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K・イシグロの新作、The Buried Giantとは埋もれた忌まわしい記憶なのかもね

前作『Never Let Me Go(邦題:わたしを離さないで)』から10年、カズオ・イシグロの新作、『The Buried Giant』刊行ツアーで著者がニューヨークにも来るというので、ブルックリンのシナゴーグ(ユダヤ人の教会)で行われたイベントを覗いてきた。この本は刊行数日前にゲラでもらったのだが、外は雪、風邪ひきの状態だったので2晩で一気読み。ドラゴンやらアーサー王の騎士が出てくるというので、「イシグロ先生、今度はファンタジーですか?」と最初は困惑したが、中身はいつものイシグロ節。心地よいproseと、一筋縄ではいかないplotをしばし堪能しました。

ここのところ全世界で『指輪物語』や『ザ・ゲーム・オブ・スローンズ』など大河ファンタジーとでも呼ぶべきジャンルが映像化されて大人気なので、ハリウッドの辣腕プロデューサー、スコット・ルーディンがさっそくThe Buried Giantの映画化権を買ったというニュースもあったけど、これって多分、映画にしちゃったら相当ズッコケなファンタジー映画になっちゃいませんかね? 何しろ肝心のドラゴンは寝てるだけだし、主人公はボケの入ったような老夫婦でっせ?

とまぁ、おふざけとネタバレはこのくらいにしておいて、わりと久しぶりに真面目にレビューを書き留めておく気になったのでちょいとお付き合いくださいませ。

この日のイベントは、元『グランタ』誌編集長のジョン・フリーマンがインタビューをする形式で、この時の最初の話題がmemory、すなわち、人間や社会が「記憶」とどう対峙するかという話が興味深かった。

新作ではローマ帝国の衰退後のイギリスが舞台。ブリトン人の地に今度はサクソン人がやってきて侵略していった時代。主人公のアクセルとベアトリスは外界から閉ざされた穴ぐらの村に住んでいる。この国はいつしかからか謎の霞に覆われ、人々の記憶を朦朧とした混沌の中に消し去り続けている。

お互いを慈しみながら暮らしていたアクセルとベアトリスだったが、ベアトリスが後生大事に隠し持っていたロウソクを村の人々に取り上げられ(このロウソクが何の比喩になっているのかけっこう気になっているんだけど、なんらかの納得がいく提案をしている書評は今のところ見つからず)、彼女の中の箍が外れたのか、急に息子に会いに行かなければならないと言い出す。生き別れになったらしい息子の事情は一切語られないまま、二人は旅に出る。

その旅の途中で、ドラゴンに噛まれた傷のせいで村八分になった少年エドウィンと、彼を守る戦士ウェスティン、かつてアーサー王に仕えた老騎士ガウェイン卿らと行動をともにすることになる。どうやら、この地を脅かすクウェリグという名のドラゴンが吐く霞が人々の記憶を消し去っているらしいことがわかってくる。

この他に鬼やら、ピクシーやら、謎の修道院が出てきて、ファンタジー要素がてんこ盛りなのだが、それらはただの道具立てであって、語られているのは老夫婦のquest、つまり探求の旅だ。二人にはかつて息子がいたはずなのだが、今はいない。どういう事情があって別れたのか、死んでしまったのか、今も本当に彼がどこかで生きているのかも定かではない。仲睦まじく見えるアクセルとベアトリスだが、結婚生活とは「病めるときも、健やかなるときも」一緒に過ごした共通の記憶を前提に立脚するものだとしたら、この二人の間に夫婦愛は成立するのか、というのが表層的なテーマと言えるだろう。彼らが訪ねるその先にあるのは、生き別れの息子ではなく、息子がどうなったのか、二人の間に本当は何があったのか、その「記憶」に他ならないからだ。

この記憶が明らかにされる時のどんでん返しが、『わたしを離さないで』を読み進めていったときの「クローンかよ!」的な驚きがあって最後まで惹きつける。

そしてもうひとつ、この日イシグロが言うところのsocietal memory、つまり個人ではなく、とある社会全体がどういう風に過去の歴史を記憶に留めるか、というのが深層的なテーマなのだ

