1800年前の書く瞑想


僕が文章を書き続ける大きな理由


書くことの理由として、頭の中にあったモヤモヤが整理されるということが、挙げられる。文字としてアウトプットすることで、自分の考えを客観的に見ることができ、脳に余裕が生まれるのだ

テトリスでいう、おじゃまドロップを消していくような作業(伝わらなかったら、申し訳ない)。

僕が文章を書くのも、このように頭にあるごちゃごちゃした考えを言語化して、心を落ち着かせたいから。noteを書き始める前から、僕は寝る前、定期的に日記をつけている。悩みや心配事で心が乱されていても、日記に思いついたことをバーっと10分間ぐらい書くだけで、安らかな眠りにつける。

noteでも、そのような側面が強い。理系の記事やエッセイを書くこともあるが、日記の延長線上として作られた記事も多い。それらの記事は、自分自身と対話するように書いている。どうせ書くなら、誰かの役に立てたらいいなと思って、日記をこえてnoteで書くようにした。

だけど、こんなことも思う。


日記に近い文章を読みたい人は、はたしているのだろうか?


自分のために書いている文章なので、読者にとってはどうでもいいことなのではないかと疑問に思うのは、当然だろう。

だけど、僕自身がそのような記事を書いてきて、それらが意外と読者に届くことを実感した一人に向けて書いた文章は、結果的に多くの人に届くという記事を書いたが、それと同じなのだと思う。自分と同じような悩みを持っている人に、共感される内容だったのだろう。



1800年前に、同じことをしていた人物がいた


そして、歴史を振り返ってみても、同じようなことをしていた人物がいました。

それは、今から約1800年前の遠い遠ーい昔の話。
ローマ帝国を統治していた皇帝、マルクス・アウレリウスのことです。

当時のローマ帝国はとんでもなく繁栄しており、人口は約6000万人強、首都ローマの人口にいたっては100万人もいたそうです。アウレリウスをそれを束ねるトップなので、皇帝の職務は当然のごとく重責のかかるものでした。

そしてアウレリウスが皇帝の時には、洪水や地震の天災が起きたり、感染症が蔓延したり、敵国との戦争があったり、信頼していた将軍の反乱にあったりと、次々と問題が押し寄せていたのです。これらの問題に対処するために、朝から晩まで激務に追われていました。

晩年の10年間には、敵国と戦う兵士たちの士気を高めるために、大半の期間は実際に戦地に赴いていました。快適なローマから指示を送るのではなく、現場のことを知っていたリーダーだったんですね。



そしてこの前線で、激務のかたわら、彼は日記のようなものをつけていました。就寝前にその日記をつけていたのですが、それが後世に本として出版されたのです。

その本とは、日本語訳で『自省録』という名前の本。原題は『タ・エイス・ヘアウトン』(ギリシア語)で、意味は「彼自身のために」という意味。人に読ませるために書いたのではなく、自分のために書き続けたノートだったんですね。

自分のためだけに書いているので文章の飛躍も多いけど、それが今も読まれているのは、皇帝として日々の問題に精一杯立ち向かって書かれた、生きた言葉だったというのもあるかもしれません。説得力のある言葉というのは、文章がぎこちなくても読者にも伝わりますから。


また、日本語では『自省録』と訳されているが、英語圏では『メディテーション』と訳されているそうです。メディテーションとは瞑想という意味の言葉で、アウレリウスは書く瞑想を行っていたから、この言葉があてられたんでしょうね。

寝る前に瞑想で一日を振り返り、内面にある思いを言葉としてアウトプットして自問自答し、最後に自分を戒めたり叱咤激励する言葉を書く。こうやってデトックスして就寝し、翌朝には活力に満ちた状態で起きて、仕事に熱心に取り組んでいたんですね。



ストア哲学に出会う


こ、これは。まさに自分の目指すところだ。
この『自省録』のような書く瞑想を、自分も参考にしたい。そうやって、アウレリウスに興味を持ち、実際に『自省録』に書いてある文章にも触れました。

彼のことを調べていくと、彼が哲人皇帝であったことがわかりました。ローマ皇帝でもあり、ストア哲学者でもあったわけです(彼自身は本当は皇帝ではなく、哲学者として生きたかったらしい)。

