様な屈辱を晴らす方法はたった一つである。あの女をこの手で殺す事だ。任務の内容とは関係無しに。そうでもしなければ、オルキスは矜持を保てない。
ふと壁伝いに、音が聞こえた。
何かを引き摺る様な、そんな音。
不恰好だが、そこにはある程度のリズムと規則性がある。足音。だろうか。
恐らく片足を負傷しているか何かで、引き摺って歩いている足音だ。
かなり遠くから聞こえている。その音の方向には、とても長い通路が続いていた。
エントランス同様、この地下には蝋燭一本、ランプの一つも明かりが無い。かなり目が慣れてきたとは言え、精々5m位先が、朧気に捉えられる程度である。
ワタシ以外にも、此処に落とされた生き残りが居たのか…?
オルキスはそう思い、少しだけ気分がマシになった。聞きたい事など幾らでもある。
足音の主が現れるのが待ち遠しくなり、逸る気分を抑えられなくなった。
オルキスの視界に、闇から現れたその輪郭がぼんやりと曖昧に映る。
堪らずに、やや弾んだ声を掛ける。
「おいお前―」
オルキスは思わず、息を飲んだ。
人では無かった。
いや、正確には人の形はしているのだ。
しかしもうそれが、人と呼べるのかに関して言えば甚だ疑問である。
足を引き摺って歩いて来た人影は、膝が本来とは逆に曲がり、腹部からは幾つかの臓器を剥き出しにしていた。開いた胸部からは締め切らない蛇口の様に途切れ途切れの血が滴り落ちていて、肋骨も一部覗いている。
何処からどう見てもそれは歩く死体―ゾンビに間違いなかった。
「吸血鬼を殺しに来たつもりが、死に体で遭遇するのがゾンビか。笑えない冗談だな。」
肉眼で見たのは初めてだ。そもそも吸血鬼同様に、オルキスはこういった者の存在をあまりマトモに取り合っていなかったのだ。
だからと言って、最早あまり驚いてもいなかった。半ば諦め―或いは呆れの境地である。
その間にも、死体は三歩ほど距離を詰めて来ている。顔が見えた。当然生気など欠片も見られず、瞳は濁って焦点が定まっていない。
両手を伸ばし、乾いた呻き声を漏らしながら
歩む男の死体は、視線―見えているのかは分からないし、この際どうでも良い―をオルキスにしっかり向けている。
自嘲気味に笑って、オルキスは極楽蝶花を鞘から引き抜いた。そんな知能も無いだろうがまるでそれを合図にする様に、ゾンビはオルキスに飛び掛かって来た。壁を背中に付け、支えとしているオルキスに逃げ場は殆ど用意されていない。負傷した身体での戦闘は言うまでも無く、避けて然るべき物だ。
だがそんなオルキスの心情など、本能のままに血肉を食らうゾンビに伝わる筈もない。
顎関節が外れる程に口を大きく開き、歯を剥き出しにしたゾンビは両手でオルキスの肩を掴み、首筋に顔を近付けて来る。
際限なく分泌され垂れ流れる唾液と口臭は、放置された死体そのものの腐乱臭として、オルキスの鼻腔を遠慮無く刺激する。
今日一日何も食べていない状態で無ければ、オルキスはきっと胃の中身を全て戻していただろう。それ程に、ゾンビのそれは不愉快で吐き気を催す臭気であった。
刀身を横にし、肉を喰らわんとにじり寄って来るゾンビの身体を食い止める。
オルキスの目と鼻の先で、がちがちと噛み付きが空振る歯の音が聞こえた。
刀身を前方に押し出して、ゾンビの身体を思いっきり突き飛ばす。片足が不自由で歩行が覚束無いゾンビは簡単にふらつき、石の床へと仰向けに倒れた。普通の生きた人間なら、この衝撃で頭をぶつけて死んでくれるだろうが、相手は既に息をしていない死体である。
オルキスもうつ伏せに倒れ込む様にして、ゾンビの身体を上から抑える。片手に持ち替えた極楽蝶花を逆手にして、その脳天へと刃を深々と突き刺した。確かな―しかし同時に不愉快な湿った手応えを感じた。どうやらゾンビを再び葬る事には成功したらしく、糸が切れた人形の様に、指先すらも動いていない。
「…見たか。これが隊長格の―」
焦りと安心に息も絶え絶えながら、オルキスが気障な台詞の一つでも言おうとしていた瞬間、邪魔が入った。死角から何かがぶつかって来て、オルキスを突き飛ばしたのだ。
