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あをぞら 8 ダーモリアス(書き下ろし短編小説 前編)

 車を使えば家からさほど遠くない場所に愛国駅があり、また少し離れたところに幸福駅がある。結菜(ゆいな)の家は五代続く農家であった。広大な平野の真ん中あたりに位置している。初代は原野に入植した一人で、開拓は祖父の代まで続いた。
  冬は長いけれどもきっぱり終わった。唐突に暖かい日が訪れて、薄い靄に覆われた景色が春の到来を告げる。遠くには日高山脈が浮き立って蜃気楼をイメージさせた。そんな日は天地が逆転して青空が地上まで降りてきた。

 荒々しい歴史を抱いた土地は原野の面影を薄くして沃野となっている。結菜は何不自由なく幼少期を過ごした。しかし、高校の三年間は友達ができなかった。一年生の秋、小麦の種まきが終わった頃のことだった。四五人に囲まれた結菜は、「親切のつもりなんだろうけど、そのちょっかいってさ、相手を取り込む気持ちっていうか、自分がウエって言ってるわけ、支配欲が強過ぎじゃない」などと指摘されてから無口になった。日を追うごとに、人から嫌われる自分を、もう一人の自分が嫌うようになっていった。それでも希望は捨てなかった。その内に「人に疎まれる私を私が好きになろう」と言いきかせた。東京の大学に進学して思うままの生き方をしよう、と受験勉強に打ち込んだ。そして志望の大学に進む。

 高校の卒業式には出席しなかった。両親は「考えがあってのことだろう」と理解を示し、担任の教師からかかってきた電話にも、そのように応えてくれた。翌日、学校に出向いて担任に挨拶をした。先生から「よく頑張り抜いた」といわれた結菜は、俯いて涙を零した。
 動き出した羽田行きの機内から送迎デッキの両親と弟に手を振った。真っ青な空へ上昇する飛行機から雪をまとった日高山脈が見えた。

  大学の四年間は無難に過ごした。恋をし、別れの痛みを知り、サークルでは底抜けに笑い合う日もあった。三年生の春頃から就活を始めて、最初に内定をもらった広告会社に勤めた。

「今頃はメイクイーンの花が咲いている頃かな」と窓から射し込む光を手の平で受けている。休日の晴れた朝が好きだった。わけもなく嬉しさに似た感情が胸を充たしてくる。眼に入るすべての持ち物に頷いたりラジオの音楽に躰を揺らしたりしてしまう。窓を開ければ多摩川のグラウンドから少年たちの声が風に乗って聞こえてきた。
 職場の人間関係に悩むことはあった。毎日の残業に押し潰されそうになることもあったけれども、どんな場合でも自分を労わった。
「暗い雲の先は青空よね」
 小さな鉢植えを、光にかざして呟いている。小指の爪ほどもない赤い花が二輪、開花していた。四枚の花弁を小さな緑の葉が二枚、花を支えるかのように寄り添っている。花の名前は分からなかった。散々にスマホの画面をタップしたけれど判然としない。もやもやするような日が続いたある日、不意に「ダーモリアス」という言葉が口の端に上った。
「ダーモリアス、そう、いい名前だね」

 二年前、道端のコンクリートの裂け目に見つけた花だった。可憐さに魅かれてしゃがみ込んで見つめた。トウキョウという未だに捉えどころのない都市の一隅に、頼りなさげに花をつけている。小さく可憐でありながら凛然としている。幼い頃から見知った、植物の生命力に見入った。
「きみの種をここまで運んだのは蟻かな、巣まで持ち帰れなかったのね」
 指の腹でそっと株に触れてみた。花は結菜の指に応えて花弁を揺らした。いとおしくなって茎を摘まんだ。軽く引いてみると何の抵抗もなく、花は、コンクリートを掴んでいた手を離した。結菜ははっとして元の裂け目に戻した。わずかな土にしがみついて光合成を果たしている命を危険にさらしたような気がした。それから急ぎ足で家に戻り、今は使わなくなった揃いのコーヒーカップ(あいつが使っていたカップなんかもう要らない)の一つを持って多摩川の土手へ急いだ。カップに土を詰めた。それからコンクリートの裂け目に戻り、ていねいに指先で茎を支え、コーヒーカップに植え替えた。顔を近づけてみれば、ふと、記憶の底から大地の匂いが立ちのぼる。コーヒーカップを両手で持って顔の前に掲げたとき、別れた男の顔が浮かんだ。「こんなふうに優しく包まれたこともあった」と二人で過ごした日々がおぼろに浮かんだ。

 四枚の花びらは日ごとに色を失くしていった。その様子を、朝にも夜にも見つめた。鮮やかな朱色を見せていた花弁は日ごとに褪せていき、やがて器の土に散った。ただ、コーヒーカップの傍に弾けた種子には気がつくことがなかった。昨日と同じ顔で訪れる結菜の日々、飼い慣らすことのできない激務の中で、丸い種はあまりにも小さな存在であった。


 ダーモリアスは忙しさの中で忘れられた。
 日々は、課内の二年上の女性と調和をとることができないまま暮れて、また朝を迎えた。相手の顔や自分が否定される言葉が浮かぶたびに、深い呼吸をさせられる。他人を嫌い、自分を嫌う日常が、また、始まりそうになる…そいつを抑え込めば、もう一人の自分から見返えされているようで嫌になる。心に鈍い痛みを抱えたまま冬をやり過ごし、東京に桜の季節が訪れても晴れやかな気持ちにはなれなかった。

 変化は翌春に起こった。東京に染井吉野の開花が宣言されてから幾日かが経っていた。
 部屋の中に花が咲いた。

 雨に肩を濡らして仕事から戻り、部屋の電気を乱暴に点けて、着替えをしながら、冷蔵庫の取手に手を伸ばそうとしたとき、ふと、眼の端に赤いものを見とめたのだ。株が二つ、二つの茎に二輪ずつの花が咲いている。小さな叫び声が口を突いた。
「ダーモリアス!」
 初めてコンクリートの裂け目に花を見つけた瞬間が甦った。躰が熱くなった。着替えもそこそこ、赤い花を見つめた。花びらは中心のあたりから根元にかけて赤色から紫色に変化している。コーヒーカップを両手に包んだ結菜は、花と葉の可憐さと色彩のグラデーションに魅入った。高一の秋、眠らずに迎えた朝の、山脈の上空に広がった朝焼けが脳裏を充たしていく。
「すごいよ、ダーモリアス」


 床に仰向けになった結菜はじっと天井を見つめている。広大な平野を思い浮かべている。祖父の開拓時代の話が思い出された。不毛の土地といわれて開墾を諦めそうになったと話した嗄れ声がよみがえる。
「冬は長いのよ、いつだって寒くて長い…もうすぐメイクイーンの花が咲く、そろそろ紫がかったピンク色の絨毯が見られるころかな…薄桃色の花はダンシャク、トヨシロやコナフブキ、そう、ベニマルも開花する」

つづく


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