学校を休みまくったカウベル奏者
不登校までとはいかないけど、学校をよく休みがちな時期を送ったことがある学生だった。
「大きな怪我や病気をして入院」という何か理由があるわけではなくて、ただ学校という場所に行きづらくて休んでいた。イジメられていた、というわけでもない。
学校をよく休んでいたのは、小学4年生のころ。
担任の先生がかなりクセのある若い男の先生で、ぶっちゃけて言えば、自分と肌が合わない先生だった。
彼独自のこだわりみたいなものがあって、それに歯向かおうものなら、半キレ顔をかましながら問い詰められる。授業も学校行事もこの先生の独裁政権下に置かれ、のびのびすることができなかった。
教室にはピリピリした雰囲気が、漂っていた記憶がある。
教室は、すぐにこの先生の色に染まった。「社会の厳しさを早めに教えたい」という意図があったのかもしれないが、それでも「小学校でやることではなかったな」と、今でも思う。
やたら、バスケもやらされたし(この先生はバスケ大好きだったから)。サッカーとかもやりたかったよ。イナズマイレブン流行ってたしね。あいにく僕らは、スラムダンク世代じゃないんすよ。
当然、僕は学校に居心地の悪さを感じるようになった。
そして自然な流れとして、学校に行きたいと思えなくなった。
「学校って、行かなかったらどうなるんだろう」
そんな、普通は思ってはいけないようなことを、考えてしまった。当時は「レールから外れるかもしれない」という不安はなく、ただその環境から距離を置きたい気持ちだけだった。
そして実際に、学校を仮病で休むようになった。喘息が持病にあったので、それを学校を休む言い訳として、使い倒した。
本当は大した症状ではないのに、大袈裟な演技をして、学校をサボっていた。
この経験によって、演技力が磨かれたに違いない。照明とか、大道具などの裏方ばかりやってたから、活かすチャンスなかったけど。
同じ地域に住む友達が、下校する時に僕の家に寄って、今日の書類とか学校通信などを律儀に毎回持ってきてくれていたのが、申し訳なかった。
僕はその時よく2階の自分の部屋で、漫画を読みふけっていました。ドラゴンボールの世界に入り込んでいたよ。なんか知らんけど、ダーブラが一番好きだったな。今でも謎だ。どこに惹かれたんだろう。。。
当然のごとく、学校を休んでいると授業が受けられない。だから、ペースが周りの子たちと比べ、遅れる。
それがより顕著に感じたのが、算数の授業。
段階を順番に踏まないと、置いてかれる科目だ。
久しぶりに学校に来た時に、自分の知らないことを、周りが当たり前のように理解している様子を見て、モーレツに焦りを感じた。
自分がトンチンカンな発言をして、周りの子から笑われていたことを思い出す。だって、本当に分からないんだもん。
だけど、算数の授業で補佐に入っていた優しいおばさま先生が、そんな僕を見捨てずに手取り足取り教えてくれたおかげで、なんとかなった。
でもさすがに勉強が足りてなくて、中学生の時にもう一度算数を復習することになるんだけど。中一の時に「割合」のところを復習してたわー。はずかし。
音楽会などの学校の行事も、練習は全然来てないのに本番だけは来るという、最低なムーブをかましてしまった。
クラスのみんなで楽器をそれぞれ割り当て、合奏発表をするのだが、僕は例によって例の如く学校をよく休んでいたので、負担が少なそうな打楽器のカウベルになった。
上のような楽器ね。牛の鼻についていそうな楽器だから、この名前がついたらしい。
ちなみに合奏曲は、葉加瀬太郎の「情熱大陸」。
カウベルの明らかにマイナー楽器感から察するとおり、正直この楽器がなくても曲は成立する。だから最悪自分がヘマしても、「情熱大陸」は無事、音楽界で発表できる。
自分はカウベルに対する情熱が全くないまま、数少ない練習を持ってして、本番は自信なさげにカウベルを叩いていた。
ビデオにちゃんと当時の合奏の様子が残されているが、黒歴史なので見たくない。
まあ大体こんな感じの、学校をたまに休む以上、不登校未満の小学4年生を送った。
親がどれほど心配していたのかよく覚えていないが、あんまり深刻そうな顔をしていたような記憶はない。
末っ子ともなると、兄たちに比べてそこまで注意が行き届かなくて、「ま、なんとかこの子はするでしょ」と放任気味だったのかもしれない。
実際なんとかなったしね。
要するに言いたいことは、
学校にいけない時期があっても、意外となんとかなる
ということ。
サンプル数1だし、親御さんの気持ちもわからないから、説得力0だな。
あと、僕にカウベルを担当させた当時の音楽の先生へ。
本当に名采配だったよ。
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