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伊那高遠 天下第一の桜

2023年春、「青春18きっぷ」を買った。
今回は、関東甲信地方でこれまで出向く機会のなかったところへの日帰り散歩を5回しようと思い立った。
そのうち、長野県伊那市高遠に出かけた日について記す。


唱歌「たきび」

かつて私は東海道本線東京発静岡行き、常磐線上野発四ツ倉行きなどの中距離普通列車によく乗車していた。1本である程度まとまった距離を移動できて、都心から少しずつ離れていく車窓風景が映画のように鑑賞できる。それをボーッと眺める時に、至上の価値を認める。この乗車目的に対して青春18きっぷは強い味方である。しかし近年はほとんど途中駅で細切れになってしまった。淋しいというだけでなく、東京という街が持つ傲岸不遜ぶりさえも感じさせられる。

そんなご時世だが、中央本線では今でも中距離運用普通列車をいくつか残してくれている。今回の伊那高遠行きを立案するにあたり、八王子6時35分発松本行き429Mに目をつけた。これを使えば、乗り換え1回で高遠行きのバスに接続する飯田線の伊那北まで行ける。

ただし、6時35分までに八王子駅のホームにたどり着くためには、家を相当早く出なければならない。普段使っている路線バスが運転されている時間ではない。タクシーなど使ったら青春18きっぷの意味がなくなる。最寄りのJR駅まで真っ暗な夜明け前の道を数十分かけて歩き、山手線で新宿へ。この頃は山手線にほとんど乗らないが、たまに乗ると窓上の液晶ワイドパネル数面を使った動画広告に目がチカチカする。通勤で毎日使う人たちの心を、知らず知らずに蝕んでいないだろうか。自分のスマートフォンを見ている人が多いから、そう問題ないのだろうか。

中央線の豊田行きに乗り換える。武蔵野のビル街をときめきの夜明けが包む。多摩川を渡り豊田駅に着くと、ホーム反対側に211系電車が「回送」の幕を表示させて停車していた。ひと目でこれから乗る429Mとわかる。豊田の車両基地を出庫して、八王子まで回送させる途上の運転停車だろう。クロスシート6両編成で、内心ラッキーと思う。この頃は中央本線でもロングシート車が結構入っていて、それにあたると少ししんどくなるかも、と危惧していたから。

快晴。少しひんやりした空気に包まれた静かな朝。私の大好きなコンディションである。

豊田駅では唱歌の「たきび」が発車メロディーに用いられている。朝早い時間ゆえ、途中で切られずに最後まで聞かせてくれる。

垣根の垣根の曲がり角
たき火だたき火だ落ち葉焚き
あたろうかあたようよ
北風ピープー吹いている

巽聖歌「たきび」より

中央線では「たなばたさま」「めだかの学校」など、唱歌を発車メロディーとする駅が多い。「めだかの学校」を初めて耳にした時はずっこけそうになったが、JRが意気込んで現代の作曲家に作らせたオリジナル曲よりも耳に優しく、安心感は比べ物にならない。どの駅も通勤客でごった返しているゆえ、耳に止めない人がほとんどだろうが。

中でも「たきび」はよく掘り出してきたと感心する。作詞の巽聖歌氏(1905-1973)が日野市に暮らしていた縁という。唱歌としても親しみやすい曲調で、立身出世欲が見え隠れする、どこか偉ぶったふんいきの「故郷」よりもよほど良い。

しかし、現代の都会においてたき火は半ば”死語”である。私が幼い頃は祖父が庭でたき火をしていたが、今の住宅地でやればたちまち苦情が出るだろう。

次に来る高尾行きに乗ろうとしたら、新宿で人身事故が発生したというアナウンスが入る。駅員に、松本行きに乗れるかどうか尋ねたら大丈夫という返事。豊田以西には影響が及ばず、高尾行きは定時にやってきた。

八王子駅ホームは松本行きを待つ人が既にかなりの列を作っていた。ほとんどの人が登山やハイキングの装備を整えている。車社会になって久しいが、中央本線に乗って登山に挑もうとする人は今も少なくない。今日は春の盛り、絶好の行楽日和。混雑しないはずがない。

私としては、座れるかどうかが問題である。大多数の人が甲府から先まで乗るであろうことはほぼ間違いなく、万一席を逃すとえらいことになる。豊田で見た211系が入線すると緊張感が走る。幸いなことに通路側の席を確保できた。

