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フェリーに乗ってライラックを見に行く(5)

大通公園

大通公園は1990年代、ホワイトイルミネーションを見るため幾度か訪れた。-5℃、-9℃等示された気温表示電光板はじめ街のあかりが雪を様々な色に染め上げていた。ライラックのイルミネーションもあり、ピンクとイエローにほんのりと輝く雪は心に染みた。会場のBGMが左右の高いビルに始終こだまして、複雑なエコーを奏でていた。にわか雪が降り始め、たちまちふぶくほどに強くなり、市電が架線に蒼い火花を散らしながら走り去った。

それからおよそ25年過ぎて、目の前の大通公園はまぶしいほどの陽光に包まれていた。ライラックは北側の大通に沿うように、チューリップは公園を横切るように、まさに花盛りだった。

赤紫と青紫、かすかに紅葉
情熱色のチューリップ
どの花見ても

外出時マスクをつける習慣ができてから、ここぞという時にマスクをずらしてかぐかおりは強く印象に残る。モクセイ科らしい、ラベンダーとはまた趣の異なる匂い。ライラックからはほとんど精油が取れないので、そもそもの栽培目的からして対照的である。

ライラックまつり

この日はライラックまつりの開会日だった。1959年に始まる伝統の行事で、近年コロナの影響で縮小していたが今年は4年ぶりに通常開催という。人が集まる賑やかなところや派手なイベントは苦手だが、今週はこの日のお天気が最もよいというのならば王道コースも決して悪くはない。

ライラックまつりイベント案内(西5丁目)

大通公園西6丁目には野外ステージがあり、11時からオープニングセレモニーが開催される。

西6丁目野外ステージ

ステージの反対側には飲食物の出店が多数並び、スタッフが準備に勤しんでいる。間にテーブルや椅子が並べられ、観客はそこで飲み食いしながら演奏を楽しむ趣向。開会まで1時間少しあるが、ステージに司会者が上がりリハーサルを始めた。

副市長などお偉方の挨拶、演奏を担当する陸上自衛隊第11音楽隊の紹介、地元の銀行員と音楽科高校生による合唱、記念植樹など進行をチェックしていく。

ステージの傍らでは「ライラックの苗木プレゼント」の列ができ始めていた。先着1,000名に無料で贈呈するという。せっかくだから並ぶ。40番目ぐらいだった。

音楽隊が使用する楽器

この写真右端のチューブラーベルがひときわ印象的だった。「のど自慢」の判定に使うアレである。用途が特殊な楽器なので近年は「のど自慢」以外に耳にする機会があまりないが、私は「長崎の鐘」(作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、1949年)をふと思い出した。はるか西国の平和への祈りに思いを馳せる。そういえばちょうど1年前は浦上の永井隆記念館、如己堂を訪れていた。こよなく晴れた青空をそのまま美しいと思える人生にできたことに感謝を想う。

程なく音楽隊員が着席、合唱団が登壇してリハーサル演奏を始めた。3曲披露する。チューブラーベルは最初の「時計台の鐘」(作詞・作曲:高階哲夫)で使われる。

私は最後の「ライラックのうた」が心に残った。戦後まもなく流行したラジオ歌謡でよく取り上げられていた抒情歌の系譜に属する曲だろう。帰宅後調べてみてもほとんど情報が得られなかった。動画サイトにも演奏は上げられていない。個人ブログに詞が紹介されているのみだった。長くなるが引用させていただく。

「ライラックのうた」
作詞:鵜沼光 作曲:飯田三郎

うすむらさきの はなぶさは
きたのおとめの ゆめににて
うれいほのかに たびびとの
おもいでにさく ライラック

うすむらさきの 花の香は
きたのおとめの ほほえみか
ひとみすずしく きよらかに
あこがれにおう ライラック

うすむらさきの はなかげは
きたのおとめの よろこびを
ひそかに告げて まちに咲く
あいのすがたの ライラック

ブログ「札幌日和下駄」より

この曲は何かを思い出すと数日考えて、「湯沢旅情」(作詞:彦麻呂、作曲:弾厚作、1980年)と少し相通じる進行ではないかと思い至った。昨日勢いよく通過した越後湯沢の風物を歌った曲で、以前は新幹線の到着案内放送チャイムにも使われていた。「湯沢旅情」を明るくしたメロディーのようにも聞こえる。

「二人を結ぶジャンボフェリー」の例もある。古来からの民謡や演歌・ムード歌謡系ご当地ソングのみならず、地方でひそかに歌い継がれている抒情歌やポップス系の楽曲は案外多いかもしれない。

「ライラックのうた」はもっと知られてよいと思う。地下鉄駅の列車接近メロディーなどにいかがだろうか。JR線ならば札幌駅は列車の本数が多すぎるので、苗穂、白石、百合が原あたりに似合うだろう。権利関係処理がハードルか。

リハーサルが終わり、演奏者たちは一旦退場。振り向くと私の後ろに長い列ができていた。飲食スペースを囲むようにたくさんの人が並んでいる。開会30分前で300人以上いたように見えた。