「…ッッ!」
咄嗟の事なので転がされ、床に強く肩と背中をぶつけてしまった。その痛みに声を出さない様に堪えながら、オルキスは飛んできた何かの方向―地下通路の先を向いた。
「何の冗談だ…」
其処にはたった今泥試合を制したばかりの彼女を嘲笑う様に、ゾンビの群れが犇めいて立っていた。
出来る物なら今すぐにでも走って逃げ出したい程に、絶望的な状況である。しかしオルキスの身体の何処にも、そんな体力は無い。
オルキスの顔には、奇妙な笑みがあった。
勿論、嬉しくも愉しくも無い。ただしこうも生存が絶望的であると、精神が潰れて仕舞わない様に、脳味噌が勝手に快楽物質を分泌して、無理やり笑顔を作るのだ。
「―上等だ。なるべく道連れにしてやるさ。」
手を伸ばして、倒れているゾンビの頭部から極楽蝶花を引き抜く。群れがそれを待っていたかの様に動き出した。
その内先頭の一体目が、前方1mまで迫って来た。オルキスはもう片方の手に鞘を掴んで、
それを逆手に振り抜く様にしてゾンビの足を払った。本来は上から組み付いて来るつもりだったであろうゾンビは逸れ、オルキスの真横へと前のめりに倒れる。その腐って脆くなった頭部へと肘を叩き下ろして潰す。二体目が既に迫り、指先を触れようとしていたが、動かなくなった一体目の背中の上で寝返りを打つ様に転がり、移動と同時に頚を斬り付けて刎ねる。壁が背中に着いたので、三体目の顎を辛うじて動く右足で蹴りあげ、立った。
次は二体同時に来た。片方の眼窩に指を突っ込み、壁に叩き付けて頭を潰す。と同時に、順手でもう片方の喉を刺し貫く。ついでに前方に刺す時の勢いを使って、先程蹴り飛ばして転がっているゾンビの頭を踏み潰した。
前からゾンビは止めどなく押し寄せて来る。
喉に刺したままの刃を引き抜く為に、ゾンビの身体を前へと蹴り飛ばした。それに押し出される様に、何体かが纏めて後ろに倒れて行った。その将棋倒しになった身体を踏み付けながら、オルキスは進んで行く。目に付いた奴から、近付いた奴から刺し、首を刎ねる。
麗神の異名も見事な剣術も、影も形も無い、狂った獣の様に荒々しい戦い方であった。
十五体ほど、殺し直した時であろうか。とある一体にトドメを刺そうとした瞬間に、オルキスはバランスを崩して転倒した。
「―は?」
僅かに急所を外れ、殺し損ねていたゾンビがオルキスの足首を掴んでいたのだ。
何とか動こうとしたが、剰りにも敵の数が多すぎた。雪崩れの様に押し寄せるゾンビに全身を抑えられ、身動きが取れなくなる。
鋭い痛みが、オルキスを襲った。
「―っつ!」
良く引き締まった右足の大腿部が、ゾンビに噛み千切られた痛みだ。そこからドクドクと血が溢れて行くのが分かった。
「ッッう…!」
次は、左の脇腹だった。右足よりもよりダイレクトに、人間の歯が肉に突き立てられて、薄い脂肪と筋肉の繊維を乱雑に切られる感覚が伝わって来た。
「ッッいっ…!」
次は左手の甲の皮。
「ッッうぁ…!」
次は右の臀部上方から腰にかけてを、浅めに皮を剥く様に。
遠慮や配慮など、死体達には毛ほども持ち合わせがある訳が無かった。それも当然と言えば当然である。意識も記憶も持たない彼等には、その残酷な行為は食事に過ぎないのだ。
「…しちふ…」
最早痛みを痛みとして認識する段階はやや遠ざかり掛けていた。何処もかしこも喰われてしまって、逆に痛くない部分が分からない。漠然とした内側から漏れ出る血の熱さと、地下通路の凍える様な空気の冷たさの、矛盾する様な感覚。思考を阻害するその大きさに、いっそ意識を委ねて仕舞おうとした瞬間。
「aștepta.」
冷たく堂々とした女の声が響いて、オルキスに群がるゾンビ達の動きが一斉に停止した。
まるで出来の悪い犬を仕付ける様な、そんなトーンの異国の言葉だ。
その声の静かで冷ややかな、研がれた刃物の様に鋭い迫力に、オルキスの消え入り掛けていた意識も、叩き起こされる。
「…フン。女の匂いがするなァ。お前ら、妾(わらわ)に先駆けて餌に手を付けるなどと、良い身分じゃのォ?お?」
