見出し画像

海の見える街 (4)

曽田さんは、友瀬さんに抱き上げられて帰ってきてから、その後三時間眠り続けた。
友瀬さんの話だと、昨夜ほとんど眠っていなかったらしい。

少し、過呼吸になって酸欠っぽくなっただけで、一度意識が戻ってから眠っているから放っておいても大丈夫。との事だったが、僕は自分の部屋から本を持ってきて、曽田さんの傍に座って曽田さんが目覚めるのを待っていた。

電話口で声を聞いた時に感じた通り、友瀬さんは赤い目をして帰ってきて、曽田さんを部屋に寝かせた後、少し自宅に帰ると言って行ってしまった。
杏香さんの言ったことが本当ならば(きっと本当なんだろうけど)友瀬さんは、朝の件で自分した”気づかないフリ”のせいで彼女に無理をさせてしまった事を詫びるために曽田さんを連れ出していたらしいから、詫びた時にでも泣いたのだろうか。それとも曽田さんが急に過呼吸になって、気が動転して泣いてしまったのか…。

僕はしばらくの間、手元の本の世界から意識を戻して考えていた。

曽田さんも泣き腫らした顔で眠っている。

開けた窓から吹いてきた風が、曽田さんの部屋の束ねていないカーテンを大きく揺らして、僕の手元の本の世界をぱらぱらと巻き戻していく。
沈みかけた夕日が優しく射して、僕は非常に本を読みやすかったのだが、女の子の顔にそれが直接射すのはなんだかよろしくないような気がして、カーテンを閉めようと立ち上がった時、小さく、声が聞こえた。

「…誰?」

曽田さんが横になったまま、ぼぉっと僕を見ていた。

「裕くん?」

あぁ、西日が逆光になって、僕の顔が見えないのか。

「あ、友瀬さんじゃなくて、僕です。深川 治です。今日からここに来た…」

そこまで言ったところで、曽田さんは急に体を起こして僕をキッとした目で見上げた。

「なんであんたが此処にいるの。」
そうですよね、ごもっともだと僕も思った。

「三時間くらい前に友瀬さんが電話をかけて来て、曽田さんが倒れたので連れて帰る、と。」

僕は彼女の表情を伺った。…まだ、僕を睨むようにして見ている。

「友瀬さんは眠っているだけなので大丈夫だと言っていたんですけど、僕、人が倒れたとか、周りで経験が無くって、なんか、見てない間にどうにかなっちゃったら…って思ったら心配だったので…」

