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「悲しみ」の人格

何ヶ月ぶりかで髪を切ったあと、いつもはトラムに乗る帰り道を歩いた。
10月も終わりに近く、街路樹の落ち葉を踏むと、乾いた音がした。

誰かの悲しみを理解することは不可能だ。
自分の悲しみさえも、正確に知ることはできない。
悲しみとはそういうもののように思う。

「悲しみ」は、それ自体で独立する生きもののようなものかもしれない、と思うことがある。

悲しみにはたいてい自責の念や後悔、時には愛憎、葛藤……いろいろな感情が渦巻いているもので、それらはすべて自分から生みだされているように見えることから、つい自分でコントロールできそうに思いがちだが、実はその根はもっと遠く深い別なところにあるように思える。

だから、なにかで紛らわせようとしたり、無理に理由付けして納得させたりを試みても、それは一時的なものでうまくはいかない。

「悲しみ」にも人格がある。それを尊重し、慈しみながら、うまく折り合っていくことができればな、と葉を落とした梢からのぞく夕焼け空を見ながら思った。

それはいつか自分と自分以外を受け入れる優しい世界へつながっていくはずである。悲しみにあふれる世界で、唯一の希望かもしれない。




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