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海の見える街 (5)


今の僕が始まったのは、知らない、病院の天井からだった。

なんで自分がそこにいるのか、どれだけ考えてもわからなかった。

なんなら、今でもはっきりわからない。

目覚めた僕を見て、父も、母も、妹も泣いて抱き合っていた。
程なくして医者や看護師が何人もやって来て
僕に付けられたいろんな装置を確認したり、さらに何か装置をつけたり。

わけがわからない慌しさの中で医者が僕に問いかけた。

「自分の名前はわかりますか?」

深川  治です。

「ここにいる人達がわかりますか?」

父です。母です。生意気な一つ下の妹です。

「では、この人がわかりますか?」
男性の写真を見せられた。
その時に僕は気づいた。質問して来ていたのは、医者ではなかった。

スーツ姿の、知らない男。

見せられた写真を見る。

「いえ。知らないです。」

そう答えたら、家族がざわついた。

スーツ姿の知らない男は、もう一枚、今度は女性の写真を見せてくる。

「じゃあ、この人は?」

控えめに微笑む女性。単純に可愛らしい人だな、と思った。

「…知らないです。」

妹が小さな声で、お兄ちゃん、嘘でしょ。と言ったのが聞こえた。

僕はそんな失礼なことを言っているのか?何を問われているのか知らないけど、知らないものは知らない。

急に爽やかに甘い、花のような香りが鼻を掠めた。

その瞬間に僕は吐いた。

死ぬほど頭が痛い。頭を内側からガンガンガンガン殴られているような感覚で、脳みそが揺れて目が回るように視界にどんどん酔っていく。

目の前が何にも見えなくなっていって、耳が詰まったようにどんどん周りの声や音が遠のいていく中で、僕はこの言葉を聞き逃さなかった。


「記憶が無いね。」


意識を失う目前で、僕は、僕を理解した。





曽田さんは、一時も目を離す事なく僕をじっと見て話を聞いていた。

「今も、思い出せないの?見せられた写真の人。」

思い出してはいないということを前提に、僕はその人たちが仲の良かった同級生だったという結果を伝えた。

「医者じゃなかったスーツの人は誰だったの?」

そう、全てはそこだった。そいつのせいで、僕は聞かざるをえなくなったのだ。

せっかく脳が記憶から切り離した時間を。

「警察。」

「…は?」

「刑事でした。事件の担当刑事。僕の目が覚めるのをずっと待ってたと言っていたと思います。」

「事件?何かに巻き込まれたってこと?」

僕は唐突に曽田さんに言葉を放った。
これを聞いておかないと、話し方を考えなきゃならない。

「曽田さんは、身近で人が死んだことがありますか?」

おじいちゃんやおばあちゃんが、その人生を全うして、というのとは訳が違って…と僕が言う前に、曽田さんは即答した。
その時ばっかりは僕から目を離して、
ものすごい不機嫌そうな顔で、
即答した。
「あるよ。」
僕は何も包み隠さまいと思った。
そして、彼女のこの不機嫌の元凶も、僕がちゃんと後で聞き尽くそうと思った。


目覚めた僕は、殺人事件の重要参考人になっていた。
殺されたのは、見せられた写真の女性の方。
僕はその女性と一緒に血まみれで現場に倒れていたという。
警察は僕が彼女を刺して自分も死のうとしていた、という線で捜査していて、僕の意識回復を待っていたと言った。
うんざりするほど、毎日毎日同じ写真を見せられて、思い出さないか、まだ思い出さないかと聞かれた。
毎日毎日、僕は彼女の写真を見るたびに、同じ匂いを感じて吐いた。
自分でも驚くほど何も思い出さなかった。
思い出そうとすると頭が打ち砕かれそうに痛くなる。

ある日、見舞いに来てくれた妹に、僕は何を忘れてしまっているのかを聞いてみたら、何とも言えない顔をして泣きながら飛び出して行ってしまった。
憐れみ、怒り、悲壮感…なんか全部混ぜたような顔。
僕はそこから何日も何日も警察の聴取で吐いて、忘れていることを思い出せなくて頭が痛くて吐いて、次第に眠れなくなっていった。