古風で傲慢で、正しく人を物として見ている様な、そんな尊大な口調であった。潰す様に威圧的なその声は通路の奥から響いて来る。
声自体は若々しいのだが、出所の知れない謎の緊張感をもたらす迫力のある声である。演劇に登場する王族の様な古めかしい口調すらわざとらしさが全く無く、寧ろ数百年前から生き続けているので、使い続けている言葉が古くなっている、そんな印象を受けた。
「何を棒立ちでいる?“持って来い”。」
どうやら声の主は随えているらしい死体も、オルキスも取るに足らない畜生以下の存在だと思っているらしい。止まっていたゾンビ達は意思が無いので腹を立てる事も無く、オルキスの身体のあちこちを掴んで持ち上げる。
「ッッう……!」
全身の出血すら止まっていない剥き出しの肉や生傷に、ゾンビ達のボロボロに傷んだ爪が遠慮無く刺さる。オルキスは思わず呻き声を上げて仕舞った。彼等はオルキスを、声の主が居るらしい通路の奥へと運んで行った。
行き止まりに辿り着くと、ゾンビ達はオルキスを、乱雑に床へと放り投げた。
再び、受け身も取れず叩き付けられる。
「―良し。おい家畜。」
声のする方を、這う這うの呈で見上げる。
そこには、奇妙な女の姿が在った。
いや、奇妙で済ましてしまうには、剰りにも異常で衝撃的な出で立ちである。
先ずその女は、立っても座っても、そして寝転がってもいなかった。床同様に石で出来た最奥の壁に、十字架に掛けられた聖人の様に張り付けにされているのである。四肢もこれまた張り付けらしく、四本の銀色の楔が、手首と足首に突き刺さって固定していた。
そこから血が滴って落ちていて、滴が落ちる先には同様に四つのバケツが置いてあり、これを溢さない様に受け止めている。
顔には、鉄の仮面が鋲で固定されていた。
「綺麗で上質な血の匂いがするな。程よく熟成させれば、妾の口にも合う美酒になろうぞ。
…フム、此処で喰っても良いが、」
口振りからするに、どうやらコイツは吸血鬼らしい。それ以前にどう見ても、人間であれば生きている事が有り得ない状況である。
吸血鬼が磔刑とは、酷い当て付けであった。
「貴様に、妾に仕えるという最上の栄誉をくれてやっても良いぞ。」
それが此の世のどんな勲章の授与や、どんな爵位の叙位よりも遥かに誉れ高く、名誉な事であるかの様に、吸血鬼は言った。


「わたしはね、人を殺してるの。」
趣味や職業、好きな食べ物を言うように何気無く、灰色の髪の女は告げた。
―現在カヤオは女と向かい合って、晩餐会に使われる様な長机を挟んで座っていた。
時を少しだけ遡る。
出会い頭にこの上なく恐ろしい、脅迫紛いのプロポーズをぶつけて来た直後。突然かつ、一切の前触れも前兆も無い衝撃的なセリフにカヤオが面喰らって何も言えずにいると、灰色の女は小さく苦笑した。
「いきなり言われてもビックリするか。それはそうだよね。カヤオ君、まだわたしの事、何にも知らないもんね。」
顔を合わせて三分と経たない内に、いきなり求婚をしている事、そもそもカヤオの殺害を前提としていた事、そして求婚の交換条件として殺害の中止を提示している事。この三つ全てに含まれる常軌を逸した異常性には、この女本人は全く気付いていない様だった。
先程もからかっている口調では無かったし、目は全く笑っていなかった。
何がツボに入ったのか、数秒間女は腹を抱えて高く笑っていたが、急に目を見開いて、圧倒されて対応に困っているカヤオに気付き、
「何で笑わないの?」
一瞬で口元から笑みを消した。声のトーンが急ブレーキを踏んだ様に、がくんと落ちる。
何も言えず、ただ引き攣った表情のままでいるカヤオに、女はグイと顔を近付けた。
「そっか。お腹空いてるんだ。顔がとても疲れてるよ。ご飯はわたしが作ってあげるね。得意なんだよね。一人だから。」
息継ぎもせずに、しかし捲し立てる様な必死さも無く、女はカヤオに有無を言わさない口調で、決して逃がさない様に畳み掛けた。
「食堂ね、この大きな階段を登ったドアの先に在るんだよ。座って待っててね。」