「ずっと此処にいたの?」

「あ、はい…。」
「私、三時間も眠ってたの?」
僕は腕時計をチラッと確認した。
「そうですね、ちょうど三時間くらい。」
「裕くんは?」
曽田さんは少し苛立った声で僕に聞いて来た。
「曽田さんをここに寝かせた後、自宅に帰ると言って戻りました。まだ、ここには戻って来ていないかと。」
ちなみに、杏香さんも自宅に帰ってからまだ戻ってないと伝えたが、「おばあちゃんの事は聞いてない」と、切り捨てられた。
「それで?」
曽田さんは自分でカーテンを閉め、部屋の入り口にある電気のスイッチを押しに軽快にベットから飛び降りた。 足取りはしっかりしている。
「それで…とは?」
「心配して見てた私は、あんたがいる間にどうにかなったわけ?」
どうにもならなかったでしょう?まだわからないの?さっさと出で行けって言ってるの!
…とでも言われるのかと思って、僕は身構えた。
「とても気持ち良さそうに、眠って…らっしゃいました。」
曽田さんはそれを聞いて、目を丸くして僕をじっと見る。
そしてその後大きな声で笑いはじめた。
屈託のないその笑顔は、朝のそれとは少し違って見えた。
遠慮がない、というか。良くも悪くも。
「そりゃそうだろうね!」
昨夜、あまり眠ってないと聞いたと言うと、曽田さんは僕の顔面に自分の顔をぎゅんと近づけて、僕の鼻を人指し指で軽く突いて「あんたのせい。」と言った。言った後、ニカッと笑った。
僕には今の曽田さんがまだ無理をしているのか、これが本当の曽田さんなのかの判別は付かなかったので、友瀬さんや杏香さんから聞いた話をどこまで彼女の前で出しても良いのか悩ましかった。
それを出さないことには、話を続けるネタがないし、かと言って何も知らないフリをし切れるかの自信もなかった。すでに朝、二人の前でまだ会ってないはずの曽田さんに会ったことを隠すことに失敗しているし…。
「それ、何読んでるの?」
僕が心の中で頭を抱えていると、彼女が先に沈黙を破った。
ベットの上に仁王立ちして、僕の手元の本を指差し見下ろしている。
「あぁ、これ?これは…」
天才的なピアニストが、天才的な頭脳でミステリーを紐解いていく、ミステリー小説だよ、と僕は説明しようと思ったのだが、それをする暇もなく、 「ごめん。うそ。全然興味ない。」 と、曽田さんがまた口を開いた。
「だって、あんた何も喋らないくせに出て行きもしないから。」
僕は慌てて立ち上がる。やっぱり出ていかないことに怒っていたのか!
急いで部屋から出で行こうとした僕を彼女は小走りで追い越して、扉の前で僕に立ち塞がった。
「ねぇ、下にお茶飲みに行こ?」
僕はきっと今、呆気に取られた顔をしている。…いや、絶対にしている。
「そこで話をしよう。」
何度目かの彼女のニカッと笑顔見た。
朝の笑顔との言葉にならない違いが僕の中で明確になった気がした。
あの時、彼女はくしゃっと笑った。
…その目が、僕を見ていなかった事を思い出したのだ。今、彼女がニカッと笑う時、痛いくらい僕を真っ直ぐ見ている。
きっと彼女は、友瀬さんや杏香さんが、僕に自分のことを話したと悟っている。その上で、僕に心を開いてくれようとしているんだ。
僕は一つ、提案をした。
「お茶を持って、話は体育館でしませんか?」


 空はうっすらと藍になって、細い月が登ってきた。
「うわーっ。当たり前だけど、ちゃんと体育館だー。」
曽田さんは抱えてきた麦茶のボトルと、グラスを壇上に置いて鉄の重い扉を少しずつ開けて回った。
むっとしていた空間に風が通っていく。
「ここに来た事なかったんですか?」
「うん。今日、今が初めて。体育館、いい思い出ないしね。」
それは申し訳ないと言うと、あんたそれ絶対言うと思った。とまたニカッと笑う。
「電気付けると虫が寄ってきちゃうかな?」
曽田さんの問う声が少し響く。
「付けなくても、中庭側の照明でまだしばらく手元は見えるからこのままで大丈夫ですよ。」
答えた僕の声も、同じく少し響いた。

「なんで体育館なの?」
ここに来るまでの道中、曽田さんに聞かれた。
「杏香さんに、体育館にピアノがあると聞いたので。」
「ピアノ、弾くの?」
「弾きたいな、と思って。」
「なんでも弾ける?」
「なんでも、は、ちょっと…」
「じゃあ、今、今になんかぴったりの曲、弾いてよ」
 体育館自体には埃っぽさを予想以上に感じなかったのだけれど、杏香さんが調律したのがずいぶん前と言っていたように、ピアノには人に触れられた形跡がなかった。薄く埃の積もったカバーをめくると、月日の積み重ねを物語る艶感のアップライトピアノが現れた。
蓋をあげて、臙脂色のキーカバーを四つに畳み、軽く鍵盤に触れてみる。
「…ソ〜♪」
壇上でグラスに麦茶を注ぎながら、曽田さんが音を真似た。
「絶対音感ですか?」
「え?本当にソだったの?まぐれ〜。適当に言っただけだよ。」
曽田さんは、またニカッと笑って、朝したように舌をちょっと出す。
僕は考えていた。 今に、なんかぴったりの曲か…。
まず、華やかな気分ではない。どちらかというとすごく落ち着いている。 そして、長い曲に浸りたい気分でもなかった。
あ!その曲知ってるよ!と彼女に言わせた方が、少しでも話題作りにはなるのだろうが、僕の頭に流れて来るのはどうしてもこの曲だった。


