空繭

「貴方に呪いを残す事にしました」
 紫陽花で青白く染まる階段を下りながら、貴女は私の方を振り返ることも無くそう言いました。たたらを踏んで青く色付く前に枯れ落ちた花がかさりと音を立てます。私は呪いという普段耳慣れることのない言葉に、愚かしくも同じ語句を反芻して貴女に問うことしか出来ませんでした。
「ええ、呪いです」
 口の中でその言葉を慎重に転がすようにしながら呟き、そうしてゆっくりと貴女は私の方を振り向きました。貴女の顔は夕闇の逆光の中で輪郭を失ってしまっており、今となっては定かに思い出すことも覚束ないのですが、痙攣を起こしたように歪められた唇が三日月のようにしてそこに在ったことだけは覚えています。酷く青白く、それでいてどこか生々しい美しさのある病的な唇。そのうつつではないような唇に私は魅入られてしまいました。だからこそ私は、それに続くようにして放たれた彼女の言葉の糸に今も絡め取られているのです。
「貴方は、もう恋なんて出来ないでしょう」

 私にとって、北鎌倉という町は好ましい処ではありませんでした。それは私と彼女に縁のある地であるということも勿論あったのですが、北鎌倉という土地に染み付いた空気のようなものが今の私には耐えられなかったのです。土地に染み付いた空気、というのが耳慣れないというのであれば、土地柄、風土、気風などと言った言葉に言い換えた方が適切なのでしょうか。
 これは特に近年に見られる傾向だと思うのですが、コンクリートで塗り固められていつかどこかで見たような店ばかりが並び、画一化した「都会」に成り果ててしまったような場所が多くありました。一方で、自然の裡において、幾つかの感情を土地自体が内包し続けているような場所がある、というのもまた事実であるように思うのです。
 幾つかの感情というのは往々にして、離別であったり哀切であったりといったような情念を含むものです。もしそれらを具体的な場所として提示するのが許されるのであれば、それは安曇野であったり、伊勢・志摩であったり。そして、今まさに言及しているところの北鎌倉であったりといったような土地が挙げられるでしょうか。
 実際にその地へ行ったことのある方のうちで幾人かはそのような面もあるだろうと納得していただける方もいるでしょうし、もし仮にそうでなかったとしても、それらの舞台を題材にした歌が何故か示し合わせたように物悲しきフレーズに乗せてその場所性を物語っているのです。
 ここまで詭弁を長々と弄して来ましたが、つまるところ私は自分自身の思い出がそんな戯言に重なってしまったように感じて怯えているだけなのかもしれません。その日、私は鎌倉へと仕事の都合で足を伸ばしていました。北鎌倉という場所まで足を運ぶつもりなど毛頭なかったのです。鎌倉で仕事の打ち合わせを行った後、時間が出来たので小町通りを散策し鶴岡八幡宮へと至りました。本来であればそれで終わりのはず。そうでありながら、あるいは今日という日がかつて自身にとって特別な日であったということも相まってか、八幡宮の脇の細道を通り抜ける道を辿っていました。
 鎌倉から北鎌倉へ。あれはもう何年前のことになるか分かりませんが、彼女との想い出を辿るようにして、いつの間にかあれほど忌避していたはずの北鎌倉へとたどり着いていました。鶴岡八幡宮から欧林洞を、建長寺を、トンネルを、東慶寺を通り抜けます。


『東慶寺は何という名前で呼ばれているのか知っていますか』
 北鎌倉駅から五分ほど歩いた東慶寺の苔むした緑の中で、彼女は私にそう問いかけてきた記憶があります。私と彼女の会話はいつもそうでした。彼女の難しい問いかけと、そして沈黙か気の利かない私の返答によって構成されていました。
『縁切寺。直截に言うと男女の縁を切る場所です』
 滑らかな刃を突然首筋に当てられた気分でした。そんなところにわざわざ来る必要はないじゃないか、としどろもどろになって返した私に対して、『あら意気地がないんですね』と底意地の悪そうな笑みを浮かべたあと、
『下調べもしないでデートに来るというのは減点ものです』
 そう言って、その後のデートでは散々とせびられたものでした。