開会時間が近づくとテレビ局や通信社などの腕章をつけた報道関係の若い人たちが幾人も現れ、テレビカメラやマイクを携えて取材場所を確保する。もしかしたら地元ニュースの背景にわが姿が映ってしまうかもしれないと、ほつれ毛目立つ髪を束ね直した。テレビカメラで私も含めた行列を映す局員もいたが、後でニュースサイトなどを見たら杞憂だったようでひと安心。

11時になり本番開始。副市長の挨拶に始まりリハーサル通りに進行していく。合唱する銀行員や高校生はもちろん今の時代を生きる人たちだが、あたかも1970年代からやって来たかのようなふんいきを漂わせていた。私が子供だった1970年代はまだテレビラジオから抒情歌が流れてくることが多かったが、生まれた時からロックやアニソン、打ち込みサウンドを浴びるように聴いてきた今の若い世代の人たちはどう受け止めるのだろうか。

歌が終わると来賓によるライラック記念植樹。ステージ脇の開拓紀念碑前に植える。今はよいとしても、ある程度育つと碑文を隠してしまわないだろうか。

開拓紀年碑前に植えられた苗木

いただける苗木は家の近所の花屋で売っているような、花が咲きかけのミニサイズで短期鑑賞用かと想像していたが、60cmほどある本格的園芸用だった。そういえば札幌では庭先に少数のラベンダーなどを栽培している住宅が多いと思い出す。

贈呈用ライラック苗木

石川啄木の像

大通公園には石川啄木(1886-1912)の像があり

しんとして幅広き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ

「一握の砂」より

の短歌が刻まれている。その脇にもライラックが明るく咲いていた。

没後111年、ライラックと青空に啄木は何を想うか

啄木は1907年9月に札幌に来て2週間滞在している。同年5月、故郷岩手県岩手郡渋民村における石川家と地元の寺とのトラブルの末、妹・光子(1888-1968)と共に函館に渡り、さらに小樽へ向かう光子を見送った後尋常小学校の代用教員として就職した。やがて妻子と合流して「函館日日新聞」の記者に転職したが、8月25日に函館は大火に見舞われる。当日は興奮していた啄木も、せっかく安定しかけた生活基盤が突然失われたと気づき愕然として、新たな職探しを行う。知人に札幌の新聞社「北門新報」を紹介してもらい、9月13日札幌に赴いた。

啄木は札幌の街をひと目見て気に入った。

札幌は大なる田舎なり、木立の都なり、秋風の郷なり。(中略)路幅広く人少なく、木は茂りて蔭をなし人は皆ゆるやかに歩めり。(中略)札幌は詩人の住むべき地なり、なつかしき地なり静かなる地なり。

啄木の日記 1907年9月15日

石川家は北7条西4丁目、今の札幌駅北口ヨドバシカメラはす向かいにあった下宿屋を住居とした。焼肉パーティーで一杯やろうとしたのか、豚肉と酒を持参して訪問した野口雨情はあたりの様子を以下描写している。

隣りが荷車曳の家でこの広い野ッ原の藪の中には他に家はない。(中略)厨の屋根裏には野梯子が掛かっている。(中略)屋根裏には小さい手ランプが一つ点いているが、誰の顔も薄暗くてはっきり見えなかった。

野口雨情「札幌時代の石川啄木」

当時札幌駅に北口はなく(1964年開設)、駅の裏手にあたっていたが毎日定刻に蒸気機関車の汽笛と汽車の発着音が響き、遠くからは1時間ごとに時計台の鐘が響き渡り、啄木もそれらを聴いていたはずである。その環境も札幌への好感につながっていたかもと想像できる。

「北門新報」で啄木は歌壇欄を設けるなど意欲的に働こうとしたが、会社の経営状態が思わしくなかった。当時の札幌は函館からの被災者受け入れで慌ただしい一面もあった。やがて啄木を「北門新報」に斡旋した人から、小樽で新たに新聞を創刊するから来ないかと誘われる。小樽は義兄で中央小樽駅(現・小樽駅)駅長の山本千三郎が暮らしている地でもあり、啄木はこのオファーを受けて9月27日に札幌を離れた。

この時代、小樽は札幌よりはるかに人口が多かった。(札幌市の人口が小樽市を上回るのは戦後の1950年代以降である。)しかし北の港町には詩歌に親しむ文化的土壌がなく、気性の荒い人たちとの相性があまりよくなかったようで、啄木は札幌に新しく新聞社を設立する構想を聞き、創設メンバーとして転職しようと思い立つ。その準備のため年末あたりまで数度札幌に出向いている。それをとがめた新聞社事務長と喧嘩して辞職。啄木は入社早々主筆の方針に不満を抱き追い出そうとするなど内紛が絶えず、事務長はもとから苦々しく思っていたという。

札幌の新しい新聞社構想も実現せず、一家困窮で1908年の新年を迎える。結局釧路の新聞社に行くことになり、1908年1月に小樽を去った。途中札幌を通った際

我が愛する木立の都は雪に隔てられ、声もなく眠って居た。

啄木の日記 1908年1月19日

と、最後の印象を記している。

啄木は自らの文才に絶対の自信を持ち、その良さに気づこうとしない周囲のほうが愚かなのだというスタンスで生きていた。当然周囲からは傲岸不遜で生意気と見られる。金銭問題なども絡み行く先々で喧嘩しては新天地を求め、やがて結核に倒れる生涯だった。

