孤独であるということ

わたしは一人でいることが好きだ。
でも誰かに干渉されたり、構ったりするのが嫌いなわけではない。

しかし、集団特有の煩わしさ、残酷さには辟易する。
はっきり言ってしまうと面倒である。

日本人には「一人でいること」をどこか「ずれている」だとか何となく下に見たりという傾向が見られないだろうか。

特に学校などでは顕著だと思う。

一人でいる=社会不適合である。
そんなレッテルが独り歩きすると、色々と面倒なので、友達を作る。
少なくともわたしはそのような策を使ってある種利用して、人間関係を構築してきたきらいがある。

だからといって情が沸かないわけではないし
仮初めだったとはいえ、友情が芽生えたときもあった。

しかし、初心の「利用している」という後ろめたさは、わたしの心を少しずつ蝕んでいった。

わたしの「一人でいると面倒である」という思いによって生じた人間関係。

これは完全にわたしのエゴであり、本意ではない。

どこかで、その人のことを切り捨てる覚悟は持っていたのに
その人から切られるという発想がなかったという自分の了見の幼さを愚かに思う。

話が大きくずれたが
人間関係とは、色々な制約を作って、関係性を構築していく要素があると思う。
従って、発言には注意をする必要があるし
態度、声色、様々な点においてそれらは適応される。

これらが煩わしいというのもあるが
根本的には人間の有機的なつながりから離れたいという欲のようなものがあるようだ。

最近少し年を取って、色々と変化していったらしい。

若さとは愚かであること とわたしは思っているが
一方で若さのもつ生命エネルギーの透き通った感じに神秘を感じるのも事実だ。

独りでに活動して、それなりに充実した若い期間だったように思う。
しかし、独りでいることに慣れて、対人関係の根本的な作り方を忘れてしまったような気がしてならない。

「楽」を選んでしまった人間の辿る末路なのだろうか。

このまま孤独な一人の世界に耽溺することが幸せかと問われたら
どうなのだろう。

そもそも、正気でいられるかわからない。
どこかで人との付き合いを望んでいながら
本質的な部分で通じたいと思っていながら
それが難しいことであることを知っていて

それを「愛する人」に投影する重たさに気づいて
わたしはまた自分が愚かで無知で、傲慢で無気力であることを知っていく。  

人は全能ではないし、自分の全てを理解してくれるほど素晴らしい生き物ではない。

それは同時に、わたし自身がそうでなくていい。ということを示す。

わたしは、素晴らしい人間ではない。
社会という1戦線を早急に離脱し、のほほんと環境に甘んじて暮らす社会の厳しさも本格的には知らないでいる甘ちゃんである。

素晴らしい人になりたくて、なれなかった落伍者で
掴みたいと思ったものを、ロクに掴めたことすらない。

人生は「諦めること」が重要だよ。と人は語る。

わたしも色んなものを諦めてきたし
諦めたことで逆に得られたものもある。

大半の人間は、そのようなものではないのだろうか。

有機的に繋がるよりも、大きく距離を持って一対一で人と接するというスタイルの方が
自分には合っていると感じる。




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