 東慶寺を過ぎ線路を越えた頃に突然雨が降り出し、慌てて鞄を翳しながら走ります。そうして走り行った先には、水気を含んで深緑に照り輝く葉に囲まれた赤レンガの館がありました。頼りなく明滅する電燈の灯。全ての色を吸い込むような白い紫陽花。「葉祥明美術館」と、そう記銘された館はどこか厳かで、それでありながら私を優しく包むような何かがあり、私はふらふらと惹かれるようにして足を運び入れていました。
 葉祥明。愛と命の輝きを水彩の淡い色彩で彩ったその絵の緑色に、そして水色に包まれて気付けば入場料を払いカーテンの向こう側の個展へと趣いていました。
 『エーゲ海の午後』も『銀河鉄道の夜』も私の目を惹くものでした。しかし、展示されている作品の中でも、私はある一つの絵画の前で足を止めることとなりました。『宇宙葬』と、そう名付けられた作品は、さながら厖大な空に放り出されてぽつんと浮かぶ繭のように見えました。静謐な濃紺の世界において、淡いを経て白く色づいた幻影だけがどくどくと波打ち、そこにはただ、生命活動を維持するというには余りにも頼りない微かな息吹があるだけでした。
 その絵を目にした瞬間に、嗚呼、これはまさしく私と彼女のことなのだ、という考えが頭をよぎりました。「愛とは個人の喪失である」と唱えたのが誰なのかは思い出せませんでしたが、彼の人が唱える喪失的な愛の形とはきっと違うことでしょう。罪悪の糸が私を捉え、繭のように絡まり、その内側で私と彼女は融け合い境界性というものを失っていく。彼女の殻は風化して塵となり、かつて彼女が確かに居たという残照だけが僅かに私の心に残る。そうして残された私は一人、微睡みの中に身を横たえることで裂傷の走る痛みを鈍化させ、世界というものの中で色褪せていく。
 恋愛というものを罪悪と呼ぶのかと問う人がいたのならば、確かにそれは罪悪と呼ぶべき形をしていました。私は罪を犯し、そしてその過去が、私を捕えて離さないのです。その絵を見てしまい、胸に抱えていた痛みはますます立体的な形を取って襲ってくるようでした。へなへなとソファに崩れ落ち、気付けば二階へ行くこともなく私はふらふらと美術館を出ていました。

 胸の痛みを抱えたまま、呆然として奥へ進みます。そうして意識してか無意識か、彼女に決定的な言葉を放たれた場所である明月院へと至りました。
 六月中旬の紫陽花の盛りよりも、遥かに前であるということもあり人も閑散としていました。縁結びの効果がある不動明王の前にも、明月院名物の丸窓の前にも並んでいる人はいません。私はそのまま紫陽花の見えるところへと移動することにしました。木で出来た橋を渡っていると、そこから遠目に見える紫陽花は、時期外れということもあり、ほんのりと翠を帯びているだけで薄く気の抜けるような色をしていました。そうして橋の高く盛り上がったところに差し掛かったとき、凛、と何かが鳴る音がしました。それに合わせるようにして、前を歩いていた人の傘が回ります。白い傘。それは透明であるという訳ではなく、先ほど美術館で見たような外界を周りから切り離すような、そんな白さでした。
「桜の木の下には死体が埋まっている。同じようにして」
 鈴鳴り。冷徹さと妖艶さが同居した声。くるくると回る白い傘。
「原理は違うのだろうけど、青い紫陽花の下には死骸が埋まっている」
 くるくるくると回るたびに白い傘にマーブルのように水色が混ざり始めます。白色。水色。青色。溶け合うように、混じり合うように。そうしてそれが元に戻らないように。
「であるならば、私がここに居るというのもそれほどおかしな話ではないでしょう」
 傘がおもむろに回転を止めました。眼前に広がる一面の蒼。金具の音がして傘が折りたたまれます。いつの間にか傘によって遮られていた視界が明瞭になり、そうしてそこにあったのは
「茉佑……?」
「ええ、お久しぶりです」
 傘と同じように薄緑から青色に染まってしまった紫陽花の群れと、忘れもしない彼女の姿でした。
「なぜ」
 目の前に彼女がいるのに。ああ。彼女がいるからこそ、言葉になりませんでした。
「北鎌倉は情念の墓場。人の酸い想い出が人知れず捨てられる場所。だからそんな酸性を組み込んだ土壌で育った紫陽花は青い。いえ」
 逆説的な話となってしまいますが。
「紫陽花が青いからこそ、そこに蓄積された情念は消えることがない。だから私が。いえ、あの日置き忘れた情念としての『私』がここにいるのです」
 彼女は三日月のように口を歪めて、冷笑したように見えました。

