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海の見える街 (13)


翌日、土曜日の朝。
来島者を迎えに来た三人は、降りて来た人の【人数】に絶句した。
治の言った”もうワンアクション”は意外にも早くやって来た。

「あれ?二人来る予定だったの?」
「え?治、二人になったの?」
「…。」
治は返事もできなかった。船から降りて来た内の一人を、よく知っていたから。
「裕、悪い。お客さんを頼む。」
駆け出した治を一瞬ポカンと見つめたが、残された二人は瞬時に状況を理解した。

治の妹がやって来たんだ。

「おはようございます。Shiroさんですか?」
船を降りて来たもう一人の小柄なお客さんに裕は声をかける。
見た目だけでは女性か男性か判別が付かなかった。
「…はい。よろしくお願いします。」
少し高めの女性に近い声だった。
「初めまして。連絡させていただいとりました、友瀬と申します。」
裕は丁寧に頭を下げて、隣で治を眺めている茜の背中を軽く叩く。
「あっ、曽田 茜です!よろしく!」
茜も急いで頭を下げた。
「えっと、しろちゃん…でいいかな?呼び方。」
「あ、はい。名前は、漢字で色の白と書きます。白で、大丈夫です。」
「わかった!白ちゃんって呼ぶね!」
何の示し合わせもなく、三人は同時に船着き場の二人に目をやる。
「ごめんね、あの子はハル。ちょっと、今日ご家族が会いに来た見たいで…。」
茜は裕の腕をグッと引く。
「裕くん、この子と先に杏香さんのところ行きなよ。」
耳元で小さく言った。
「茜さんは?」
「私、ハルに何も無いようにここに居る。」
裕には茜から、なんだかよくわからない対抗心のようなものを感じた。
あの時に似ている。茜が初めて突然島に来た時の、咲生の態度に。
落ち着け、というように茜の頭に手をやって裕は「わかった。」と答えた。
「何かあったらすぐ連絡して。杏香さんに引き合わせたら迎えに来る。」
裕は白を乗せて先に港を後にした。

茜は少し離れたところで、二人が手を取り合って話している様子や、船がそれを横目に出港して行く様子を見ていた。
心の奥深くがなんだかモヤモヤと重たかった。おもしろく、なかった。