ここでストア哲学というものに、興味を持ちました。


哲学というと、こんなイメージを持たれるかもしれません。

難しい、役に立たない、無意味、のめり込むと頭おかしくなる、などなど。哲学を専攻している方には申し訳ありませんが、僕もこんなイメージを持っていました。

だけど、ストア哲学は実践的で、なじみ深い考えが多いです。仏教や禅の考えと、近いような気がします。「すべては移り変わるものである」とか「今、ここに集中するべきである」といったことです。

ストア哲学派として有名なのはアウレリウスの他に、セネカやエピクテトスがいます。彼らの有名な言葉を、例として紹介します。


およそ惨めなものは、将来のことを不安に思って、不幸にならない前に
不幸になっている心です。

セネカ

幸福への道は、ただ一つしかない。
意思の力でどうにもならない物事は、悩まないことである。

エピクテトス

見よ。
平安な敬虔な生涯を送るために、克服しなければならないことの、いかに少ないことか。

アウレリウス


ストア哲学は、物質的なものや外的な環境に左右されることなく、内面的な平和と自由を追求し、自分自身を改善することによって、より豊かな人生を送ることを目標にしています。

人間の欲望や快楽に飲み込まれず、心の安らぎを得ることを目指した哲学なのです。ストイックという単語はこのストア哲学から由来しているそうなのですが、禁欲というより欲望に理性を持って打ち勝つという意味に近いです。


これは僕自身も、まさに大事にしていた考え方でした。僕はこれまでの人生でいろんなことを試した結果、心の平穏を求めていたことがわかり、このストア哲学にはヒントとなることが、いっぱい詰まっていたのです。

これまでnoteで書いてきた「コケ植物のように生きたい」とか「のんびり生きたい」というのも、突き詰めれば、心の安らぎを追い求めていたのです。

濁流ではなく、里山に流れる清流(地元のど田舎で見たような)のような心でいたい。それが、自分にとっての北斗七星のような道しるべなのです。



こうして記事の軸が定まった


そういうわけで、自分の書く記事の方向性も自然と定まりました。

この前に、記事の軸について書きましたが、2つあるうちの1つの軸が、この「ストア哲学のように内省記事」になりました。ちなみに、もうひとつの軸は、「理系の話を日常に当てはめた記事」です。

『自省録』のように、書く瞑想を行う目的で作った記事は、ずっと書き続けられると思います。人生を通して目指すところだから。


この「ストア哲学のように内省記事」は自分自身に向けて書いた文章に近いですが、誰かの役に立つものであれば嬉しいです。

最近、紙の日記に書く方はおろそかにしがちだから、もう一回習慣化しよう。やっぱnoteはどうしても、「読まれるためには」という周りの視線を意識してしまうから、読まれることを気にせずただ書きなぐる日記も大事だと感じる、今日この頃です。


ストア哲学の話が出てきて、すごい堅苦しい内容だったかもしれません。だけど、皆さんが想像しているより難解ではないです。そして本文中でも書きましたが、実践的な学問です。実際、シリコンバレーの起業家たちやアスリートのあいだで、流行っているそうです。1800年も前に書かれたのに、いまだに読み継がれていることに、畏敬の念を感じられずにいられません。気になった方は、ぜひ読んでみてください。

今回の記事も長くなってしまった。


参考文献


ちょっと前に菅田将暉が主演のドラマでやっていた「ミステリと言う勿れ」にも、『自省録』が出てたみたいですね。このドラマ全く見てないけど。

ちなみにストア哲学の創始者はゼノンという人で、アテネのアゴラ(公共広場)に面するストア(列柱)の下で、哲学を教えていたので、ストア哲学という名前になったそうです。

あれ、アゴラリレーエッセイのアゴラって、このアゴラでしたっけ?
よく理解しないままリレーエッセイに参加していたので、ちゃんと勉強し直します。


僕が参加していたリレーエッセイの概要はこちら▼

僕は第1走者だったのでもう終わりましたが、まだまだ絶賛リレー中なので、ぜひみなさんの記事を読んでみてください。

テーマは「有意義で無意味」です。これからさらに、どんな記事が生まれるのか、楽しみだ。月曜日に更新されていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?