    曲は静かに始まった。
少し不穏な和音から始まって、曲の中盤で少し安心できる気持ちになるが、次第に情熱的になり、おそらくメインテーマである主のメロディーが、まるで映画のサウンドトラックのように壮大に続く。
とてもすぐに終わってしまう短い曲。
なんとも言えない、哀しみが心を癒すような曲。

深川 治は、この、ポンセの間奏曲を、淡々と、淡々と3分間弾き続けた。
自分と裕の昼間のやり取りを見られてたんじゃないかと思うほど、リクエスト通り、今にぴったりの選曲だった。
最後の音が反響から消えて、私は飲んでいたグラスを置いて拍手をする。
「すごいじゃん、ちゃんと弾けるんだ。」
彼は、照れて頭をかきながら、「みたいですね」と、噛み合わない返事をした。
「なんて曲なの?」
「マヌエル・ポンセという、メキシコの作曲家が書いた、間奏曲のうちの一つです。」
「間奏曲、っていうのが題名?」
「まぁ、そうですね。作品名というか、題名というか」
「…夜の始まり、とか、そういう名前ないんだ。」
「そうですね、クラシックには練習曲とか、夜想曲、輪舞曲、みたいに何用に作られたのかを記した名前に作品番号が振られているものが多くあります。超絶技巧練習曲なんていうのもありますよ。」
なんだか嬉しそうに話している。
この人、ピアノが好きなのかな。弾くの、上手かったし。
「夜の始まり、っていうのは、今、曽田さんがこの曲を聞いてつけた題名ですか?」
私はハッとした。
そこは、深くつっこまないでほしい。恥ずかしい。
「いいですね。静かに夜が始まって、眠れない時間にああでもないこうでもないっていろいろ考えて、あっという間に静かに朝が始まってしまう。そんな夜の気持ちに似てる気がします。」
私は再びハッとした。
なんで考えてること分かった?
なんで今の私の不穏に混ざり合ってる感情がわかった?
…きっも。天才的にきもい。
「曽田さん、僕もお茶をいただいてもいいですか?」
奴はピアノの椅子から立ってこちらに歩いて来る。
若干猫背のなで肩。
朝からずっと思ってるけど常にダルそう。
なんか、地面に対して申し訳なく思ってそうな歩き方をする。
私はなんかこの感覚を知っていた。
何かに似てるなぁって思っていたけど、わかった。
「あんたさ。教室の隅の席で、メガネかけて、ぼーっと外ばっか眺めてるようなそんな学生じゃなかった?」
そう。昔、私のクラスにいた、全然存在感のない、地味な奴に感じが似ていた。一生、苗字で呼んでくるような。
「曽田さん、って苗字で呼んでくる奴、そういうイメージ。覇気がない。嫌い。」

言った後で、あんたは似てるって言っただけで、嫌いに含まれてないぞ!って付け足したくなったけど、なんか、それ言うのは悔しくて声にならなかった。


「わからないんですよ。」

完全に日が落ちた体育館に声が響いた。風が止んで、より大きく響いたように聞こえた。

「は?わからないって何?」

「言葉の通り、わからないんです。僕は、学生の頃のことを何も覚えていない。」

こいつ、何を言っているんだ?と思った。
記憶喪失、なんて、実際目の当たりにしても簡単に思い付かなかった。

「学生の頃、というか、ここ五、六年の事しか僕は知りません。だから、ここに来ました。」

話が、始まるんだな。と思った。
話をしよう。と私が持ちかけた意図をちゃんと解釈してくれたんだな。と安心した。
君の抱えてる物を見せて?
 そういう意図。
 聞こう。聞こうではないか。
私は、ちゃんと聞かなくちゃいけない気がしていた。
真っ直ぐ、向き合って、興味ないとか思わずに、この人の話を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?