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海の見える街 (10)

「へぇ、手持ち花火とか懐かしいなぁ。」
受け取った荷物を運び潮風に戻ると、玄関口で友瀬さんが僕らの帰りを待っていた。
茜さんは嬉しそうに花火を抱えて車に乗っていたので、降りた途端にそれは友瀬さんの目に入った。
「今日が本土の花火大会だって、僕知らなかったんですよね。」
また、別の日にでも、と言いかけると
「今日は風も弱いし夜も天気がええ。明日からしばらく雨みたいやけん、今日やりましょうや。」
と、友瀬さんに遮られた。
「船のおじさんに花火大会は十九時半からだって教えてもらいました。」
「それより前の時間だとまだちょっと明るいですけん、花火大会終わってからにしましょう。文句言うてくる人はここには誰もおらんのんで。」
友瀬さんは二ヒヒとした顔で笑う。
茜さんのニカッとと、それはなんだかよく似ていた。
「ハーーールーーー!冷凍庫がいっぱいでアイス入んないよぉ!手伝えー!」
遠くから茜さんの声がした。

「茜さんは治さんを呼び捨てにするんですね…」

それはそれは含みのある言い方だった。誰が聞いたって気に入らないんだということがよく分かる言い方だった。
僕もその内、言われるだろうなと思っていた。
「友瀬さんもハルって呼んでくれたら嬉しいなぁ。」
ここで間違っても自慢げな態度を取ってはならない。
思わせぶりらしい僕にとっては少々慎重にことを運ばなくては。
「その代わりに僕も、裕くんって呼んでいいですか?」
予想しなかった出方に意表をつかれている友瀬さんに、僕は二発、三発とジャブをうつ。
「茜さんといると、まるで昔、妹と居たような感覚で楽しいですけど、せっかく歳の近い男同士だし、もっと裕くんとも話したいなぁって思ってますよ?」
心の中でよくやったぞ!と鼻息荒く満足な僕だったが、友瀬さんの言葉にハッとする。
「妹…。もしかして、記憶が…」

…そうだな。僕はなんで"昔、妹と居たような"なんて言えたのだろうか。僕は僕から手を離したあの妹の姿しか知らないはずなのに。

「あ、いやいや。例え話、というか。記憶はさっぱり戻っていませんよ。」
頭を搔く僕に、小さな声で「えぇなぁ」と言った友瀬さんの声が届く。
彼は辛さを忘れて楽になりたいのだろうか。
果たして、忘れることが楽なのかどうか、それすらも今の僕には分からないのだけれど。

「僕、車を戻してくるので、茜さんをお願いしてもいいですか、裕くん。」
まだ動揺しているのか返事をしない彼を置き去りにするような形で、僕は車に乗り込んで杏香さんの家の庭に車を戻しに向かった。

「あ!ハルやっと来た!」
キッチンに近づいてくる足音に振り返った茜はそこに立つ人物に動揺して、持っていた冷凍炒飯の袋を足元に落とした。
「なに?冷凍庫にアイスが収まらんいうて聞こえてきたけど?」
裕は茜の傍に座り込んで一から冷凍庫の中身を詰め直し始める。
茜は声も出ないまま、口だけパクパクさせて一生懸命状況を把握させようとしている様だった。
そんなに治さんが来てくれるのを彼女は期待していたのか…
「茜さん?」
「まっ、まさか裕くんが来てくれると思ってなかったから!びっくりしちゃった…」
全く自分を見ない茜に裕の苛立ちがまた一つ積み上がる。
「”ハルくん”が来た方が嬉しかったです?」
その後彼女がどうなるか、裕には全てわかっていた。
それなのに彼女を止める名目で彼女に触れたい自分の欲望が抑えきれずに、言葉になって外に出てしまっていた。
「どうして、」 そんなこと言うの、と言いかけた茜が、手に持ったアイスの箱を振り上げて投げ付ける前に、裕は茜を抱き締めて包み込む。
足元に冷凍庫から流れだす冷気がゆっくりと届いて来た。
「ごめん。今のは俺が意地悪やった。」
自分の胸の中で茜の乱れた呼吸が整って来た頃合いを見計らって、裕は腕の力を緩めた。 その中から出てくるのは、潤んだ瞳で自分だけを真っ直ぐに見る茜だけだと、思い上がっていた事に 茜の顔を見て裕は気が付く。
キッとした刺す様な目つきで自分を見上げる茜に、背筋が凍る。
また、自分が置いていかれるのかもしれない。
もういい。と匙を投げられるのかもしれない。
自分の中だけで決めつけて思い込んだものと世界がずれている事に気が付かずに、また…。