この辺はヨーロッパの中世史を知らないと、わかりにくいかもしれないが、今イギリスと呼ばれている土地には土着のブリトン人(ケルト文化)がいて、かつてはヨーロッパ全土にまで及んだローマ帝国の衰退とともに、5世紀初頭にはイングランドに言葉も人種も異なるアングロサクソン人(ゲルマン文化)がやってきて、あちこちで戦いを繰り返しながらこの土地を征服していった過去がある。

だから今でもイギリスの人と話をすると自分たちのことを「ブリティッシュ」と呼んだり「イングリッシュ」と呼んだりする人がいるし、昔から北アイルランドのテロ問題があったり、今もスコットランドが独立したいかどうか、という話になるわけだ。

アーサー王伝説というのは6世紀初頭にそのサクソン人と戦ったブリトン人の英雄のお話で、ガウェインは、アーサー王の甥っ子で円卓の騎士の一人とされている。そのガウェインが老人となってThe Buried Giantに出てくる。立ち位置としては、まだ一応現役なんだけど、古い体制を背負った西部劇のガンマンとか、日本だったらまだまだ闊達な落ち武者のご老人とか、そんな感じw 彼以外の人たちは、昔の戦の話は聞いたことはあるんだけど、忘却の霞のせいもあって、その記憶はまちまち。言語も文化も違うが、とりあえず今は仲良く暮らしている。

イシグロは昨夜の講演でこう言った。「僕はいつも、自分の記憶とは何かということを様々なキャラクターを使って描いてきたが、この本では主人公二人の記憶だけではなく、社会の記憶、というテーマにも踏み込んだつもりだ。みんなで忌まわしい、暗い過去の記憶を葬り去った方がいいときもあるのかということだ」

彼は例として、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルワンダ、南アフリカの例を挙げて説明していた。ユーゴスラビアという一つの国でそれなりに仲良くやってきた人々が、クロアチアとセルビアに自らを分け、長らく紛争を続けたり、植民地化した支配層によって肌の色の違いからフツ族とツチ族として対立させられたり、と歴史の中から特定の記憶をdeploy(これをただ「展開する」と訳すと軍事的な意味が失われるのだが)して戦い続けるか、あるいは過去のアパルトヘイトの忌まわしい記憶を努めて忘れて新しい時代を築くことができた南アフリカのようにできるか、すべては人々の、社会の、そして支配層の意図的な判断だというのだ。

奇しくもこの本を読みながら、私が個人的にずっと考えていたのは、今の日本が置かれている現状と重なるという点だった。戦後の私たちが日本帝国軍のアジア侵攻という歴史とどう対峙してきたか。学校ではろくに明治以降の近代史を教えず、今では政権を握る右翼が歴史を改ざんして戦争することを正当化しようとしている。

そして同じその侵略戦争の被害者側であった韓国や中国は、埋もれかけていた記憶の中から意図的な政策として反日感情を高めるために自分たちに都合のいい「記憶」だけを呼び覚まし、利用しているのが慰安婦問題であり、南京事件なのだろう。軍事的に有利な土地を手に入れるために、竹島や尖閣諸島が自分たちのものだと主張するのだろう。

彼らにとってはその意図的な「記憶」が歴史の「真実」となってしまっているのだから、日本側がいくら歴史的な「事実」を突きつけて、強制連行はなかったとか、当時そもそも南京にそれだけの人口はいなかったと資料を添えて主張しても彼らの耳に届かない。それどころか「八紘一宇」みたいなキーワードで昔の侵略戦争を美化し、こちらからも戦いを仕掛けようとすることの愚かさよ。

敢えて平和ボケした国でいることも、成熟した社会としての選択として可能であればいいなぁ、と思ったり。Let us not slay the dragon. Let us cower in the mist of forgetfulness, if it keeps us in peace.


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