それだけに、もし札幌で安定した職を得て長く暮らすことができたらその後の展開もずいぶん違っていただろう、と思う。それは本人も自覚していたようで、東京に来てから詠んだ

札幌に
かの秋われの持てゆきし
しかして今も持てるかなしみ

「一握の砂」より

の歌からは函館の家が焼けてしまった無念と、札幌に対する愛惜の情、およびそこで暮らし自らの才を開花したいという希望が叶わなかった諦念が読み取れる。

啄木が見た札幌は秋から冬にかけてであり、当然ライラックを知ることなく世を去った。しかし花が好きで、どれほど困窮しても花だけは家に欠かさなかったという啄木は札幌の下宿で大家の娘からスイートピーを教えてもらったというエピソードを書き残している。彼女について

その年(引用注:1907年)の春、さる外国人の建てている女学校を卒業したとかで、(中略)絶え絶えな声を出して讃美歌を歌っている事があった。学校では大分宗教的な教育を享けたらしい。

石川啄木「札幌」より

と記しているので、この娘はもしかしたらライラックを札幌に持ち込んだサラ・クララ・スミスが1887年に開いた女学校の卒業生かもしれない。前述のライラックまつりの合唱に参加していた高校生たちのはるかな先輩にもあたるだろうか。

もし啄木が札幌に長く暮らしライラックを見る機会に恵まれていたら、如何なる感慨を歌に詠んだことだろう。盛岡で過ごした学生時代は薄紫の着物を好んでいたと伝えられているから、あるいは気に召しただろうか。

もっとも啄木は自他ともに認める無神論者で、晩年の光子(キリスト教の洗礼を受け伝道師として生涯を過ごした)をして「兄に神様のすばらしさを理解してもらえなかったことだけが心のこり」と言わしめるほどだったし、いわゆる女学校文化に対しても否定的な文言を多く残しているから、女学校の校長をしている伝道師が持ち込んだと知るとライラックの花など一顧だにしなかったかもしれない。

既に正午近い。大通公園はひときわ光が強くなった。五月の風が短歌を詠むように吹き抜けた。

やや強く
涼しき風の吹く朝の
リラの色こそ眩しかりけれ

真昼前
マスクはずしてはなつつむ
リラのにほひのかぐわしきかな
(「花」と「鼻」の掛詞のつもりです)

人影も増えてきた
地下鉄入口脇のライラック

百合が原公園

ライラックまつり会場の飲食ブースには目もくれず、地下鉄東豊線で大通公園を後にした。終点栄町で下車、バスに乗り換える。以前訪れた食堂で昼食をとり、百合が原公園へ。ここではライラックのみならず多彩な花を栽培している。

園内にはリリートレインと称する軌道線路が環状に敷かれている。遊具の扱いだが軌道設備は国鉄のものを使っている。軌間も国鉄在来線狭軌規格である。この軌道をトロッコ形式の客車5両が12分かけて一周する。公園内道路との交差には踏切が設けられている。駅はひとつだけで、観覧車などと同じ形式である。

リリートレインの駅は菜の花色に染まっていた
リリートレイン車両

公園内には煉瓦造りのサイロが建てられていて、シンボルマーク的存在となっている。

百合が原公園のサイロ

このたたずまいからしてサイロのほうがはるか昔からあり、後年そこに公園が作られたと想像できる。札幌市北区役所のホームページによれば、かつてこの地は「烈々布」(れつれっぷ)と言われていて、そこで暮らしていた酪農家が1930年ごろに建てたという。1978年から始められた公園造成事業に際して市に譲渡された。以前は展望台として使われていて、上ることもできたが今は閉鎖されている。

開拓者たちが激しい漢字をあててからおよそ150年、サイロの周囲にはムスカリやチューリップの花が風にそよいでいる。

鬼の心もなごむ?チューリップ「桃太郎」
ムスカリとタンポポ。心なしか家のものより花が大きく見える
ヒースガーデン。エリカの花か
リリートレインが近づく

夢のような景色、と月並みに言う。されど睡眠中過去の人間関係に即した煩わしい夢しか見ていない私にとっては、目の前の現実が夢をはるかに凌ぐ。

この頃は、
愉快ならざる夢を見る。
現(うつつ)の花が心慰む。


<参考文献>
「石川啄木作品集 第三巻」(昭和出版社、1965年)
「啄木と鉄道」(太田幸夫・著、1998年)
「啄木・賢治 北の旅」(小松健一・著、京都書院、1997年)
「愛のうた 晶子・啄木・茂吉」(尾崎左永子・著、創樹社、1993年)
「啄木歌集カラーアルバム」(芳賀書店、1998年)
「札幌駅 116年の軌跡」(北海道旅客鉄道株式会社監修、1996年)
その他、文中リンク先のWebサイトを参照しました。

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