泣きながら飛び出して行ったきりだった妹が僕の目の前に再び現れたのは、しばらく経った三月の末頃のこと。
「お兄ちゃん。私、春から大学生になるからこの街を出ていくんだ。」
ということは、僕は今大学一年生なんだな、と僕は思った。
妹がひとつ年下だということは、目覚めた直後から 頭にちゃんとあった。
「お兄ちゃん、前に、自分は何を忘れているのか教えてくれって言ったよね?」
僕は、あぁ言ったよ。と答えた。
「すごく一生懸命、私なりに悩んだ。私は全てを話す事も、全てを隠す事も出来る。お兄ちゃんには、正直全て忘れたまま生きていって欲しい。私をずっと妹にしてて欲しい。でも、もう私は苦しいのに耐えられない。」
妹は僕の手を取って、涙いっぱいの目で僕にこう訴えた。
「私はもう一生、お兄ちゃんの前に現れない。だから、全て話して、楽になろうとする私を赦して…。」
どういう意味なのか僕は全く理解できなかったが、妹は僕の理解など全く無視して話し始めた。
今思うと、僕に赦さない、の選択肢はなかったのだろうと思う。
妹は言い逃げする気しかなかったのだ。

僕が写真を見る度に吐いていたあの女性は、僕の彼女だった。
もう一枚の男性の写真は、僕の小学校からの親友だった。
僕らは高校時代いつも三人でいて、三人で同じ大学に進学した。
彼女は佑香という名前で、妹ともとても仲良く接してくれていたらしい。
親友の亮司は妹にとって、もう一人の兄みたいだったと言った。
「私は、お兄ちゃんが佑香ちゃんを殺したなんて思ってない。絶対に犯人は別にいると思ってる。」
妹は強い口調で言った。
「何でそう思うか教えてくれ。」
「だって、こっちが引くくらい、お兄ちゃんは佑香ちゃんが大好きだった。私、この話、何度も警察の人にも言ってる。外を歩くときには必ず何があっても車道側を歩かせない。日焼け止めクリーム、絆創膏や消毒液はもちろん、万が一の時を考えて、私の生理用ナプキンくすねて、佑香ちゃんの為にいつも持ち歩いてた。」
妹の力説に、昔の僕が全く抜けている今の僕がちょっと気持ち悪くなる。
「あの日、お兄ちゃんは、亮ちゃんに呼び出されたって、夜、家を出て行ったと思うの。ハッキリ覚えているわけじゃないんだけど。警察の人にそう言ったら、お兄ちゃんの携帯に亮ちゃんから呼び出された通話履歴や、トーク履歴がないって言われた。」
妹の話を聞いていて、僕に一つの疑問が浮かぶ。
「亮司…って人が、僕に会いに来ないのは何故だ。僕が犯人だと向こうも思っているからか?」
妹は急に声を潜めて辺りを見回した。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんは今警察の人の手によって、面会を制限されているの。誰でも彼でもお兄ちゃんに会えない。佑香ちゃんのご両親がここに来ないのもそのせいだよ。」
妹はさらに声を潜めて、僕の耳元に顔を寄せた。
「私が、亮司に会いたいってお兄ちゃんが言っているって嘘を伝えるから、お兄ちゃん、記憶が戻ったフリをして亮ちゃんに会ってくれない?」
記憶が戻ったフリを?
妹が僕に差し出したのは、小学校から今までの、亮司との大きなイベントをまとめたもの。
小学二年生。新作ゲームを貸した、借りてないで大げんか。結局別の友達が間違えて持って帰っていて隠しダンジョンの位置を教え合って仲直りしたエピソードや、小学四年生の時の運動会で、リレーのアンカーを選抜する選考会の決勝戦で対決。勝ってアンカーを手にした方が、当時双方が好きだった女の子に告白する権利を手にするというルールで対決し、見事、僕が勝利。が、呆気なくその女子にフラれたエピソード。
高校に入って佑香と出会ったきっかけのエピソードや、 僕と佑香が付き合い始めた当初から、亮司が妹につぶやき続けていた”愚痴”が、書かれていた。
「おまえ…これは…。」
「お兄ちゃんが真犯人を炙り出して、自分を助けるためのヒントだよ。」
…真犯人、だって?
「私、ずっと亮ちゃんのことが好きだったの。だから覚えてる。いろんな時の、いろんな亮ちゃん。やった事も、言った事も、亮ちゃんが、ずっと、佑香ちゃんの事が好きだったことも。」
妹は確信していた。真犯人が、亮司であると。
「お兄ちゃんの潔白が確立されれば、亮ちゃんはいなくなる。…お兄ちゃんのせいでいなくなる。」
妹は、自分の言葉が正しくないと思う心を噛み潰すような顔で続ける。
「お兄ちゃんを助ける為に昔のことを話して、お兄ちゃんの体がせっかく切り離した忘れたい程の記憶を蘇らせてしまったら、お兄ちゃんは私のせいで親友も彼女も失くしてしまう。どっちがいいか私はわからなくなっちゃった。」
僕は妹を抱き寄せた。静かに泣く妹を胸に押し付けて、優しく何度も頭を撫でた。
「僕が助かる方を、選んでくれたんだな、おまえは。」
「恨まれてもしょうがない。私にはこの先にお兄ちゃんにしてあげられる事がきっと何もない。」
そんなこともないと思ったが、それは今の僕のストレージが膨大に空いているからなのかもしれないと考えたら、 そう言葉にする事はできなかった。
「お兄ちゃん、きっとまた、幸せになって。」
僕は彼女の決心を受け入れた。
別れ際に、小さな声で「大好きよ。」と言ってくれたのを忘れないでいる。


