見出し画像

「シャルリ・エブド」テロ事件にはいろいろな意見があるけど、サルマン・ラシュディーどうですか

仏風刺週刊紙「シャルリ・エブド」の編集者たちに加えられた残虐なテロ行為は許されないが〜…などという枕詞をつけて(でもそんなことが許されると思っているのはイスラム原理主義に頭を侵されたごく一部の人たちで、自分たちはそういう狂信者とは違うんだからね〜、と言い訳しているだけなのだが)、イスラム教徒の気分を害するお下劣イラストがヘイトスピーチにあたるとして(lampoonがなんたるかもわかっていないんだな、そういえばピッタリしっくり来る日本語が思いつかないや)、彼らにも攻撃を受ける理由があるなどという、「宗教の不可侵性が〜」などと小難しい言葉で良識ぶったことをほざく人たちがあちこちに湧いていて、かゆい、気持ち悪い。そして恐ろしい。

(このエントリー、実は1回アップしたところで半分消えてしまって、気持ちが萎えて放っておいたのだけれど、もっかいがんばって書きました。さらに長くなってきたのだけれど、「新書バカ」というエントリーで、短くまとめた文章の説得力のなさを指摘したところなので、短く簡潔に、というのはこの際、忘れることにします。)

まず、「シャルリ」の風刺画がお下劣すぎる、日本にはあんな文化はないと言ってる人にはぜひ、TLに流れてきたこちらのツイートをどぞ。

オゲレツはいかんというのなら、今だって平気で町中やネット上にエロ漫画ダダ漏れさせておく国でよく言うよって感じですなぁ。(私は普段から、キモヲタ大嫌いと言いながらも、東京都の青年法みたいな石原頭な考えで萌えマンガを楽しむ自由を奪うべきだなどと発言したことはないし、ツイッターでブロックする以上のことをした覚えはないが、これはまた別の話としていずれ)

私はといえば、9-11で燃え盛るツインタワーを目の前にした時から、イスラム原理主義が人々をテロに駆り立てるのはナゼなんだろう、アメリカの罪はどこにあるのだろうか、と考え始めた頃、覗いてみたサルマン・ラシュディーの朗読会で、目からウロコが落ちるようなスッキリした発言を聞いたのを思い出した。バカ息子ブッシュが9-11をこじつけに、サダム・フセインを排除したいがためにしかけたイラク戦争が始まる前のこと。ブログにも書いた記憶がある。

ラシュディーはインテリ層ブリティッシュ・アクセントで、大江健三郎の文章みたいに長いセンテンスで、小難しいことをユーモアを添えていうのだけれど、「ブッシュ政権がイラク侵攻を考えているようだがどう思うか」と聞かれてこう答えていたのです。

「インド・パキスタン問題も逼迫している昨今は、世界が核保有国における先制攻撃の危険性を充分に承知していることだけが、辛うじて平和を維持する説得力のある議論となっているのに、軍事力で世界最強の国が、将来、自国にとって不利になる行動を起こすかも知れないと言う理由のみで先制攻撃に走ることは、先類を見ないほど世界均衡を著しく阻害する行為であり、また民主主義の土壌が全くないその国の政権を入れ替えた後で、どのような建国の選択があるのか、私はまだ理解するに至っていない」

結局、イラク戦争は泥沼化し、アメリカが撤退した後もラシュディーの言った通りのカオスですものね。さすがだなぁと思って今に至ります。

ラシュディーの著作はブッカー賞をとった『真夜中の子どもたち』がけっこう好きだったけれど、1988年刊『悪魔の詩』でイランのホメイニ師からファトワ(こいつ許せん、見つけたら死刑な!宣言のこと)をくらったのは欧米でもけっこう大きなニュースになって、思えばイスラム原理主義と西側諸国の表現の自由が衝突した、最初の大きな出来事だったのではないでしょうか。

