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悔しさの沼

所属している短歌結社「水甕」の2月号が届いた。
消印を見ると、1月24日付けになっているので、危篤状態にあった母は読んでいないだろう。
(毒母と書きたいところですが、字面で記事が汚れるので止めました)

これもまた悔しさが増す。
何故なら、私の短歌が巻頭見開きトップページに掲載されたからである。

「秋の日のこと」  シンタニ優子  

突然に来る日のための練習のようなる緊急入院 秋の
夏よりも遠くへ行った友の吹く龍笛のよう午後のサイレン
錆びた血の誘導ドレーン刺されおり課せらるること多しこの身に
休まざる魂うごめく病棟を風上としてナースコール押す
それぞれの孤島のようなる病室に更新をする医療遺書あり

水甕2023年2月号「銀鈴集」より

この掲載を母に見て貰えず悔しいのではない。
見せつけられずに悔しいのだ。
この悔しさに関して、私の短歌歴史をサクッと 解説しておきます。

そもそも、私が短歌を詠み始めたのは、母が少女時代より作歌していたためか、私も半ば強制的に作歌させられた。
当時高校生だった私に、母は口癖のように言った。
「歌の一首も詠めなければ!」(何時代だ?)

母にとって、華道、茶道、着付けと並んで短歌は嗜みだったのだ。(だから何時代だよ!)

当然私は、お花にお茶にと稽古通い、帯まで結びあげて呻吟していた。
しかもだ、私が詠んだ短歌を勝手に直して水甕に送っていたのだから、誰の嗜みなんだかわかりゃしない!   

結社に送った歌は、歌歴と歌の良し悪しなどが加味され、選者によって会誌への掲載順が決めけられるのだが、その、私の偽者である母が手直しした歌は、鳴かず飛ばずの掲載位置であった。
当の私にしたって、「これは私の歌じゃない!こんな風に詠んでいない!」という不満があったが、そこはどうしても口答えできなかった。

ハワイに嫁して、出産と育児とで私は長い間、欠詠をした。そう、歌を詠まなくなったのだ。
今のようにネットがあれば、母との遣り取りも迅速に行ったかもしれないが、所詮、勝手に直されて結社に送られるのだから、ぶっちゃけやる気を失っていた私に育児は辞める口実になった。

それからおよそ四半世紀の時が流れるわけだが、子育てに一段落ついたある日、何かの会合でハワイに短歌のクラブがあることを知り、時を同じくして帰国した際に「河野裕子短歌賞」の公募チラシを入手し、自分が四半世紀も昔に、歌を詠んでいた記憶が甦る。ただ、その記憶には、自分の力で詠んでみたかったという悔しさと挑戦心が伴って疼いたのだった。

(まだ歌が詠めるかしら?)

そんな気持ちのまま、初めて自力で歌を詠み応募したのが、2014年の 「第3回河野裕子短歌賞 」に入選した。(池田理代子選)

嵩ばかり増しゆく想ひ愛しても分かち合へない素数にも似て  / 新谷優子
(当時は苗字を漢字表記していた)

入選にすっかり気を良くした私は、水甕のHPから問い合わせて、歌を再開することになる。これを復社と呼ぶ。(結社なので)

(サクッと書こうと思ったが、長くなってしまった。もう少しお付き合いください)

つまり、このこと=自力で歌を詠みそれが入選したこと、が母の怒りに触れたのだから、母と私の短歌概念が面白くなった。
更に、この 「河野裕子短歌賞 」に4年連続応募し、4年連続で入選したのだから母の悔しそうな顔ったら!(ザマミ)

登校のできぬ息子が父の日に車を洗ふ 明日は夏至なり / 新谷優子 
「第4回河野裕子短歌賞」 池田理代子、俵万智選 (2015年)

「引きこもり」四年過ぎたる息子の作る焦げチャーハンの昼飯うまし / 新谷優子 
「第5回河野裕子短歌賞」 俵万智選 (2016年)

いつとせを籠り過ごしし子の結ぶでこぼこネクタイ春の始まり / シンタニ優子 
「第6回河野裕子短歌賞」池田理代子選(2017年)
             

このような経緯を経て、私は、自分の感性に自信を持ち始め、
(なぁ~んだ、自分の思うままに歌を詠めばいいんじゃない!)
という「正しいかじ取り」が始まったのだった。

そして、誰にも頼らず自力で詠んだ歌を順調に投稿し、「水甕賞」という結社名を冠した栄えある賞に応募するに至る。

もちろん、母にも告げず誰にも相談もしなかった。第一、短歌賞は、自力で挑戦するものと思っていたからだ。

果たして、私は初めての挑戦で平成28年の「水甕賞」を受賞したのだった!(イェーイ!)
受賞作はこちら↓

この「水甕賞」受賞の反響は非常に興味深かった。

何しろ、目の上の瘤であった母の悔しそうな顔ったるや!
ここでも母は素直に褒めようとはしない。
転んでもただでは起きぬというか、地面の塵を握り締め私に投げつけて来た。
「何をやっても上手くやりこなすんだから!」
(口惜しくて仕方なさそうだった。しかし、こんな親って居るか?)

もう一つ興味深かったのは、水甕社の幹部(と思われる)M氏の発言。
「水甕にとって、あなたの作品はユニークだろうが、歌壇にとっては、評価できないものだ。それを心得ておいて下さい。」

(はぁ?何が言いたいのだろう?)
(どこからともなく出て来て、いきなり水甕賞を取った私のことが気に入らないのだろう)

そう思うことでこのM氏の発言は脇に置いておいた。
(忘却は出来ない意地悪い言葉だった)


短歌は、自由な創作の短詩文学なのだが、その作品内容の感想より、私が異国の地で、チマチマと作歌している姿が気に入らないのか、結社内のどの派閥にも属さず、単独走者然とする姿が気に入らないのか、

「何者だアイツ」なのだろう。


話は元に戻るが、母の死んだ後、短歌をもってして鼻を明かせる相手が居なくなってしまったので悔しいのだ。

それは、作歌する動機としては不純だったかもしれないが、強制的にやらされた短歌を、自分の感性で整えて、私は私の世界があるのだと主張してきたのだった。

・・・そんなことをつらつらと思う啓蟄。