カヤオの袖を掴んで、女は階段の方向へと踵を返した。カヤオは既に飲まれていて、抵抗する気も全くしなかった。遠慮も、返事を待つ事もせずに、女は途轍も無い力でカヤオを引っ張りながら進んで行く。足を若干縺れさせながら、なんとかカヤオも付いていった。
勿論、気など全く進んでいないが、女の機嫌を損ねれば即座に殺されかねないと直感で理解出来たし、抵抗しようとしたり逃げようとしたりしても、単純に出所の知れない女の異常な怪力に勝てずに、引き摺られて行くのだろうと分かったからである。
階段を上りきり、扉の前に立った時、女は
「あ、そうだ」
思い出したかの様に、カヤオを振り返った。
「屋敷の外への扉は壊せないし開かないよ。
変な気は起こさないでね。」
これも決して冗談めかしている様にも、脅しとして圧力を掛けているようにも思えない。
トイレのドアは立て付けが悪いから、ノブを捻って強めに押して開いてね。普通の人間がそう言うのと何も変わらないテンションだ。
その発言の効力や、リアクションを確かめるつもりすらも無いらしく、女は食堂のドアを開きながら、平然と次の言葉を続けた。
「鳥と肉。どっちが好きかな?」
カヤオは現実の衝撃さ度合いに暫く言葉を失っていたが、数秒経ってから女の質問の意図に漸く気付き、
「…鳥です。」
“肉”という言葉の曖昧さが恐ろしくなり、消去法的にそう答えた。
キッチンがあるであろう場所に消えて行った背中を見届けたカヤオは、女の言葉通りにただ椅子に座って待っていた。
生きた心地がしない、恐ろしく長い時間が二十分ほど経つと、(時計があったので確認出来たが、体感ではその倍位に感じた。)女が器用に、両手にトレーを掲げて戻って来た。
その片方をカヤオの前に置いて、もう片方を自分の前に置いて、向かい合わせに座る。
「じっくりお話をするには、ディナーを食べながらが一番だよね。」
自分で頷きながら女はそう言った。有無を言わさない視線が飛んで来て、カヤオも従う。
「さ、食べて。」
当然恐ろしくて気は乗らないが、女が皿を指し示して言うので、視線を下ろした。
何が出てくるのかと、内心気が気でなかったが、見た目にはただの焼いた鶏肉である。
恐る恐る、ナイフで一口大に切ったそれを、カヤオは口に運んだ。
「…美味しい」
とても意外だったので思わず、素直な感想が口を突いて出た。嘘でも美味いとしか―ましてや決して不味いなどと言えない状況ではあるが、その言葉に嘘は無かった。
「さっき殺したてのカラスだよ。」
あまり聞きたくない内容だったが、最悪人の肉でも出されるのかと半ば覚悟をしていたため、それ程衝撃は受けなかった。寧ろ少し、カヤオはその事に安堵した。良く探してみれば鶏と異なる独特の癖の風味はあったが、上から掛かっている、恐らくベリー系のソースが、違和感を殆ど消している。
お世辞抜きにしても、本当に美味しいと言って差し支え無かった。安堵感もあってか、思わず二切れ目も口に入れていた。
女はそんなカヤオの様子を見て、満足げに笑いながら頷く。女はグラスに注がれたワインを一口飲んで、自分の皿に手を付けた。
女の皿の中身は、カヤオの物よりかなり量が少ない。二つ、半月状の物が乗っていた。
「さっき食べたばかりだからさ、あんまり空いてなくてね。」
二つの内片方に、女はフォークを突き刺して言った。まさかと思って、カヤオは目を凝らして見た。
血の気が引いた。
それは人間の耳だった。根元から、綺麗に切り取られた人間の耳、そのものであった。
言葉を失ったカヤオの表情に気付き、女は愛おしむ様に笑って答えた。
「わたしはね、人を殺してるの。」
カヤオはその衝撃に思わず、フォークとナイフを取り落としてしまう。
「耳はね、軟骨がこりこりしてて、そのままでも美味しいんだよ。」
何か言おうとしたが、口から何も出ない。
そんな呆然としているカヤオに向かって、女は首を捻って聞いた。
「あれ?鳥の方が好きって聞いたから。もしかして、こっちの方が良かった?」













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