『悪魔の詩』は日本語翻訳した筑波大の助教授が校内で殺されて、事件が迷宮入りしてるんで、覚えている人も多いかと。当のラシュディーも住んでいたロンドン警察の厳重な保護下で何年も隠遁生活を強いられていました。でも彼はそれに屈服することなく執筆を続け、ファトワを発したホメイニ師もその数年後に亡くなって死刑令はうやむやになったのだけれど、いつも恐れずに圧政に対し、発言を続けてきた。イスラム圏に生まれ、西側からイスラム教を俯瞰してきたラシュディーの知見と勇気に敬服し、私はその彼の発言に耳を傾けてきた。今回の「シャルリ」テロ事件でもそうしている。彼は事件後早速English Penというサイトにコメントを寄せている。

Religion, a mediaeval form of unreason, when combined with modern weaponry becomes a real threat to our freedoms. This religious totalitarianism has caused a deadly mutation in the heart of Islam and we see the tragic consequences in Paris today. I stand with Charlie Hebdo, as we all must, to defend the art of satire, which has always been a force for liberty and against tyranny, dishonesty and stupidity. ‘Respect for religion’ has become a code phrase meaning ‘fear of religion.’ Religions, like all other ideas, deserve criticism, satire, and, yes, our fearless disrespect.

「中世の反知性とも言える宗教が、現代の武器といっしょに持ち合わされた時、それは我々の自由を脅かすに足るものとなる。この宗教的全体主義はイスラムの心に恐ろしい突然変異を生むこととなり、今日のパリにおいてその悲劇的な結果を見ることになった。私はシャルリ・エブドの味方であり、われわれは、独裁主義、欺瞞、愚行に対抗する自由の力である風刺の美学を守らなければならない。「宗教への畏れ」が「宗教への恐れ」を意味するところとなってしまった。他の思想と同じように、宗教もまた批評され、揶揄され、そう、そして我々の恐れを知らぬ侮辱を享受しなければならない。」

この後、アメリカのテレビにも出ていたラシュディーがmutationという言葉で指していたのは、イスラム教そのものに変化が生じ、ここ半世紀ほどの間にイスラム圏内で権力を掌握するための戦いが起きるようになっていて、(ここ10年くらいで私が思いつくのが以下のテロ事件)、世界のあちこちで起きているテロなんて、ただの「とばっちり」にしか過ぎない、ということなのだ。

・2004年スペイン・マドリードでの列車爆破テロ
・2005年イギリス・ロンドンの地下鉄とバスでの同時爆破テロ
・2008年インド・ムンバイの駅やホテルでの連続爆破テロ
・2010年ロシア・モスクワの地下鉄爆破テロ
・2013年ケニアのショッピングセンター襲撃
・2014年パキスタン・ペシャワールの学校襲撃

タリバンだの、アル・カーイダだの、ボコ・ハラムだの、ISISだのと、過激派のテログループが次々と生まれ、シーア派とスンニ派の争いが起こり、イスラム教徒が同じイスラム教徒を虐げているのが現実。中東の石油国のお偉いさんたちは自分たちは穏健派だと言いながら、テロ事件に前後してサウジではイスラムに批判的なことを書いたカドで若いブロガーが鞭打ちの刑になっているし、やつらのオイルマネーがイスラム圏のあちこちで原理主義を子どもたちに叩き込むマドラサにばらまかれ、シャネルやグッチを買うお金はあっても女性は相変わらずブルカだのシャドールだのヒジャブを被らされ、選挙権どころか車さえも運転できない。もっとビンボーなイスラム国になると、有無を言わせず同じイスラム教徒を大量殺戮、集団で女性を誘拐して性奴隷にしたり、年端もいかない子どもに爆弾くくりつけて殺しあってるわけですよ。

イスラム教そのものが、あるいは一昔前がそうじゃなかった、という話は、私も直接的に知る由はないものの、付き合っていた人の親戚の話や、タクシーで渋滞にはまって話し込んだ運転手さんの話や、飛行機で隣り合わせたお婆ちゃんに聞いています。いかにベイルートがパリに引けを取らないオシャレな洗練された街だったか、いかにダマスカスにカフェがたくさんあってイスラム圏全土から集まっていた学生パラダイスだったか、いかにカブールには髪さえ隠さない知的な女性にあふれていたか…。

