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#1 虚構かもしれない世界をどう「自分事」するか

先週、ポーランドに旅行した際に旧アウシュヴィッツ強制収容所を訪れた。僕はその場がどのような意味を持つのかを知っていたし、そこに訪れる他の人々も僕と同じだっただろう。非人道的日常が送られたかつての地に自らが赴き、当時の凄惨さを肌で感じることは、過去の過ちを未来に再投影しないことを社会の中の誰かではなく個人が強く誓い願うことに繋がる。このように、社会で起きる問題を他人事ではなく自分事として捉えることは、無条件に社会善であると思われている。この点は、一定の限度を許容したうえで、僕も賛成である。

だが、最近僕はこれについてどこか違和感を覚えている。というのも、自分事とする「問題」ひいてはその土壌たる「社会」というものが果たして現実なのか虚構なのかを我々はすべて正確に判断することは不可能で、そもそもそれは個人単位の能力値を超えることであるならば、「自分事」という外部現象の個人化作業は外部の要因に随分と依拠してしまうことになり、これは果たして本当の意味での自分事と言えるのだろうかと感じてしまうのである。上記旧アウシュヴィッツ強制収容所で僕が学んだことも、究極的には当事者としてその悲惨さを経験したわけではない以上、結局それは第三者の文脈のフィールド内で疑似体験するに留まる。つまり、完全な「自分事」は実現しない。

でもよく考えれば、人間は昔から不確実な外部存在を認識することで自己を確立してきた。その典型例は宗教である。神を実際に眺めたことは無いがその存在を認識し、自らの罪を告白することで許しを得るというプロセスは、五感的には不確実な領域と確実な自己領域とを「信仰心」という手段を用いて交差させている。このような現象が宗教において成立しているのは、個人と神をつなぐ信仰心、神の言葉をそのまま代弁するメディアとしての教会秩序、そしてそれと信者との間の強い信頼関係が存在しているからだ。

では、宗教でいうところの「神」を、前述した「現実社会」に置き換えて考えてみると、宗教上の教会にあたるメディアがたくさんあることがわかる。報道局、オンラインニュースメディア、SNSなどがそれにあたるだろう。教会秩序と彼らの最大の違いは、前者には代弁するべき神が存在していたのに対して、後者にはそれがいないことである。つまり、彼らは世の中で起きている現実問題をそのまま代弁することを使命とはしておらず、メディアそれぞれが神と教会両方の役割を担い、信者たる我々に情報を発信しているのだ。したがって、我々が享受する情報が真実なのか虚偽なのかについてメディアは一切の責任を持っておらず、むしろ利益のためならば虚偽を真実に変換して流すことさえ正義になり得る。国民からの受信料によって資金のほぼ全てを調達しているような公共放送でないかぎり、いかなるメディアも完全に無色透明な媒体になることは極めて困難だ。

2016年のアメリカ大統領選挙において、Facebookユーザーの政治的思想が意図的に操作された問題が大きく取り上げられた。国という大きな社会の施策を決定する代表者を選出する際に重要になる有権者の政治的思想が操作されたということは、民主主義の理念に大きく逸れた由々しき事態であるからだ。
この事件に関してアメリカに住む友人に話を聞いてみたが、Facebookを通してどこかの誰かが自分の政治的意見を操作していたかどうかは今でもよくわからないと言っていた。紛れもなく自らの意見だと思っていたものが実は恣意的に操作されていたものであった、などいう事実は容易く受け入れることはできない。しかし、それは紛れもない真実なのだ。

どうやら我々は、メディアは「当然に」社会を投影してくれる完全中立な媒体であるとどこかで思い込んでいるのかもしれない。それは、神は全知全能であるという前提に似た現象であり、ある種の信仰心とも言える。これに基づいて、我々は世界で起きている様々な出来事や事件を二次的な情報として受容し、それに対する感情を持つようになった。これは一見すれば、社会問題の自分事が広範に促進されているようだが、前述のような情報操作が教授するように、それは皮肉ながらも、結果として、作られた自分事によって壮大な虚構を生むに至ってしまった。他人から恣意的に操作された自分事には、自己の意思が介在していない。そこに「自分」はない。

それでは、我々はメディアを捨て、自分の身体を世界中に投じ、全てを自分の目で確かめなければならないのだろうか。それがメディアを介さない唯一の自分事方法であるのだから。否、それは肉体や金銭などの面で制約が強く、不可能だろう。
では、我々はどうすればいいのだろうか。僕は、あらゆる情報を批判的に眺めることがその唯一の方法だと考える。当たり前のようだが、自らの身体的経験を通して得る情報以外の情報、つまりメディアを介して触れる情報に対して常に批判的であるということは、すなわち真実を追求することである。それは必ずしも社会で起きている全ての事象を自分の目で確かめにいかないといけない訳ではなく、理論的にこの情報の真実性を分析することのできる理性を持つことである。そうすれば自ずと虚偽がそぎ落とされ、問題の本質が見えてくる。その本質に対する意見や感情には、純粋な「自分」が存在している。

拍子抜けするような結論だが、真実と虚偽が入り混じった情報プールの中に生きる我々は、この重要性を改めて認識する必要がある。現実社会の本当の姿を、自らの理性を持ってして「見る」。これが現代社会における「自分事」の第一ステップだと思う。

※ここでいう宗教とは、主にキリスト教のことである。

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