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【読書録】日本のカーニバル戦争(ベンジャミン・ウチヤマ)

 日常の生活の中で自分は外力からくる熱狂に踊らされていないか、そう考えさせられる一冊だった。
 日中戦争から太平洋戦争敗戦に至るまでの日本の文化的活動は、総動員体制下にあって、戦争遂行に都合のいいようによく統制されていたと、私も含め多くの人が印象していると思う。実際教育現場でもそういった教えがなされているし、この頃オンデマンドで日がな一日見ているNHKスペシャルの映像の世紀や、戦争特集でも大体において為政者によって統御される文化活動が描かれている。
 しかし本書の著者によると、実際の戦時日本臣民の文化的活動は、国家による統制と、大衆消費文化のせめぎあいの中で振り子のように揺れ動いて存在していたという。
 そのせめぎあいは、職工や従軍記者、兵隊、映画スター、少年航空兵のような文化的表象を介して現れる。例えば職工の場合、彼らは政府が求める「産業戦士」とての顔と、若くして高給を手にした驕奢な消費者としての顔の二面性を持つ。職工たちに対し、政府は時機に応じて優遇と統制の双方を与え、一般臣民は、産業戦士への敬意と、消費文化の先導者への羨望、そして彼らの品行に対する不安、侮蔑を時期によって強弱を入れ替えながら、与え続けた。
 著者はこのような文化的表象を、総力戦という特異な状況下で、政府と臣民によって称揚(戴冠)と規制・侮蔑(奪冠)を繰り返されるありようから「カーニバル王」と呼ぶ
 総力戦下、臣民(=消費者)のみならず企業も経済の統制者たる政府のほうばかりを向いて、その文化的「演出」に沿う形で経済活動を行っていたと私たちは印象しているが、消費文化の根付いた日本の都市にあっては、企業は政府よりも、消費者に受けるものを売ることが利益確保のために必要だった。この、ある意味消費者の側に立つ企業の存在もまた、カーニバルの成立に大きく与していたことは疑い得ないだろう。

 さて、戦時日本で見られたこのカーニバルは、冷戦期などその後の時代も世界各地で見られたと著者は述べる。そしてそれは、現在の日本社会でも起きていると私は思う。
 現代の「カーニバル王」の一例は韓国(人)、朝鮮併合に端を発する国民感情のしこりから、冷ややかな目を向けられがちだった韓国や在日朝鮮人に対し、政府は竹島問題などを抱えつつも陰に陽に協力・支援を行ってきた。
 そんな韓国・在日朝鮮人に対する一般大衆の心理は、戦後しばらくの時期は元宗主国の優越感に基づく「バカチョンカメラ」に代表されるような侮蔑の意識であったが、2000年代頃から領土問題の高まりや、日本社会における韓国の文化的、経済的存在感の高まりに対する反作用としてか「嫌韓」の語に代表される敵意が大きなウェイトを占めるようになってきた。
 その一方で、韓流ドラマ、K-POPへの人気を背景として、韓国に対する羨望の意識も、消費者の中では大きな広がりを見せている。この韓国をめぐる消費者の意識の変化は、日本を取り巻く国際情勢の変化によって引き起こされた「カーニバル」の中で、韓国がカーニバル王として「戴冠」したととらえられるだろう。
 韓国以外にも、国際情勢を基とするカーニバル王としては、その盛り上がりに程度の差はあるが、クルド人、パレスチナ人、トルコ人などがあげられるだろう。

 この現代のカーニバルにおいて、せめぎ合うのは国家による統制と大衆消費文化だけではない、消費者の間でも、文化的表象をめぐってせめぎ合いが起こっている。韓国の例でいえば、韓国文化のファンたちが、かの国とその国民を称賛し、カーニバルの王として即位させようとするのに対し、「嫌韓」の人々は韓国の文化や国民性、科学技術などを罵倒し、彼らが日本社会にもたらす害を声高に語り、光の王座から引きずり降ろして魔王として戴冠させようとする。
 そして、消費者間のせめぎ合いは、「法」によって縛られた国家との戦いと異なり、直接的・攻撃的となりがちである。SNS上では、韓国や、その文化を楽しむ者を直接攻撃するような言説が流布され、それに対し、新韓国の消費者は反撃のリプライを送っている。
 そしていつしか私たちの思考は、自分がその文化的表象をどう思うか、から、その文化的表象をめぐって自分と異なる立場にいる人をいかに言い負かすかにずれ込んでいく。カーニバル戦争の中で諸方面から加わる力に対する反作用としての思考にとらわれるようになり、カーニバルの一員として踊り狂うことになる。
 だからこそ私たちは、自分の思考を自省しなければならない。自分の頭脳は本当に自分の幸せの方向に向かって考えているか?自分がいまの感情を抱くに至った理由は何なのか?自問自答し続けなければ、流れに流され、いつしか道を見失う。その先は破局かもしれない。

 話題は変わるが、本書を読んで、古代文学の研究をかじった者として、近代文学・文化の研究環境を非常にうらやましく思った。
 近代においては、文学・文化の作品だけでなく、報道や大衆の日記、詳細な行政文書など、豊富な同時代評が残る。それは、その時代における文化的な「戦争」の様子を子細に伝えてくれる。
 私が研究した万葉集など古代の文学は、作品を後世に残す力を持った者が「残そう」と思ったものしか残らない。
 その力を持つものはたいてい為政者の側であるから、文化的なせめぎ合い「カーニバル戦争」の記録は残らず、為政者の「きれいごと」に適合するもののみが残る。だからこそ、古代文学を読むときは、それが「きれいごと」として残されたものであることを常に意識しなければ、当時の社会の様相を読み違えてしまう。

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