「思わせぶり。」

巡り続ける思考の隙間に茜の呟く声が聞こえた。
そのまま立ち上がってキッチンを出て行こうとする。
「茜さん!待って!今のは俺が悪かった!」
ギリギリ追いついて掴んだ茜の腕を引いて裕はもう一度胸の中に戻そうとしたが、それを茜は力いっぱい振り払った。

「私を咲生の代わりにしないで!」

茜はそのまま裕に背を向けて走り出した。
真っ直ぐ廊下を走り抜けて、一階、二階と階段を駆け上がって行く。
三階の治の部屋の扉を思いきり開けたら、そこには全てを見て知っていたかの様な顔をした治が居た。
余計なこと言いやがって。みたいな顔をして、受け入れてくれるかの様にふっと微笑む治の胸に、迷わず茜は飛び込んだ。
予想外に裕が来てくれた嬉しさと、傾いてもいないくせに自分に妬く様な事を言われた苛立ちと悔しさと、全部が混ざって声も出ない。

「茜さん、とりあえずドアを閉めよう。」
治は冷静に自分に貼り付いたままの茜ごと床を這っていって入口の扉を閉めた。
「裕くんが追いかけて来て、こんなところ見られたらどうするの。」
茜は力いっぱい治にしがみ付いたまま、「来ない。来ない、来ない。」と暗示の様に呟いている。
「茜さん、茜さんだってもう気付いてるでしょ?そんな怒らなくていいじゃん。」
気持ちの整理がつかないのだろう、茜は治の胸を拳で左右交互に叩いている。

(お兄ちゃんのバカバカバカ!)

 ………。 治の頭の中で妹の声が響いた。
同じことがあった。
同じ様に胸を殴られながら、妹が自分に泣きついて来たことが。
あれは、確か、亮司のことを腹が立ってめちゃくちゃに言った後…。
そう思った直後、治は猛烈な頭痛に襲われた。

 しがみ付いていた治が急に自分を支えなくなった事に茜はすぐ気付いた。
「ハル?ハル⁉︎」
治は頭を抱え苦しそうな顔をしている。
すぐに裕を呼ぼうとしたが、ここにいた事ををまた裕に嫌味のように言われるのはとても嫌だと思った。
そのうち治は急に力が抜けたように横たわった。
そっと、その胸に茜は手を伸ばす。心臓はトクトクと鼓動を鳴らしていた。
このまま寝かしておいても大丈夫そうだ。

窓から夕陽が差し込んでくる。
花火は今日でなくてもいい。
治が気がつくまでここに一緒にいよう。いつか自分がしてもらった様に。
茜はベッドから掛けるものを引っ張って来て治に掛けた後、治の頭を自分の膝に乗せた。
(茜さんだってもう気付いてるでしょ?)
眠ってしまう前に治が自分に言ったことを思い出しながら、治が読みかけて置いている本を茜は開いた。
途中からすぎて話が全くわからないが、どうやら、演奏中の音楽について、繊細な言葉で綴られているようだ。
急にふわっと強い風が吹いて、カーテンが大きく揺れる。治の顔にかかった前髪を風が払って、眠る治の顔をはっきりと見せた。
「私が気付いていること、信じていいのかな、ハル…」
茜の呟く声に眠る治はもちろん返事をしない。
茜は治の手を握って自分の胸に抱いた。



−「なんでおまえがそんな怒るんだよ。」
そう言っている自分の頭の中で、だってこいつは亮司のこと好きなんだもんなぁと思う自分がいる。
どうやらこれは明晰夢の様だ。
「お兄ちゃん、亮ちゃんしか友達いないのに、ケンカしたら誰もいなくなるんだよ⁉︎」
妹の嘘が今なら下手くそすぎて笑えてくる。ただおまえにとって都合が悪くなるだけだろうが。
「僕には佑香がいるよ。アイツは佑香に絡みすぎる。それでケンカになってんだから。」
「絶対、絶対に佑香ちゃんを守らないとダメだよ、お兄ちゃん。」
妹の言葉が妙に引っかかった。亮司が佑香を持って行ってしまうと妹にとって自分の気持ちの行き場が無くなるからというのは分かるんだけれど、何だろう、この違和感は。
「佑香ちゃんはさ、亮ちゃんにもくっついて行って、悪いと思わないのかな…。」
これがはっきりとした昔の記憶なのか、ただの夢物語なのか判断できなかったけれど、次の瞬間、妹の言葉で、僕の脳内で何かがリンクした。