それが今では少しでもカネやコネのある知識層はみんな逃げ出し、国宝指定されてもいいような建造物はミサイルの穴だらけ、女の子は教育を受けられず、男の子はマドラサで原理主義を叩き込まれ、読み書きもろくにできない男たちがカラシニコフを振り回し、好き勝手なことをやっているのだ、と。「イスラム教は平和の宗教だ」「あいつらは本当のモスリムじゃない」なんて言うけれど、でも現にモハメットの教えなのだから、と、神の名を語って悪行の限りを尽くしている。涜神は許されない、とほざきながら。

世界規模で考えてみれば、イスラム教徒ってマイノリティーなんかじゃないしね。今ググってみたら世界人口の23%にあたる、15億7000万人ですってよ、奥様。「シャルリ」の風刺だって別にフランス国内のモスリムだけを対象にしているわけじゃないでしょ。ってことはたかだか読者が6万人しかいない、マイナーな新聞紙がやっているのが「ヘイトクライム」だの「ヘイトスピーチ」だってのはお門違いもいいところなんじゃないの?

そりゃまぁ、長い歴史でみればキリスト教だって十字軍だの魔女狩りだのって過去があるし、日本だって、言ってみりゃ神道が天皇崇拝の軍事帝国という形で暴走してアジアのあちこちでアンブロークンなことやったわけでしょ? それを批判・風刺しちゃいけないの? ラシュディーが言うように、宗教だって人間が頭で考えたアイディアのひとつに過ぎないわけだから、涜神行為がいかんとか、ちゃんちゃら可笑しいと思うわけです。

今年は戦後日本最悪のテロであるオウム真理教の地下鉄サリン事件から20年ということで、ひとつ考えてみてもいいかもしれません。もし、あの時、パラパラみたいな変な踊りでわけわかんない歌うたいながら選挙に出馬してきたあの人たちのこと、「それって変じゃない?」「医者だか東大出だか知らないけど、あんな汚いオッサンの残り湯飲むなんてバカぢゃね?」「ちっとぐらい腹すかして朦朧としたって、浮遊したことにはならねーべ?」ってちゃんと怖がらずにからかっていたら何か違った展開になったのではと思ったり。

ついでに、宗教法人の特権を笠に着て悪いことしたり、政治団体を語って有無を言わせず好き勝手してる人たちも、ちゃんと批判したり、茶化したりすべきだと思うんだけど、「空気読め」とか「人が嫌がることを言うのは止めましょう」って自粛しちゃうんだよなぁ。それってただの臆病者ってことではないの?

ということで、確かに「シャルリ」がいつもお下劣な風刺画を載せているのは十分に理解してるんだけど、それでも、Je suis Charlieと言って団結・抵抗できるフランス人は大人だなぁと敬服しているのであります。アメリカはこういうところ、かなり腰抜けだからね。(お茶会保守派という国産の原理主義者に遠慮しちゃっているので。)発行部数6万部のマイナー風刺紙の編集部を襲ったら、16ヶ国語300万部に大化けしちゃったということが、イスラム原理主義者への答えなんじゃないかしら? 君たちの価値観、いくらモハメットが〜、神様が〜と言われても、だからと言ってイスラム教を信じない人を殺すのを許すことはできないよ、それっておかしいじゃん、ってバカにするのをやめないよ、っていう。

ラシュディーが提示している世界のイスラム圏内での過激化・紛争については、これはイスラム教徒の人たちが自分たちでなんとかしていかないと、外から手出しできる気がしないんですよね。誰かが権力を掌握するまで徹底的に殺しあう、というのが自分たちで選んだ道なら非イスラム教徒は傍観するしかなさそうなんだけど、何かいいアイディアあります? せめて中東の石油に頼らない代替エネルギーの開発を進めることかなぁ、と思うんだけど原油が1バレル50ドル切ったりすると、アメリカ人はすぐまた燃費の悪い車を買いだしたりして、もうね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?