「『貴方は、もう恋なんて出来ないでしょう』でしたか。たしか私はそう言いましたよね」
 この際時間もあまり無いですし面倒ですから前置きは省きますが、なんて言って彼女は直截に私に切り込んできます。先程の美術館でフラッシュバックした想い出が私を襲い、何も言えなくなりました。
「何故あの時、私があのような言い方をしたか分かりますか」
 それは。どうしても何もないでしょう。その言葉の後に跡形も残さずどこかへ消え去ってしまった彼女をみるに、私が何か気に障ることをして。そうしてその応報として私に戻ってきたものであるのでしょう。
「…………合いも変わらず愚鈍ですね。女性の機微を読み取れないなんて男性である価値がありません。去勢すべきでは?」
 まぁもっとも彼女の言い方に当て付けが含まれてなかったということはないですけど、それに黙って姿を消した私に落ち度がないとは言わない訳ではないではないですけどなんてしれっと言い足しました。しかしあの言葉が私の戒めであるというのも事実なのです。恋が出来ない。そんな言葉は私の体にたしかに刻みつけられて、恋をしようとする時に限って私を縛りつける糸となりました。そんな私に彼女は大きな溜息をつきました。そして
「きっと『私』は。いえ、あの時の私は貴方を守ろうとしたのですよ」
 守るなんて。それではまるで真逆じゃないか。そんな私の言葉は無視して彼女は続けます。
「勉強しかり仕事しかり。恋というものにもまた向き不向きがあります。貴方の恋の形は受ける形、縛られる形、篭る形」
 まるで謡い上げるかのように彼女は述べます。繭とは縛るためのものではなく何かから守るためのものである、と。
「今の問答の様子を見るにまだそんな気質は見えますけど。でも貴方が社会に出る前、もう少し子供であったときはその傾向がもっと激しかった」
 それは、と言いそうになり口を噤む。
「愛の形を知らず、それでありながら恋をどうしようもなく焦がれる。そんな貴方が所謂『普通の恋愛』をしようとして傷つかないはずがない。だけどあの時の彼女ではそんな貴方に愛を与え続けられるほどの余裕がなかった。だからあの言葉は。せめてその大きな痛みから貴方を守るための彼女なりの繭だったのですよ」
 クソ過保護とも言うんでしょうけどね。言葉が悪いくせにダダ甘ですし、痛みなくして改革も成長もありませんよ、なんて私の方をちらりと見ながらそう言いました。つまり。つまり私はどうするのが良かったんでしょうか。そんな私の嘆きに溜息をつきながら、それはこれからきっと分かることですよ、彼女と貴方にはまだ縁が見えますからね、なんて意味深長なことを言いました。
「おや、晴れましたね」
 気の抜けるような、もしくはさっさと話題を切り上げに掛かったかのような唐突な話題。空から射す光が紫陽花の上に光る雨粒を燦めかせます。彼女の顔は雲間から伸びる逆光の中で輪郭を失っており、よく見えませんでした。
「まぁ一つだけですが今後についてのヒントは差し上げましょう。青い紫陽花の花言葉は『冷淡』『無情』、そして――」
唇に指を当てて。
「『辛抱強い愛情』」
 目の前にいた彼女が突然傘をかざしました。青色に染まる視界。ぐるぐると回る青色とそれに混じっていく白色。凛という鈴鳴り。私の背後でぱさりと何かが取り落とされる音。
そうして後ろを振り向いてみると、呆然とした様子で白い傘を取り落とした水色のワンピース姿の彼女が立っていました。
「茉佑」
「ええ、お久しぶりです」
「きみはなんで……」
 少し逡巡した後に
「今日はここで貴方と出会った日で、そして貴方と別れた日でもありますから」
 彼女は寂しげな表情をしながら、三日月のように不器用に口を歪ませました。

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