「思わせぶり。」




ハッと目が覚めると、真っ暗な部屋が一瞬照らさせて、ピアノの音の隙間にどぉん、と低く響く音が聞こえた。
「ハル、おはよう。」
すぐ近くで茜さんの声がする。
起き上がろうと体を横に倒すと、僕の顔面が温かい壁にぶつかった。頬からの感触で、自分の頭が茜さんの太腿の上にあることに気づいて僕は飛び起きた。
また照らされた一瞬の光に中に、少し戸惑った表情の茜さんがいる。
「どうしたの?あぁ、私がここにいることに驚いている?」
鳴っているピアノが、ジムノペディであることに気づくのに僕は幾分か時間を要した。そして、一瞬部屋を照らしている光が、花火だという事も。
「茜さん、は、花火!」
焦って言う僕に茜さんは笑ってもう終わるよ、と言った。
窓際に腕を引っ張られる。窓際にあるベッドに上がって、対岸を見ると茜さんの言葉通り、花火大会の打ち上げ花火はクライマックスの定番、柳花火の連打が始まっていた。
「綺麗だねぇ。」
そう言って茜さんは、僕を背中からぎゅっと抱き締めた。
「ちょ、茜さん、」
引き離そうとする僕に茜さんはさらに腕の力を強めて、黙って見ろ。と言う。
「ハルが前に私にしてくれた事をお返ししてるの。いきなり眠っちゃうくらい、ハルも何かしんどい事があったんでしょう?」
あ、そうだ。夢を、夢を見たんだ。
茜さんに泣きつかれている時に、妹に昔そうされた事を思い出して…

「思わせぶり。」

僕は思わず、夢の最後に聞いた言葉を口にした。
「なに?私が?こうされて、ドキドキしてるの?」
「いや、夢の最後に妹が、言ったんだ。思わせぶり。って。」
「ハルのことを?」
「いや、わからない。でもそれを聞いた瞬間に、これは夢じゃなくて、昔本当にあったことだって確信した。」
「記憶が戻って来たの⁉︎」
「…一部、なのかな?茜さんが僕に泣きついてきた時に、妹にも同じことされた事があるって、思い出して、そうしたら、すごい頭が痛くなって。」
「うん、ハル、頭抱えて苦しんでた。」
「その後、そのまま眠ってたんだね。」
「そうだよ、私がずっと一緒に居た。」
会話の間に、花火大会はフィナーレを迎えて、空には煙だけが残った。
「ずっと僕を乗せてて、足痺れなかったかい?」
背中から離れて僕の隣に来た茜さんを思わず撫でそうになって、僕は慌てて腕を引っこめた。
「そういところが思わせぶり。」
茜さんはそう言って笑った。
笑いながら、ずっと、煙だけになった空を眺めている。
「裕くんと見なくてよかったの?」
茜さんは返事をしない。
「そういえばここに来た時、泣いてたよね?何かあったんじゃ…」
そう言ったところで、僕の視界がぐわんと動いて、僕はベッドに倒された。僕の身体に茜さんがじわりじわりと寄ってくるのが振動でわかる。
「ハル…」
僕に覆い被さって、茜さんは震えるような声を出した。
「試して、みても、いいかな。」
暗闇に慣れた目が、僕と同じ高さまで登って来た茜さんの顔を捉えた時、僕の視界が茜さんで埋めつくされた。
唇に温かくて柔らかいものが触れる。
茜さんにキスされていると、頭はすぐに理解した。
僕はそれに応えない。

やがて唇を離した茜さんは「ドキドキしてる?」と、僕に問う。
「茜さんが何を考えているかわからなくて、ドキドキはしてる。」
「それだけ?」
「あぁ、それだけだね。」
茜さんは僕から離れて僕の隣に寝転んだ。
「私がハルを呼んだ後、裕くんが来て。」
「うん、僕が行ってくれって言ったから。」
茜さんは「なるほど、そういうことか」と言って笑った。
「ハルじゃなくて、裕くんが来て驚いている私を見て、ハルが来た方が良かった?って言われたんだ。」
なるほど。僕は全てを理解した。
下で裕くんが茜さんを呼び止めている声は聞こえていたから、茜さんが彼を振り切ってここに来たという事はなんとなくわかっていたけど、きっかけがハッキリした。
「図星だった?」
たぶん、茜さんの心に少しだけ、図星だったところがあったんだろう。それを自分で認識してしまって、自分の考えてる事がわからなくなってしまったんだ。
”試す”と言ったのはそういう事か。

