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自由の不自由…不自由の自由…?


自由がいい自由がいいという人がいるけれど、

自由になればなるほど不自由になってしまうこともあるかもしれない

自由であればあるほど
自由の中の"適当"な答えは何なのだろうと探してしまったり、
そしてその範囲内の中で決めてしまったり、
実際にその範囲内で行動したり。

例えば、このカフェで自由に過ごしていいですよと言われたら。
もしその時の気分が走り回りたい気分だったら、?
大声で歌ってみたい気分だったら、?
お肉が食べたい!なんて思っていたら。

ちょっとよくわからない例えかもですが、
私は多くの人の常識的に良くないことだと判断して、
やらないとおもいます
多くの方がそうなのではないかな、と思います

どれも極端な例えですが…。

子どもたちだったらどうするかな、というはなしです。


♪小学校に行ったらじゆうじゆうじゆう!

と園の子どもたちが歌っていたことがありました。
私はかなりびっくりしました。

(え、今もそう(自由)じゃない?むしろ自由じゃない?!)
なんて心の中で思ってしまった、、

だけど、子どもたちはそうは思っていなかったのかも、とそのあと自由について色々考えて思いました。

私は単純に(色々考えた上でだけど)
小学校の方がずっと座っていなきゃいけない時間が増えるし、もし嫌だとしてもしなければいけないとされることが増える。だから、園の可能とされる範囲内なら、なんでもして遊べて、受け入れてもらえる今の環境の方が心は自由なのでは?と。

でも、子どもたちは新しい経験に、心を動かされ、表情が輝く。
子どもたちにとって今経験の範囲内にある園の生活と、未来にある小学校の生活を比べると、
すっっっっごく広い、宇宙みたいな未知感があるのではないか、と思いました

…確かに、
私も大学を卒業して、初めて、
今まで、どれだけ守られた中で自由に生きることが出来ていたか、を実感した…

守られた中で、やりたいことを探せること
大きくなっていくにつれ、
"自分が守られる"という部分は、『親や周りの人』から『自分』に少しずつスライドされ、

"やりたいことを探せること”の種類や行動範囲、お金の範囲等の大きさは、経験による知見とともに、大きくなる。


多くの人にとって、

・完全に守られる安心感のもと、やりたいなぁ〜を言える。(出来るかは守ってくれている環境によって異なる)

・自分で守れる中でやりたいことをダメとは言われずに(まだ守られていればその環境に言われる場合もあるけど)行動できる。ただし、自分の身は自分で守るので自分の出来る(出来ると思う)範囲内で決めることが多い。

みたいな変化があるのかなぁなんて。

ないものねだり。

結局、世の中バランスよく出来ていて、

自由と不自由に関しても、バランスがとられているのかなぁと。

未来にある自由(と思っているふわふわとしたもの)と
自分の過去に縛られると不自由の仮面を被ってしまう自由


…あれ……。

結局その人次第でそのことが自由なるのか…?と今書きながら思いました。


自由かどうかなんて
数字で決められない

人それぞれ自由だな〜不自由だな〜と思うことがあって、

それはその人の中でも少しずつ変化するもので、

というより、
自分の感じ方次第で、
不自由寄りにもなるし自由寄りにもなる、

ごちゃごちゃと頭の中の言葉を並べてしまいましたが
そのままを読んでもらいたいなと思い
私の今思ったこと、としてみます

自由ってなんなんでしょう、?

最後まで読んでくれてありがとうございます


(…結局、この一つのノートの中でもテーマが統一できず、webのように枝が広がっている気もしますが、
それもまた私、なのかな、と。
と書いている間にも
これを読んだ人はどう思うんだろう、と考えているし、あぁこう書いたらよかったのかも、とか、自分で書いた文なのに、追記注釈訂正が止まらないのです。

これをいつも頭の中でやってます…かなり高速で…
そしてマルチタスク?というか同時にいくつも枝分かれしてそれぞれほぼ同時にwebの枝分かれが進んでいく…

手で書いてたら追いつかないので困っています

同じ人や似てる人、いるのかな…
これに関してまた言葉にしたいです)

lila


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