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#1 なぜ英語を学ぶの?聞かれて思うこと

「どうして英語を勉強しないといけないの?」

このような疑問を生徒や子供から聞かれることはあると思います。
そんなとき、みなさんはどのように答えていますか?
実際、私は答える時すごく悩みます。

よく聞く英語を学ぶメリットとして挙げられるのは

  • 受験や就職に有利だから

  • 旅行の時に便利だから

  • 映画や本のオリジナルを楽しめるようになるから

などではないでしょうか。

もちろん、これらも立派な動機であり、英語を始める良いきっかけだと思います。

ただ、実際には英語はテストや宿題などを含んだ科目として学校で強制的に勉強させられるため、中には英語が苦手だ、嫌いだという人もいると思います。

私も実は学ぶのが楽しいと思ったことはありません。

ではなぜ英語教師として英語を教えているのか。
また、学ぶ必要があるのか。学ぶ必要があるならなぜなのか。ふと私なりに考えてみました。

結論から言うと、英語という言葉を通して、

世界を知り、視野を広く持つため」

に学ぶのではないかと、私は思います。

今回はなぜそのような思いに至ったのか。自己紹介も兼ねて、これまでの私の体験をもとに書き留めておきたいと思います。


ある日突然海外へ


私は小学校4年生に上がる時、
父の転勤で突然海外へ行くことになりました。
ニュージーランドに3年、ネパールに2年半、アメリカに3年と計8年半ほど計3か国で過ごしました。

それまで簡単な英会話教室に通ってはいたものの、英語力はほぼゼロの状態でした。

そしてこの8年間でもっとも印象に残った3つの出来事が、私が思う英語を学ぶ理由につながっている気がします。


《1》 厚い言葉の壁

「視野を広く持つ」こととは少し話がずれますが、言葉の重要性について最も感じたのは、最初に住んだニュージーランドにいた時でした。

全く英語が喋れない状態で、現地の学校に放り出された日。
初日にあった算数のテストの際、鉛筆をカバンの中に忘れてしまったのですが、(ニュージーランドの学校はカバンは教室の外のロッカーに入れます)そのことを伝えられなければ、近くの人に「貸してほしい」とも言えず。。。
そのままテストは白紙で提出し私の現地校生活は始まりました(汗)

「言葉が分からない」という恐怖はこの時生まれて初めて感じたと思います。

人は赤ちゃんの頃から、家族や周りとのやり取りを通していつのまにか言語を獲得します。なかなか言いたいことが伝わらないと歯痒い思いもしていたかもしれませんが、その記憶はほぼありません。

違う言語を学ぶということは、母語でさえ一生かけて学ぶのですから、すぐに習得できる魔法などないのです。

ニュージーランドの人々は本当に心温かく、英語ができない私をたくさん助けてくれました。それでも、すぐにできるようになったわけではなく、地道に失敗を繰り返して習得したように思います。

言葉というのはその国の文化も象徴している場合があります。なので、異国の人とコミュニケーションを取るということは、その国の文化や価値観なども考慮しなければ成立しません。日本にいれば異国の人と話す場面に出くわす機会はあまりないかもしれませんが、グローバル化が進む中で、日本だけで完結することはなくなりつつあります。当たり前ですが、違う言語を学ぶということは、意思疎通がスムーズになるだけではなく、新たな文化や考えを学ぶ機会になることに間違いありません


《 2 》歴史の授業で大泣きした日

中学時代はネパールで過ごしました。
発展途上国であるネパールでの生活はあまりにもカルチャーショックが大きく刺激的でした。その時通っていたインターナショナルスクールで起きたある出来事について思い出深いものがあります。

その学校は1学年10数人ほどしかいない小さな学校で、私のクラスは日本人は私だけでした。他のクラスメイトにはヨーロッパやアジア諸国、アメリカなどから来た生徒など様々な国籍の生徒が在籍していました。

そして、中2の時に行われた歴史の授業を私は今でも忘れられません。

内容は自分の国の植民地化の歴史について調べてプレゼンするというものでした。クラスに同じ出身国の人がいれば一緒に組めたのですが、当然私は1人でした。そして、クラスには2人韓国人がいたのです。

