宮嶋康彦 Yasuhiko Miyajima

作家・写真家。孤独という自由に気が付くまで長い時間がかかりました。主な出版物は『あおぞ…

宮嶋康彦 Yasuhiko Miyajima

作家・写真家。孤独という自由に気が付くまで長い時間がかかりました。主な出版物は『あおぞら』(情報センター出版局)、『誰も行かない日本一の風景』(小学館)、『だからカバの話』(朝日新聞社)、『脱「風景写真」宣言』(岩波書店)、『たい焼の魚拓』(JTB出版)ほか。

最近の記事

あをぞら 8 ダーモリアス(書き下ろし短編小説 前編)

 車を使えば家からさほど遠くない場所に愛国駅があり、また少し離れたところに幸福駅がある。結菜(ゆいな)の家は五代続く農家であった。広大な平野の真ん中あたりに位置している。初代は原野に入植した一人で、開拓は祖父の代まで続いた。 冬は長いけれどもきっぱり終わった。唐突に暖かい日が訪れて、薄い靄に覆われた景色が春の到来を告げる。遠くには日高山脈が浮き立って蜃気楼をイメージさせた。そんな日は天地が逆転して青空が地上まで降りてきた。  荒々しい歴史を抱いた土地は原野の面影を薄くし

    • あをぞら 7 忘れ得ぬ人

       袖触れ合うも他生の縁、という。少数の原人から派生して、今は80億人になろうとしているヒトは、どこかで、同じ遺伝子が反応し合うことはないのだろうか。懐かしい感情が湧き起こることはないのだろうか。そうであってほしいと思う。  こんなことを経験した。    見ず知らずのこの女性が、忘れ得ぬ人、となったのはなぜだろう。 京都の紺屋の取材を終えてバス停にいた。雨が降っていた。夜の帳が下りかかっている。  京都駅行きのバスが止まった。乗り込もうとしたとき、乗客の女性と眼が合った。一

      • あをぞら 6

         秋も晩いころのこと。 「しちじゅうよんさいとはちかげつ、わたし、あんたどこのひと」。 白髪の、まだいくらか艶を残した髪を肩に垂らしていた。 「せんせんげつ、おとうさん(夫)がしんだの」  農家の取材に入った越後の中山間地。久しぶりに晴れて村内を歩いていたところへ唐突に話しかけてきたのだ。 「おとうさん、しぬ二日前までわたしにしてくれたの。まい日まいひかわいい言うてしてくれた。あんたどこのひと」 この女性のことが忘れられない。いまも、その声、その口調、空と雲を映した眼が生

        • あをぞら 5

          水鏡 夏の尾瀬で烈しい雷雨に遭った。 ブナの木陰で身を潜めた。足元へ流れ出た水が広がっていく。やがて雨は止み、黒い雲の後ろ姿を見送った。足元の水溜りが空を映している。濡れた小石を一つ手のひらに取った。思えば石はこの世で一番古い存在、この水も。水溜りに小石を放れば水紋は無限を描いてみせる。静まった水鏡に空が映える。地球の創成期もそうであったろう。何千年も降り続いた雨が止み、出現した巨大な水溜り、海は、はじめに空を映しただろう。

        あをぞら 8 ダーモリアス(書き下ろし短編小説 前編)

          あをぞら 4

          繁華な街の横断歩道で信号待ちをしていた。空を見上げる人がいた。 幾人かが彼に倣うよう、視線を上げる。私も。雲が浮かんでいた。ほかにはなんにもない。視線を戻せば信号が青に変わって、ヒトは一斉に向こうへ歩き出す。なぜ、彼に倣ったのだろうと考えた。そう、原初のヒトが初めて感情をもったとき空を見上げたかもしれない、と、また空を見る。

          あをぞら 3

          雪音  昼を過ぎたころから風雪は強まっていた。山間の国道では車道が見えなくなることもあった。ちいさな集落を過ぎてから十キロほど登っていた。高度が上がるほどに風と雪は烈しくなる。危険を感じて峠越えをあきらめた。激しく動くワイパーの隙間から林道の入り口が見えた。そこで風がおさまるまで待とうと判断した。たぶん翌朝までは動けない。風が凄まじい音を立てながら木々を煽っている。大型カメラや三脚などの撮影機材、キャンプ道具など、かなりの荷物を積んでいるけれどもワンボックスの車は揺れる。

          あをぞら 

           上野発札幌行きの寝台列車が宇都宮を後にした。引きも切らない人気と聞いていたB寝台個室であったが、運よく当日にキャンセルが出て潜り込むことができた。いつだって、駅に行けば目的地に運んでくれる、そう思っている。行き当たりばったりの取材旅行を続けていた。  4号車のサロン。隣り合わせた女性と十分ほど話を交わした。大学生らしい。八つ上の兄の結婚式に出席するために札幌の実家に帰るところだという。どこまで行くのか、と訊かれて、自分は仕事のために札幌まで行き、特急と各駅停車を乗り次いで

          あをぞら

          ピエロの空・・・・・・1 パキスタンからやってきたというピエロが投げ上げた赤いボールは、新宿の空へ吸い込まれていくかにみえて、また、白い手袋のピエロの手に落ちた。 数年前、パキスタンの首都カラチ郊外の白砂の海岸でラクダに揺られたことを思い出していた。真っ青な空と藍に深い海を見た。ながく、アフリカの荒れ地を旅したあとのことだった。海と空の光に照らされた、あらゆるものが、そう、朽ちた舟でさえ、みずみずしい命を宿しているかにみえた。潮の匂いをかぎながら、フタコブラクダの背中に揺

          あをぞら

          孤独という自由に気がつくまで、長い時間がかかった写真家で物書き(小説、詩、ノンフィクション)、製本家。 身近なひとを失ってから、東京の暮らしを止して栃木県日光市の山中(標高1500メートル)に移住した。山の暮らしは六年に及んだ。森を、湿原を、沢を歩き、大樹のかたわらで夜を明かす日々が、その後の血肉になっている。山暮らしを始める以前の作品対象は「東京」「都市」「ひと」などであった。そこに「自然」が加わった。 山の暮らしは、シャッターを押すこと、書くこと、フライフィッシングと魚