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武道館ライブから見えた藤井 風(11/10追記)

藤井 風の武道館ライブが決まったと聞いたときから、これは伝説的ライブになるに違いないと確信していた。

だからこそ、絶対に現地で体感したいと願ったが、あっけなく配信組となってしまった。私が宝くじ並みのチケットを当てられるとは思っていなかったけど、「持ってる」夫は当てるんじゃないかという気がしていた。その夫も外した訳で、これは外したことに意味があるのだろうと、いいように解釈して、なんとか心の平安を取り戻したのだった。

どんなライブになるのかは想像もつかなかった。画面の前でそわそわしながら待ち構えて、オープニングが「アダルトちびまる子ちゃん」だった時点で、想像なんかしても無駄だったなと思い知らされたんだけど。

そこからは、この半年間、待ち焦がれた生の藤井 風(と言っても配信なので「半生」だ)を思い切り浴びた。

子供の頃からカメラの前で演奏し、高校では音楽を専攻して幾度となく舞台に立ったであろう経験からか、なんの心配もなく見ていられるステージングに、改めて真のトップミュージシャンとはこういう人のことなのだなと感じた。

このライブの中で新曲が2曲発表された。今までの曲とはまた一味違う作品で、深夜0時に配信リリースされたので、ダウンロードして聴いている。

武道館ライブが素晴らしすぎてどう言葉にしていいか分からず、新曲を聴いて思うことがまとまらない。頭の中がカオス状態だけどなんとか整理して綴ってみよう。

あの完璧すぎる1stアルバムの後にどんな曲を出すのか誰もが注目していたと思う。そんな中で発表された2曲。まだ消化しきれてないけど、私が藤井 風に漠然と感じていたものを確かなものにするには十分だった。

藤井 風は一流のストーリーテラーだ。ミュージシャンではあるが、ある意味作家に近い。作家がさまざまな物語を書くように、藤井 風はさまざまな曲を作る。

1stアルバムのタイトルがいつの時点で決まったのか分からないが、収められた11曲は「HELP EVER HURT NEVER」というコンセプトを基にしているように思える。

おそらく、彼はたくさんの曲の元となるもののストックを持っているだろう。その中から、HEHNからはみ出している、戦う2曲をリリースしたのかもしれない。

「へでもねーよ」は曲調としてはHEHNの中の曲の延長線上にあるが、尖った攻撃性を伴って日常生活のフラストレーションを木っ端微塵にしてくれる、ある意味爽快な曲だ。何となく阿木燿子× 宇崎竜童を彷彿とさせる。”外の声に係わらない”ということを、以前とは違う新しい切り口で表現している。

「青春病」はこれまでにないシティポップサウンドで、おお!と思った人も多いだろう(私も思った)。しかし、彼がこれまでカバーしてきた曲を思い返せば、そんなに意外でもない。古今東西のあらゆる曲を血肉にしてきたのだから、多彩な曲を作るのが藤井 風らしさなのだ。

今までにない爽やかな青春ソングのように響く曲に、その爽やかさとは裏腹な歌詞が乗っている。冒頭のかすかに聞こえるおしゃべりの内容。「熱を持て余してる」「獣」というワード。そして「どどめ色」。言葉はもちろん知っていたけれど、もう一つ裏の意味があることを初めて知った。これはオブラートに包んだ思春期男子ソングにもなっているのではないか?そんなふうに思えば、あのツイッターをざわつかせた写真も”匂わせ”だった可能性もあるのだろうか。知らんけど。

この2曲で、彼はHEHNでついたイメージを少し払うことができただろうか?今までは、精神性の高さから、ある程度年齢を重ねた人からも崇められがちなことに違和感を感じていた。

武道館ライブの最後、「帰ろう」のあとで羽が降ってきた。頭に羽を乗せた藤井 風の姿に、今度は「天使か?」と声が上がった。

物語を作り出す藤井 風は、演出という物語の世界の中にもスッと入ってしまう変幻自在な人のようである。

ライブが終わったらロスに陥るかと思いきや、素晴らしいものを見れたという充実感でいっぱいだ。武道館ライブは、この先、藤井 風の活躍を語る上で欠かせないポイントとなるに違いない。だから、配信でリアルタイムで見れたことは本当に貴重な出来事だ。

ライブを配信という形で見たのは初めてだ。ステージの完成度の高さも相まって、見応え十分で、現地で見れなくて悔しいという感情は湧かなかった。テクノロジーの急速な発展で、配信もVRで見るようになれば、我が家がライブ会場となる日もそう遠くないのではないか。

そんなことを思いつつ、ホールツアーの最終抽選は絶対に当てたいと意気込んでいる今日この頃である。


追記
11月10日、J-WAVEの番組で別所哲也さんが「青春病」を流しながら、松尾芭蕉の言葉を紹介した。それでちょっと調べてみたら、分かったことがある。

「切れど切れど〜一度たりとないのに」の部分にゾワっとする生々しさを感じるが、唐突に出てくる「野ざらしにされた場所」が抽象的で、荒野とか野性を連想していた。

ところがである。こんな松尾芭蕉の句があったのだ。

野ざらしを心に風のしむ身かな

「野ざらし」とは風雨にさらされた髑髏のことだそうだ。旅立ちを前にした覚悟を詠んだ句だ。

もしも万が一、この句から取られたとしたら、「いつの日か粉になって」とも繋がってくるではないか。

やっぱりこの曲は生々しい。

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