普通松本行き

日本の桃源郷

定時に発車。高尾を過ぎたらひと眠り。目が覚めると甲府盆地をはるかに見下ろす丘陵地を走っていた。中央本線らしい光景である。

山梨県笛吹市にて

笛吹市は桃の木が多く栽培されていて、花の盛りの頃は中央本線の列車からもよく見える。桜よりも主張の強いピンクが車窓を彩る。菜の花とあわせて育てている農家もあり、あざやかな黄色とのハーモニーが美しい。かつて幾度か撮影に出かけた時を思い出す。

桃の花は例年4月半ばが見ごろだが、この年は4月初めでもう満開に近かった。日本の桃源郷と喜んでもいられない。

韮崎を過ぎるとハイキング装備組も少しずつ降りていき、車内に余裕ができる。行く手には八ヶ岳。

穴山駅の脇でも桜が満開だった

8時41分日野春着、特急「あずさ」の通過待ちを行うため8分停車する。乗客の多くがホームに降りて、高原の空気を吸ったり、身体を動かしたり、写真を撮ったり、思い思いに過ごす。駅周辺は新しく整備されたが、ホーム隅の蒸気機関車用給水塔は今なお残されている。

日野春駅にて
蒸気機関車時代に使われていた給水塔
甲斐駒ヶ岳に抱かれるように桜咲く

高遠駅

9時43分着の岡谷で下車する。ホーム向かいに豊橋行きが待っていて、すぐに発車(9時45分)。この列車もかなりの乗客がいる。JR東海の車両で、空気感が違う。

天竜川に沿って川岸、辰野と進む。1983年7月にみどり湖経由の”塩嶺トンネル”ができるまで、この線路が塩尻・松本方面への輸送を一手に担っていた。国鉄の経営状況が厳しくなった1980年代前半に塩尻周辺の路線改良が行われたことは、地元にとって幸いだったと思う。長野鉄道管理局の政治力も感じる。

辰野から飯田線に入り、JR東海に変わる。このあたりはJR東日本とJR東海が入り組んだ形になっているが、長野鉄道管理局と静岡鉄道管理局のテリトリーをそのままJRに持ち込んだがゆえである。辰野-小野-塩尻間はJR東海にするほうがよかったかもしれない。

飯田線の北部は戦時中に伊那電気鉄道を買収したもので、都会の大手私鉄路線並みに細かい駅が増える。列車はいちいち停車する。やがて車掌が「高遠城址公園においでのお客さまは、伊那市駅でお乗り換えください」というアナウンスを繰り返す。しかし私はひとつ手前、10時32分着の伊那北駅で下車した。高遠行きのバスは伊那北駅前を通る。一方伊那市のバスターミナルは駅隣接ではなく、少し歩かされる。停車順も伊那北駅前が先である。それを承知している人は他にも大勢いて、バス停には列車から降りた観光客が20名ほど列をなした。何のためのアナウンスだったのだろうか。

伊那北駅前

やってきたバスはJRバス関東(JR東日本系)の「高遠駅」行き。

伊那中央病院発高遠駅行きバス

私を含め、観光客を飲み込んだバスはほぼ座席が埋まった。10時40分発車。伊那市の市街地に入り、伊那バスターミナルに立ち寄る。ここから乗車する人はあまりいない。皆さんよくわかっていらっしゃる。

市街地を抜けて天竜川を渡り、東へ進む。美篶(みすず)という集落を過ぎると上り坂になり、その行き当たりが終点高遠駅だった。11時08分着。

高遠駅(バスターミナル)

かつて国鉄バスには路線内の主要バスターミナルを「自動車駅」として扱い、鉄道駅に準じた機能を持たせる制度があった。関東・中部地方には安房白浜駅(千葉県)、遠江西川駅(とおとうみさいがわ・静岡県)、遠江横山駅(静岡県)など「駅」を名乗るバスターミナルがいくつかあり、高遠駅もそのひとつであった。安房白浜以外はもともと鉄道敷設計画があり、バスターミナルは鉄道が開通するまでの”仮の姿”という意味でもあったのだろうか。高遠駅ではわりと近年まで窓口で鉄道との連絡乗車券が発売されていたという。(乗りものニュース 2022年4月2日)

伊那高遠は江戸時代著名な城下町だったが、中山道から外れた地にあり、鉄道にも縁がなかった。交通機関に対してコンプレックスがあるだろうか。長野県の枠で見ても、失礼ながら松本市を擁する県中部や長野市を中心とした県北部、軽井沢はじめ著名観光地が多い県東部ほどの知名度はない。だからこそ出向く価値がある。

