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批評家という特定分野の情報のプロが厳しいわけ

先日、フェースブックで柳瀬さんがフランス人とミシュランについて書いていた疑問によって、以前からあれこれ考えていたことがあちこち繋がった気がしたので書き留めてみる。まぁ要するに「西欧でいうcriticism(批評)の文化が重んじられていない日本は、情報の信用度というものさしがなくて色々とヤバイんじゃないか」って話になると思うんだけど。

元々「バズフィード」に出ていたこの記事について、 フェースブックに書かれてましたが、友だち限定公開のようなので、全文は載せません。

いちばん自分の仕事に近い例でいうと、日本の「書評」とアメリカのそれとじゃ、だいぶ扱いが違うなぁ、とこれは以前から友人と意見交換したことがある。

アメリカのマスコミで、映画評を書いたり、書評を書いたりするCritic(批評家)というのは、その道のプロでなければ務まらない。究極の「目利き」だ。ある特定分野における情報のプロであるがゆえ、その情報を提供してもらうのにはそれ相応のお金を出さないと手に入らず、また、クリティックも常にその分野の新しい知識を網羅していかないとやっていけないという、厳しいプロの世界。残念ながら、日本で見受けられる「〜評」は、プロアマチュア入り乱れ、情報は安く買い叩かれ、その結果としてどうでもいい人様の印象論を掴まされることになる。

これも知人の話だけど、洋書に関してすごい読書量の積み上げと、本が好きだという熱意で、とある本が日本でも売れそうだ、翻訳したものを読めばおもしろい、ということができる人がいる。翻訳モノを扱う出版社にとっては、彼女の知識は喉から手が出るくらい欲しい情報だ。でもそれを、ちゃんとそれなりのお支払いをしますので教えてください、じゃなくて、「ついでに」教えてくれと言ってくるチャッカリさん(英語でfree riderという)が多いのだそうだ。

とある本が刊行されたとして、それを読んでおもしろいと感じたことはタダの感想であって、読んで「あっそう」以上の価値はない。これに対して書評家というのは、年代、ジャンルを問わず、広く本を読んでいて、レファレンスのための知識としてそれが系統だてて蓄積されていて、自分がどう感じたかとは違う次元でその本を「評価」できる人のことである。自分の好き嫌いとは関係ない。だから、アメリカの書評欄では、チヤホヤされて出てきた新人にしては新しい試みはないとか、どんなに売れっ子のベストセラー作家の本であっても、ここがダメだときっちり批判もする。その道のプロとしての知見で測られた批評だからみんなお金払って読む価値があると思うわけだし、マスコミ媒体の方も、素人さんに仕事を頼むんじゃないから、それなりの原稿料も払うし、その本を出した出版社も、ネガティブな書評を書かれる可能性があるとわかっていても刊行前に充分に時間をとってゲラを提供する。

NYタイムズの筆頭専属書評家として有名なミチコ・カクタニさんなんて、そのプロの目利きとして、著者の人格と切り離して著作を公平に評価するために、ふだんから編集者や作家とは一切の付き合いを絶っている。アメリカにしては珍しいくらいプロフィールや顔写真もガンとして出さない。もしかしたら、個人的に付き合いのあるもの書きがいるかもしれないし、たまたま友人が本を出すこともあるだろうが、彼女ならそういう本の書評はゼッタイに書かないだろうと察せられる。それが彼女のプロの書評家としての矜持からくる信頼度だから。

日本で書評を書いている人たちの話を聞くと、最初からテーマを決められていたり、書評する本さえ自腹で買って読まなくてはならなかったり、締め切りがキツイわりには原稿料もびっくりするほど安いことが多い。っていうより、書評だけで食べている人なんてそもそもいないんじゃないのってぐらい? 国内でいちばん影響力があるとされている朝日新聞の書評委員だって、書評家以外のことで知られている人たちだったりする。しかもだいたいみんな「お薦め」の本を紹介しているだけ。実に生ぬるい。映画がタダで観られるから映画評書いてるってのもね。

柳瀬さんが書いていたレストラン評にしても同じ。NYタイムズのレストラン評は特に地元ニューヨークでレストラン業を営む人にとっては正にお店のサバイバルがかかっているほど、その信用度と影響力は高い。それなりのお店をオープンしたばかりだと戦々恐々として毎日タイムズの紙面を開かなければならない。

タイムズのレストラン批評家といえば、必ず偽名で予約を入れて、お店に知られないように他の客に混じって来店して(変装したりする)、そのお店のメニューを全部食べ(そのために同行客のふりをしてくれる人を雇う)、複数回お店に行って味にバラつきがないか確かめ、ゼッタイ飲み過ぎず(まったく飲まないクリティックもいる)、メモも取らず、お店側に知らせずにいきなりレストラン評を載せる。(ただし、これから行きま〜すと告知して、カメラマン連れで大衆的な人気店を取材することもあるが、これは別モノ)

(その辺の読み物は、ルース・ライクルのこの本がお薦め。)

素材に何を使っているか、どうやって調理法を工夫しているか、シェフの人にウンチクを聞いたりすることは絶対にない。どんな努力をしたかではなくて、結果がすべてだからだ。そのすべてを自分の舌で確かめる。いつ行くかを言わないのも、特別扱いされないためだ。どんなに高い料理でも経費で支払われ、レビューには相当の原稿料が支払われるところも書評と同じ。そして特徴的なのは料理の写真がないこと。その味を伝えるのに、なによりも文章力がものを言う世界だということ。

