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理想よりも勢いが大事ってこともよくある ”モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー『展覧会の絵』”







とても有名な曲なのですが、ピアノ曲が原作で、そちらで聴いてみると全然雰囲気が変わって仄暗く不安定です。じんわりとそれでいて率直に響いてくる良さのある演奏にエンカウントしたので書きました。

絢爛豪華なアレンジも素晴らしいですが、魔術めいた不思議さ、不安定さ、それらを包み込む慈しみ…そういった原曲の生の魅力も良いものです。



急逝した友に突き動かされて


モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(1839-1881)は貴族の家に生まれ、武官を志してペテルブルクに上京します。士官候補生に合格し理想に燃えるエリート候補生は母から手ほどきを受けた(ここすげえ貴族っぽい)ピアノと歌にも優れ、ここで文化人たちとの出会いを通じて音楽の道へ。音楽界の指導者的存在であったバラキレフに見いだされます。彼のプロデュースした音楽家たちは後に「ロシア五人組(Могу́чая ку́чка:力強い一団)」と称され、祖国ロシアとその音楽の目指すものを発信していきます。

ムソルグスキーは型にはまることを極端に嫌い、どんな賛辞を受けたとしても自分の作品に決して満足しなかったと彼の遺した書簡が語っています。その理想の高さと生家の没落、官職での挫折が枷となり、不遇をかこつ生涯であったようです。

「五人組」として様々な文化人と交流のあったムソルグスキーですが、デザイナーのヴィクトル・アレクサンドロヴィチ・ガルトマン(1834-1873)とは特に親しくつきあっていました。楽しく飲んでいたムソルグスキーとガルトマン、気分が悪いというガルトマンの言葉を大して重く受け止めていなかったムソルグスキーでしたが、そのわずか4日後にガルトマンが急逝してしまいます。

ガルトマンを偲んで遺作展が開かれます。友を亡くした喪失感、自分が助けられたかもしれないという悔恨、簡単なスケッチなまま完成を待たずして残された作品たち。それを見たムソルグスキーは取りつかれたように作品を書き上げます。それがこの「展覧会の絵」であるということです。

作品の根底にあるのはやはり「死者の声」ということになるでしょう。プロムナードのテーマはロシア合唱の形式をとっており、伴奏無しで始まります。鎮魂の言葉は「カタコンベ」とその次の「プロムナード」で繰り返されます。フィナーレの「キエフの大門」で終結を導くのは正教のコラールです。この「大門」はガルトマンによるデザインがコンペで入選したもので、鐘塔を伴った荘厳なデザインになっています。

土俗的なインパクトのある「グノーム(膝の曲がった小人)」「バーバ・ヤガー(山姥)」はムソルグスキーの十八番といえるものですが、「チュイルリー広場(こどもの喧嘩をたしなめる母親)」「ひなどりのバレエ」「リモージュの市場(かしましい活気ある様子)」といった瀟洒な小曲もちりばめられていることが味わいを豊かにしています。フランスやイタリアに訪れ構想を練る生前のガルトマンが偲ばれます。



忘れ去られ、憑かれるように蘇る音の絵巻


3週間ほどであっという間に書き上げられたというこの曲ですが、演奏されるどころかムソルグスキー本人ですらも関心を失うような有様で(生涯を通じてムソルグスキーが追い求めたものはオペラの作曲でした)、同じ「五人組」のリムスキー=コルサコフによってサルベージされることでムソルグスキーの死後ようやく表に出てくることになりました。やはり理想の高さが徒となっているんでしょうか…

(余談ですが、このリムスキー=コルサコフとかいう人のまめまめしさとかやさしみは完全にヒーローのそれで、この人がいなかったらどれだけ「五人組」の作品が世に出ないまま終わったのかと思うとなかなか大変な偉人であると思います。)

リムスキー=コルサコフによってかろうじて消えずにすんだ「展覧会の絵」ですが、50年の時を経て音楽界に衝撃を与えます。モーリス・ラヴェル(1875-1937)による編曲です。華麗なオーケストラ音楽を生み出してきた「魔術師」は、この曲を絢爛豪華な音楽絵巻に仕立て上げ、オーケストラによる演奏で大成功を収めました。






数奇な運命を経て、ガルトマンの「キエフの大門」はその威容を全世界に知らしめています。現実には建築されることのなかった門が世界で最も有名になったのです。


あまり霊的なものは信じない性質ではあるのですが、こういうのを見ると、ガルトマンの無念が、ムソルグスキーの執念が、何かを動かしたのではないかという気がします。




*参考






他、ライナーノートなどを参照