タカトオコヒガンザクラ

高遠駅から城址公園までおよそ1.2km。なだらかな坂道の左右に、古くからの構えを受け継ぐ店が並ぶ。

足袋を作るも御国のため

川を渡り、突き当たり右に城址への入口がある。

ニュース番組に使うのか、ヘリコプターが飛んでいた(左上)

城へ向かう小道は既に観光客でごった返していた。並びつつ坂道や階段を上り、公園へ。目の前に”天下第一の桜”が広がる。

高遠の桜は江戸時代中期、藩士が城下の馬場に桜木を植えたことが起源という。「桜の馬場」と称され、早くから名所となっていた。

高遠城は1872年廃藩置県により解体され、桜の馬場の木も一旦伐採された。1875年に当時の筑摩県が城址を公園にすると決め、地元の東高遠町に整備を命じる。町ではそれを受けて翌1876年夏、馬場のあった河合村から芝草を譲り受け、改めて城址に桜の苗を植樹したという。

高遠の桜は「タカトオコヒガンザクラ」という固有種で、ソメイヨシノなど一般的な桜よりもやや小ぶりで発色が濃い。

言葉をあれこれ紡ぐのはここまでとしよう。写真で果たしてどこまで伝わるだろうか。

タカトオコヒガンザクラ
波のごとく
公園入口
桜で「くもじい」?

公園内は大勢の人が来ている。家族連れなどが木の下にシートを敷いて語らうスペースや、名物五平餅を売る店など、花見名所につきものの光景もみられる一方、大声で騒いだり歌ったりする人はあまりいない。東京周辺の花見名所とは格が違う。その意味でも”天下第一”である。

写り込んだ人をぼかす作業が面倒ゆえ、ここでの写真紹介は控えるが、インスタグラムなどSNS投稿向けのハート型オブジェや顔はめパネルも設置されている。

静かに桜と向き合えるスポットにも事欠かない。真っ白な雪をかぶる中央アルプスを背景とした桜の姿は圧巻のひと言。

近くて遠い桜

城址公園のある丘の南には、川が膨らんだ形の小さな湖があり、それに面して美術館や歴史博物館が建てられている。

高遠城址公園南口

歴史博物館に隣接して「絵島囲み屋敷」がある。1714年、江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が、将軍徳川家継の母・月光院代参として芝増上寺に出かけた帰り、木挽町で芝居見物をして城の門限に遅れたことをとがめられて流罪とされた。訓告相当の過失で懲戒解雇処分を受けた形になるが、門限遅刻はあくまで口実にすぎず、大奥の風紀弛緩が問題になっていたところに幕閣内部の派閥争いが重なり、江島は見せしめとして過重な処罰を受ける羽目になったと考えられている。

江島は島流しより罪一等を減じるとして、信州高遠に送られた。高遠藩主内藤清枚(ないとうきよかず)は老中からの指示を受けて城下に小さな屋敷を建て、江島を幽閉した。彼女はこの屋敷で27年間暮らし、1741年に死去した。

高遠での暮らしは現代の刑務所に近いレベルだったと伝えられているが、江島は大奥時代の生活や事件に関することを一切口にせず、質素に暮らしていたという。やがて藩主の信頼を得て、周囲の散歩や登城も許されたと伝えられている。

囲み屋敷。一汁一菜は現代感覚ならばヘルシーで、懲罰にならない?

改めてこの事件を振り返ると、徳川吉宗はある程度年月が経過したら、どこかの時点で恩赦を出してもよかったのではないか、と思う。大奥の風紀が改められ、幕府内の派閥争いが解消し、幕政改革が一定の成果をあげたら、もう江島を遠ざけておく必要はなくなる。江島のほうも、今さら政治の中枢に復帰して権勢を振るおうとか、贅沢をしようなどとは考えていなかっただろうし、”模範囚”として慎ましく暮らしているという報告も高遠藩からおそらく上がっていただろう。

江島が生きていた時代に、高遠の桜の馬場は既に有名になっていたのか。外出もままならない彼女は花の便りを耳にするたび”近くて遠い桜”に思いを馳せただろうか。

ある署名活動

再び公園に戻り、高遠閣まで歩いた。桜まつり期間中は有料の休憩所として開放されている。

高遠閣

建屋の隣には地元観光協会のテントが張られていて、署名活動が行われていた。

「保科正之公を大河ドラマに」。

大賛成なので二つ返事で署名した。観光協会の人たちも笑顔を見せてくれた。夜桜の写真つきウェットティッシュをいただいた。

保科正之(1611-1673)は徳川家光の異母弟。実母の身分が低いため父は認知せず、7歳の時伊那高遠藩主保科正光の養子となる。1629年、既に将軍となっていた家光とその弟・徳川忠長に対面して、すぐに二人から気に入られたという。1631年、養父保科正光の死去に伴い高遠藩主となる。