「それで?茜さんは、僕にキスしてドキドキしたの?」
僕はわざと茜さんを煽ってみる。
さっきされたのと同じようにじわじわと茜さんにすり寄って、さっきと逆の状況を作りあげた。
「どう思った?僕の方が、いいと、思った?」
僕から茜さんに手を出すつもりは全くなかった。
茜さんのキスに、僕を求める気持ちがない事がわかっていたからだ。
「私は、安心したいだけなのかもしれないね。」
「よくわかってるじゃない。そうだと思うよ。」
「私を咲生の代わりにしないで、って、裕くんに言ってしまったの。私も今、ハルを裕くんの代わりにしようとしたのに。」

月明かりの乏しい暗がりの中で、茜さんのスマホからドビュッシーの月の光が流れている。
僕が勧めた曲を聞いてくれていたみたいだ。

「茜さんの気がすむのなら、僕は代わりにされたって何も思いはしないよ。それは、茜さんの心が、ここには無いと僕にわかるから。わかっていて、僕は茜さんを裕くんから引き離すような感情は抱かない。」
薄暗い中でも驚いた顔をしている茜さんの顔はハッキリと見えた。
「でも、それは感情的にしてはいけない。責任と覚悟を持ってないと、茜さんの手には何も残らないよ。」
僕はぐっと茜さんに顔を寄せて言う。
「だから、さっき僕は君のキスに応えなかった。」
茜さんはじっと僕を見て真剣に僕の話を聞いている。
「一つ、茜さんの気持ちのヒントになる事を話すよ。」
僕は、昼間、「茜さんは治さんを呼び捨てにするんですね」と言われた事を話した。
僕もいつか指摘されると思っていたけど、それはそれは気に入らないという気持ちのこもった言い方だったと。
「茜さんがどうして自分に気持ちが傾いていないと思いこんでるのか分からないけど、一度覚悟して、ちゃんと話をしてみたらどう?僕のことは、上手くいかなかった時の逃げ道だと思っておけばいい。」
茜さんは言いたい事が言葉にならないような表情をした。
「決められない事も、生きてるうちに出てくるものでしょ。時に不真面目だっていいんじゃないの?それで君の心が守られるのであれば。一番大事なのは、君が辛くてしんどくない事だと、僕は思うよ。」
鼻をすする音がする。
別に、嘘を付いているわけじゃなく、僕は心の底からそう思っていた。
僕は誘われてここに来たけれど、それが、茜さんの心を穏やかにする為だったとしたら、今まで、僕が覚えていない過去があった意味もあるように思えた。
「心が決まるまで、僕を好きに使いなよ。僕はそれを嫌だと思ったり、定まらない君の気持ちを軽蔑したりしないよ。僕はきっと今、その為にここにいると思う。」
茜さんの気持ちが入り組んで爆発しないように、僕はそっと彼女の頭を撫でて、隣に寄り添った。
「今夜は、ここで、眠ってもいい?」
鼻声で言う茜さんに、僕は好きなようにしたらいいよと答える。
彼女が僕にこれ以上何かしてくることはないと、僕は確信していた。

この気持ちを、この感情の色を、この味を、僕は知っている気がした。
…あの香りが、僕の鼻に蘇ってくる。

あぁ…。
僕は、あの時、佑香にもう、僕への気持ちがあまりない事に気が付いていたんだ。
僕が、亮司に対して怒っていたのは、それを認めたくなかったからだ。
亮司はきっと失くして初めて自分の気持ちに気づいたんだろう。
佑香は自分の気持ちに気づいてくれない亮司の代わりに、僕を選んだんだろう。
あの日の光景がじわじわと蘇ってくる。

「お兄ちゃん、亮ちゃんが出て来てほしいって言ってる。話があるって。」

あ、れ、、あの日、俺を外へ誘ったのは、妹…?

自らの気持ちを落ち着かす為に僕に抱きついて眠っている茜さんを僕も利用して抱き締めた。

あいつは、何かを隠している…。
襲ってくる頭痛の刺激の中で僕も眠りに吸い込まれてしまいたかった。

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