見出し画像

垣根の向こう側~「高校教師⑤」

リリ子は朝から落ち着かなかった。
夏休みも終盤に差し掛かった頃、米倉から観劇へ招待されたからである。

「突然だけど、劇団二季のチケットを貰ってね。良かったら一緒に行こう。」

そう言うと、半ば強制的に待ち合わせ場所を決められてしまった。
リリ子は、母親にどう言って説明したらいいのか途方に暮れていたが、隠しようもないのでそのまま状況を話した。

「あら、米倉先生に大分気に入られたみたいじゃない。」
 
てっきり反対されると思っていただけに、母の反応に少し驚いて聞いた。

「行ってもいいの?」

すると母は持論を展開した。

「リリ子には、年上の人が似合うのよ。あんな電話口でモゾモゾしている斎藤君なんかお話しにならないでしょ!」

斎藤君とは、入学した時から通学バスが一緒のせいか、何となく仲良くしている間柄だが、確かに子供っぽさを感じていて、リリ子には物足らなかった。
家に掛けてくる電話を意地悪く取る母には、言葉遣いが気に入らないと常々言われていたのだ。

「お芝居なんて、何を着て行けばいいのかな?」

そう言うと、リリ子は二階に行って、洋服ダンスを開けてみた。

あれこれ迷うほどの服を持っているわけではないが、ブラウスを当てては鏡を覗く自分の顔を見て、

(これは恋をしている顏なの?)

そう思うと、急に胸が高鳴った。

今まで、ロージナ茶房で過ごした米倉との時間は、ゆっくりながらも確かに二人の距離を縮めていた。しかしそれは、教師と教え子という垣根があったから、リリ子は安心してリリ子の時間を満喫していたのだ。
母親からの解放は、リリ子を素顔に戻し、それは時にあどけなく、時に米倉と激高して論を交わすという、リリ子にとって尊い時間だった。

そんな素顔を隠すことなく米倉に見せてしまった今、自分のことがどう見られているかと、心中モヤモヤしてきた。
聞きたい、一度(私をどう思っているの?)と聞いてみたいと、初めて思った。

そう思った時に、階下で電話が鳴った。取り次いだ母から、範子からだと言われた。


「リッコ、今日ね、塾が終わって皆でマクドで話したんだけどさぁ、いくら受験生だって、一日くらい海に行こうよ!って。それでさぁ、今度の日曜日に、江の島に行こうよ。リッコも行けるでしょ?」

海も行きたいけど、マクドにも行ったことがないリリ子は、それさえも羨ましく思えた。

「楽しそうね~」と答えたのは、皆でマクドでお喋りする様子を想像してのことだった。

「八王子から横浜線で町田まで行って、そこから江ノ島線で行けるからさぁ、八王子に9時集合でいいかな?」

大方、段取りが決まっている様子を、範子がスラスラと続けた。

「ちょっと待って、今聞いてみるから。」

そう言って、リリ子は母親に外出の許可を聞いた。
母親は、リリ子が電話の送話口を押えているのを見ると、キッとした顔をしつつ首を縦に振った。

リリ子は嬉しくて、有頂天になって待ち合わせ場所を確認して電話を切った。

二階に戻ろうとした時、母親に呼び止められた。

「そこに座りなさい。」

リリ子が座る間も待たずに母はリリ子を叱り始めた。

通話の途中で、母親にイエスかノーかを聞くことは、卑怯な行為だというのだ。
反対したら、母親が許可しないということが相手に筒抜けになるというのが理由なのだが、結局母は反対なのだから、同じことじゃないかとリリ子は思った。
とにかく、行ってはいけないということだけは解った。

リリ子は、範子たちに対して、母親のせいにしない断りの理由を作らなければいけなかった。自分が理由の行けない理由作り。

いつもそうだ・・・だから、範子たち仲良しグループは、次第にリリ子を誘わなくなったのだ。

(5人グループより、リリ子の居ない4人の方が何かと都合いいだろうな・・・)

マクドのテーブルも、横浜線のボックス席も、そこにリリ子の姿はないのだ。

母親から逃れない限り、青春は垣根越しに見る遠い世界なのだ。

ベッドの上の洋服を眺めながら、観劇用のワンピースの上に、小さなビキニを叩きつけていた。
(つづく)


※事実を元にしたフィクションです。
人物や固有名詞は全て仮名です。
同じ名称があれば、それは偶然ですのでご了承ください。