実父・徳川秀忠が1632年に没すると家光に重用され、幕政に本格参加。1636年出羽山形藩主、1643年陸奥会津藩主を歴任した。

彼の一番の功績は、明暦の大火(1657年)後に江戸復興の陣頭指揮に当たり、大きな成果を上げたことだろう。被災者に救済金や米を即時支給。さらに上野広小路などを火除け地として整備して神田川を拡張、両国橋を作らせた。すなわち今の東京都心北部街並みの骨格を作り上げている。一方、焼失した江戸城天守については「城の守りに必要不可欠なものではない。町の整備と町民の救済を優先させるべきである。」と、再建案を退けている。私はこの話が好きである。

平時においても、社倉制度・大名家末期養子縁組制度の創設や残酷な刑罰・間引きの廃止など、持続可能性や防災も見据えた政策を取っている。これらは現代の為政者に最も欠けている視点ではないだろうか。利権まみれで、利益至上主義者を過度に優遇。五輪はじめ巨大イベントにやたら熱心で、情勢変化について行こうともしない頑迷ぶりをさらし、国民負担を増やすことを当然と信じて疑わず、税金を自分たちのお小遣いと勘違いしているような政治家たちは爪の垢を煎じて飲んでほしい、本当に。

保科正之は研究者の域に達するほど朱子学を詳しく学び、厳格な身分制度を是認する人であった。徳川宗家への絶対的な忠誠を遺訓として、自らにも周囲にも厳しく、時にマイナスに働くこともある「会津の頑固者気質」の基盤を作ったとも言われている。そのような性格を持つ上流階級出身者が幕藩体制において冷酷な独裁者や利益至上主義者にならず、民衆の安定した暮らしを第一に考える政ができたのはなぜか。それを考察することで、裏側から「民主主義とは何か、主権在民とは何か、選挙とは何か」という現代の問題があぶり出せる。大河ドラマの枠をもらって、優れた脚本家が丁寧に描いていけば、きっと話題になるだろう。作詞家・阿久悠氏の言葉を借りるとすれば、保科正之は「時代の飢餓に命中させられる」題材である。

いわゆる”戦国三英傑”がらみの大河ドラマは、もう描き尽くされている。私は震災の年に放送された作品にほとほと懲りて、今年の「光る君へ」が始まるまで大河ドラマ自体全く見る気が起きなかった。

先日2026年大河ドラマのタイトルが発表された時、私は高遠で誘致活動をしている人たちのことを真っ先に思い浮かべた。大河ドラマは年単位で、それなりの時間が費やされる。お年を召した方にとっては、人生の残り時間を気にしつつの請願でもあるはず。南海トラフ地震はじめ、国の骨格さえも変えてしまいそうな大災害や気候温暖化(個人的には”炎暑化”と言ってほしい)リスクも勘案すれば、戦国三英傑がらみのドラマを手を変え品を変え放送している時間はもう残っていないはず。私は「嫌ならば見なければいい」を実行するのみだが、高遠の人たちの心境はいかばかりだろうか。

絶対必要ではなかった

帰りは高遠駅発茅野駅行きの臨時バスに乗車した。桜まつり期間中のみ運転される。座席は満員となった。高遠の町を後にして進路を北に取り、ひたすら山道を進む。午後の陽射しの中寝たり起きたりしつつ、高遠の地理的な条件について改めて考えていた。

江戸時代は小さいながらも重要な城下町だったが、鉄道建設が盛んな時代になると、「どうしても鉄道を作らなければならない」ほどの町とはみなされなかったのだろう。国策上、輸送にどうしても必要とされるならば、アプト式なりループ線なり三段式スイッチバックなり、ありとあらゆる手段を講じて山越えの幹線鉄道を作ったはずである。しかし高遠はそこまでやるほどではなかった。源氏物語の「須磨」の如く、中央にいては都合のよろしくない人たちをひっそり受け入れる町として、長い歴史を刻んできたのだろう。

およそ50分で視界が開け、バスは茅野の町へ向けて下っていった。特急「あずさ」接続を想定したダイヤのため、茅野や甲府の普通列車接続はあまりよいとは言えないし、立川までロングシート車であったが、快晴の空の下で天下第一の桜を十分堪能できたゆえ、もはやそれは問題ではなかった。








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