こういう土壌が今まであったから、その一方でザガットやYelp!というクラウド方式でレストランの「人気」を図るやり方が「後発のカウンター」として存在する。でもぶっちゃけ、ド素人が「この店のこのメニューがおいしい」って言っても大した信用度はない。当然だよね。ステマややらせも横行しているわけだし。反対に、たまたま口に合わなかった料理を頼んじゃった人が文句言っているだけかもしれないし。ザガットNYのSushiレストランのランキング、日本人から見るとありえないお店ばっかりなのも、そういうこと。ただの人気評であって、レストランとしてのランキングではないのだから。

柳瀬さんがフェースブックで挙げていた、「ミシュランの星をめぐってシェフが自殺しちゃう地獄」で書いていたことだけれど、日本には厳しいプロによる批評がないから、日本版ミシュランの星印なんて食べログとそんなに変わらないよって思っちゃう。まぁ、ひとつには東京が広すぎて仮にプロのクリティックがいたとしても、レストランの数が多すぎて回りきれない。世界のレストランランキングで、どうして日本のあの名店が入ってないの?って思うことあるでしょ? 回りきれてないと考えれば辻褄が合う。あるいは、バブルが終わった時代だから、そこそこのお店とそこそこの客でレストラン業界がの大部分が回っている、ということもあるんだろうし。柳瀬さんは、料理の作り手であるシェフに圧倒的な価値があって、批評家なんて星マーク付けるだけの人、って書いている。

でも、プロの批評家がいる文化では、シェフも作家も、プロとして切磋琢磨して批評家とバトルすることで価値が生まれると考える。公平な判断の積み重ねだけが信用を得るに値する。別にクリティックが一神教の神、という立場なのではなく、クリティックの方も、己の判断の信用度は、常に自分の「目利き」としての力を磨いて、その判断力を鈍らせると思える人間関係すら自ら断ち切って、バトルしながら取り組んでいる。

和をもって尊しとなすジャパニーズには、なかなかできないことかもしれない。ユネスコ様が指定した世界遺産だスゲー、政府のお墨付きだスゲー、勲章やメダルもらったぞスゲー、みんな並んでるぞスゲー、外国人がワンダホーって言ってるぞスゲーってそれに乗っかる方がラクだもんね。

人格を攻撃せずに、冷静に何かを的確に批評する力を持つプロのクリティックが大勢いる社会を目指そうと思ったら、義務教育から改革する必要があるだろうしね。Critical mindってのはあらかじめ用意された正解にたどり着いたらいい成績が取れる、っていう仕組みの教育じゃ育めない。クラスでディスカッションをして、時には先生が言ってるそれって正しいのかなぁ?と検証する生徒を奨励しないといけないし、criticismの方法論も勉強しないといけないし、何かを批評するためには、大学生ぐらいの時にリベラルアーツと呼ばれる幅広い知識を身につけないと、議論がただの感想文になっちゃう。

ぶっちゃけ言ってしまえば、残念ながら日本の芥川賞も直木賞も、欧米ではそんなに評価されていない。Chosen by peerって変ね、と言われてしまう。つまり、物書きが物書きを選ぶのが受け入れられないようだ。もちろん、アメリカにもそういう賞はある。全米図書賞(National Book Award)がそうだ。でも審査員となる作家は毎年変わるので、癒着だの、スポンサー出版社の優遇だの、って話はないし、国内でも地味な文学賞だ。そもそも、アメリカだと他の賞も似たり寄ったりで、ニュースの速報になるほど誰もが関心を持っているわけではない。賞を取り巻くお祭り騒ぎの派手さでは、イギリスのブッカー賞や、フランスのゴンクール賞の方がすごい。

特にアメリカという土地は、政府が薦める文化賞をすんなりありがたがったりしないところがある。スゲーと素直に騒ぐ前に、政府のプロパガンダじゃね〜の?という疑いの目をまず向ける傾向がある。新聞、雑誌に限らず、書籍も表現の自由を重んじ、政治家などの権力者の暴行・愚行を批判するのが役割、と心得ているので、官民一体の「出版文化を守ろう」、みたいな動きには乗ってこない。

本当に優れたモノは、それを生み出すクリエイターと、それを評価するクリティックが本気のバトルをする中からしか生まれない、という基本理解が欧米にはある、ってことなんじゃないですかね?

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りんがる aka 大原ケイ

最近は東京ベースの文芸エージェント。日本の著作品を欧米マーケットに売り込むべく孤軍奮闘中。ブログ Books Beyond the Briny Deep 海の向こうの本の話 oharakay.com ツイッター垢はLazarastaで密かに復活。

すき!

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コメント6件

いわゆる料理漫画とかに出て来る審査員的な絶対感覚の持ち主さんなのねって思ったら、理想は二次元の中に有ったわ。普通に。
はじめまして。そういう文化いいですね。やっぱり、ほんとの批評を読みたいです。それからダウントン・アビー楽しみに見てます。
なんで批評が相対する二者の対立になるのかいな。
何をどう書いても誤読や曲解をする人というのはいるもの。
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