 「それで、あんたはうまくその亮司って親友を騙して、その身の潔白を証明したんだ?」
僕は曽田さんの言葉に静かに頷いた。
「妹のカンペのおかげです。あと、妹の天才的な根回しのおかげです。」
「根回し?」
「あいつは、僕が亮司に会いたいと言っているという嘘を伝えたのみならず、自分の亮司への気持ちも、ぼくに手渡してくれたカンペのコピーも、何度目かの、事件当日兄は亮司に呼び出されて出て言ったという証言も、合わせて警察へ持ち込み、僕ら二人にバレないように僕らの会話に聞き耳を立てさせて、決定的な発言が出たところで亮司を現行犯逮捕に追い込める状況を、全部、組み立てて街を出て行ったんですよ。」
「妹、名探偵すぎるじゃん。」
「そうでしょう。」
僕は妹を思い出して笑った。
あいつの事だから流行とかにすぐ感化されて全然別の人になってそうだ。 もう最後に会ってから六年経った。
僕が家を出る時に帰ってきたら渡して欲しいと実家に置いてきた手紙に、いつか、何かの気が向いた時にはいつでも連絡して来て欲しい、と連絡先を置いて来た。

 僕はその後、身の潔白は証明されたものの、佑香の両親からの酷いバッシングにあった。通っていた学校の中でも噂は充満していて、とても居られる雰囲気ではなかったので辞めた。
僕は妹の壮大な決意に相反して、あいつのカンペを読み込んでも一切の記憶も戻って来なかった。
両親も周りからの根拠ない噂話などに過敏になりすぎて疲弊しきってしまった。
今から二年前に、僕は実家を出て、一人で暮らし始めた。
少しでもそれで両親の気が楽になれば、と思ったが、 記憶が蘇ったわけでも無いくせに、裏切られたという被害観念だけが強く残って、全ての人の全ての言動を無意識の内に疑って、いくつものパターン、可能性を考える事が常になっていった。
そして先日、ついにその限界が来た。というわけだ。

 「もう、僕は、人の事なんて考えて生きていたくない。そう呟いたのを、裕さんのアカウントに拾われたんです。 よかったら貴方の話を聞かせてもらえませんか?って。」
曽田さんは「なるほどね。」と言って、腕を組み、大きく三回頷いた。
「僕の話は、こんなところです。」
曽田さんは僕に拍手を送ってくれた。
「ピアノの事は何も覚えてないの?」
曽田さんはさっき僕が弾いたアップライトを指差す。
「ふといつだったかに、急に弾いてみたいなと思って。最近よくある、街に置いてある共用のピアノに触ってみたら、不思議と手が動いたんです。何も覚えてないんですけど、勝手に手が動くんだってわかりました。」
「また弾いてよ!」
曽田さんはキラキラした期待の目で僕をじっと見た。
「とても上手かったし、なんかよくわかんないけど、とってもよかった!」
そう言っていただけるのなら…僕は照れくさくて頭をかきながら早速、彼女はどんな曲が好きなのか頭の隅の方で考えはじめた。
 「はい。じゃあ、次は曽田さんの番です。」
僕は組んでいた胡座を解いて、麦茶のお代わりを継ぎ足しに立ち上がった。
「まだ終わってないよ。」
曽田さんは僕より先に麦茶のボトルを横から奪って注いだ。
「次は、あんたが、おばあちゃんと裕くんから、私を何だって聞いているか、の話の時間だよ。」
やはり、彼女は気づいていたようだ。 ここも包み隠さず話すのが良さそうだ。
僕は続けて話し始めた。
いつの間にか戻って来ていた杏香さんが僕らの死角で話を聞いているなんて思いもせずに…。


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