植民地化をテーマにプレゼンすることは、日本の歴史をまだあまり習っていなかった私にとって気が引けるものでしたが、追い打ちをかけたのが韓国との歴史上の関係です。

ここでは、歴史の内容に対して明言は避けますが、私のプレゼンの前に韓国人2人がプレゼンし、そこで、どれだけ日本が残酷なことをしたのかを具体的に発表したのです。

みんなの視線も感じ、涙と共に聞いているうちに体が熱くなるのを感じました。 

悲しかったのか、怒りだったのかはよく分かりませんが、授業が終わったころには、先生に慰めれながら教室で大泣きました。

もちろん彼らは課題として発表しただけで、悪気はありませんでしたが、どこか憎しみは感じました。こんなにも誰かに憎まれているのに、自分が今まで無知だったことがとても恥ずかしく、申し訳ない気持ちになりました。

翌日が私の番でした。何が事実なのか、歴史的見解は色々あると思いますが、私は当時、自分なりに調べて、意見をまとて日本の立場からプレゼンをしました。最後には、申し訳ないと言う気持ちも含めて、感じたことをそのまま素直に述べました。

すると、私のプレゼンを聞いた韓国人の2人は、授業後に謝罪とともに今後も仲良くしたいと言ってくれたのです。私はこと時、日本で日本人だけと過ごしていたら、韓国側の意見など知るよしもなかったのではないかと思いました。唯一の共通語である英語を使ってお互いの見解をプレゼンすることで、和解できることもあるのだと感動したのを覚えています。

その2人とは私が学校を去るまでとても仲良くできました。
引っ越す際に言われたことは
「あなたのような日本人と出会えて考えが変わった」というものでした。

この出来事を通して世界には自分の知らない歴史、価値観、考えがあるのだと痛感しました。それもすべて英語というツールを使って知ることができ、視野を広く持つことで他者と分かり合えることができたのです。


《 3 》発言しないのはいないのと一緒

高校入学とともにアメリカに引っ越し、アメリカの公立高校へ通うことになりました。

そこで印象に残っている授業が国語の授業。
課題で出された小説を一冊丸々読んだあとに、内容に関した議題についてディスカッションを生徒が進行するというものでした。時間内に何かしら疑問を提示したり、意見を言ったりしなければなりませんでした。

そして、もし一度も発言しなければ評価は0点になるというなかなかハードな仕組みでした。先生によると、発言しないのはその場にいないと一緒、なんの価値も生み出さないからという理由だそう。(恐ろしい。。。)

私はこの時点で、英語はある程度できたものの、まだ自信をもって意見を言うことはできませんでした。しっかり本を読み込み、発言内容も準備したのですが、当日はクラスメイトに圧倒され、"I agree because…"と1文だけ発言し終わりました。

だた、発言したけれど、私の点数は0点でした。
あとで先生に自分は本をきちんと理解していた、準備して1回は発言したと説明しましたが、先生はそれでは足りないとこう言いました。

ディスカッションというのは、知識を披露する場ではないし評価する場でもない。お互いの意見を交換する場である。自分も発言することでそのフィードバックが返ってくる。そしてそれは自分の考えを深める機会となるから大切なんだ。

結局参加点だけもらったのですが(汗)
確かに、この相互のコミュニケーションによって自分の考え方や視野が広がります。それまでそんなに積極的に発言をしなかった私ですが、そんなやりとりを色々な価値観を持つ世界中の人と英語でスラスラできたなら、どんな面白い発見があるのだろうと考えるきっかけとなりました。


英語を学ぶその先に


日本に住んでいれば英語は必要ないかもしれないし、
学ぶ必要性も人それぞれ違うと思います。

けれど、1つ言えるのは、英語ができると得られる情報や知識の量、関われる人の数が圧倒的に増えます。

視野を広く持つというは、様々な意見や価値観に触れ、それらを受け入れることで、多面的に物事を考えたり、知識や思考の幅が広がるということです。

なので、私は視野を広く持つことで自分の1つの装備として人生が面白くなるし深みが増す気がしています。そして、物の見方や他者への接し方も変われば、周りに良い影響を与えたり、誰かの役に立つことができるのではないか。そしてそれはまた、自分にもいつか返ってくる。そうやって社会全体の人々が豊になることで、人は平凡な日常を保てるのかもしれません。なので、英語を学ぶということは、言葉を通して世界を知り視野を広げるために必要だと思っています。

長くなりましたが、こういう考え方もあるんだなと
英語を学ぶ際に1つ参考程度に視野にいれていただければ幸いです。

英語に限らずこれからも教師として、この「なぜ」と言う学びの本質をこれからも追及し、英語教育をよりよくしたいとの思いでこのnoteを始めることにします。


拙い文章ですが、最後まで読んできただきありがとうございました。

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