「茜さん。」
自分で自分の深みにハマりかけたところで頭の上で治の声がした。
「ごめん、待っててくれたの?」
顔をあげると、そこには治とふんわりしたセミロングの緩いパーマを揺らして、この島の雰囲気に似合わない女性が静かに立っていた。
「妹の明菜です。」
治に言われて、明菜は上品に頭を下げる。
「兄がお世話になっております。」
さぞかし、育ちがよろしいのだろう。外見からそれが溢れ出ている。
曽田 茜です。こちらこそ、お兄さんにはいつもお世話になっております。
心の中ではちゃんと言えるのに口から出るのは子供っぽい、警戒を含んだような「どうも」だけで、一秒ずつ自分のことを嫌いになっていく。
「裕は、一回戻った?」
「うん。白ちゃんを杏香さんの所に降ろしたらまた来てくれるって。」
「あ、名前、言ってたんだ?」
「漢字で色の白って書いて、白さんって言うんだって。」
茜が言う前に答えたのは明菜だった。
「船の中で少しお話したんだ。施設に興味あって一回来てみますか?って誘っていただいたから来たんだ、って。」
「あぁ、そうなの。僕が案内役を仰せつかっていたんだけど、まさか明菜が一緒に降りてくるなんて思ってもなかったから。」
聞いていた話と違うな、と茜は思っていた。
自分の入る隙間が一ミリも無いと感じた。
そもそも自分が入る必要性が無いと言われればそれまでなのだが、自分から遠ざけておいて急に姿を現した明菜を、茜は勝手だと感じていた。
「明菜さんはどうしてここに?」
口に出してから物凄く意地の悪い聞き方をしてしまったなと自分でも思った。が、時すでに遅し。口は止まらなかった。
「もう、一生ハルの前に現れる気は無かったのでは?」
「茜さん!」
明菜は微笑んだまま、治を静止する。
「はい。そのつもりでした。」
「じゃあ、」
どうして。
「私、結婚することになりまして。兄に、どうしてもそれを直接伝えたくて。」
今、初めて理由を明かしたようだ。治の目にも驚きが揺らいでいる。
「それを伝える為には、真実を、きちんと伝えなくてはならないと思ったのでここに会いにきました。」
「明菜、それってまさか…」
治の話を聞いていたからか、言葉の続きは茜にも容易に想像がついた。
「そう。私、亮ちゃんのお嫁さんになるの。まだ、何年も先の話になるんだけどね。」
彼女は、自分を、自分の家族を苦しめてきた相手と幸せになろうっていうの?
治が、今までどんな気持ちで…
茜の口がまた次の矢を放つ前に、遠くで車のクラクションが聞こえた。
裕の迎えが来た。
「遅なってすまんなぁ。」
裕は降りてくるなりすぐにこの場の空気を読んだのか、少し眉間に皺を寄せた。
「メッセージ送って下さったアカウントの管理をしていた、友瀬と申します。」
裕が右手を差し出すと、明菜の白く細い手が、両手でそれを受ける。
「突然押しかけまして申し訳ありません。兄がいつもお世話になっております。妹の明菜です。」
茜はニコニコ笑いかける裕にも苛立ちを隠せない。
「裕、悪いな、往復させちゃって。白さんのことも。」
「いや、何も問題ない。むしろせっかく来て下さったのに、もてなすもんが何もない上に、寒い中待たせてしもて。」
「お客様の来られる日に私が勝手をしましたから、どうかお気になさらず。」
こういう社交辞令ができないから、いつまで経っても自分は子供だと言われるんだと心では分かっていても、茜はそれにどうしても従うことができないでいた。
「ご存知かもしれませんが、ここは一日に二便しか船が着きません。今日は土曜で、夕方に届けてもらうもんもないので、本土の港務所に船を出してもらうように言うときます。夕方五時ごろでもええですか?」
話しながら携帯を取り出す裕に、明菜は「その事なんですが、」と切り出す。
「行きの船の中で、今日はもう船が出ないと乗務員さんの方に伺いまして。勝手ながらお断りしたんです。」
「は?」
咄嗟に茜の口から出た言葉に、裕がキッとした目つきで反応した。
「勝手を重ねて申し訳ありませんが、一晩お世話になってもよろしいでしょうか。」
「もちろん!治ともいっぱい話してください。部屋はいくつも空いとりますけん!」
茜が無駄口を差し込まないよう、裕は食い気味に、意識的に大きな声で答えた。
「急にごめんね、二人とも。」
ハルがそんな事言わなくていい!と言おうとした茜の口を裕が素早く塞ぐ。
「茜さん、黙っとき。」
耳元で聞く裕の低くて圧のある声に、茜はそれ以上何も言うことができなかった。

「治、とりあえず白さんの事は俺と杏香さんに任せて、明菜さんとゆっくり話し?」
裕は治と明菜を潮風で降ろし、茜を連れたまままた車に乗り込んでいく。
「飯、テーブルの上な。俺、家で茜さんと適当に食うけん、明菜さんと食うて。白さんは杏香さんとこで降ろして、事情説明してあるけん。」
「悪い。ありがとう、裕。」
一度背を向けて歩き始めた裕が振り返る。
進んだ分を戻って来て、二人の前で静かに頭を下げた。
「茜さんが…すみません。失礼なことを言うて。」
やり取りを見ていなかったはずの裕が謝罪して来たことに明菜は驚いたが、ゆっくりと丁寧に言葉を選んで答えた。
「いいえ。彼女の気持ちが私にはよくわかります。悪いのは彼女に心の準備をさせなかった私です。」
裕と治は顔を見合わせた。
「彼女にお伝えください。私は、貴女の大切なものを何も侵したり、奪ったりはしませんから。今日だけお許しください、と。」
裕はぽかんと明菜を見ていた。そして続ける。
「さすが、治の妹さんだ。よう似とる。」
何もないとこですが、どうぞごゆっくり。と、裕は車に戻っていった。
「さて、何から話そっかな。」
大きく伸びをして空を仰ぐ明菜に治も被せる。
「俺も、お前に何から話そうかな。答え合わせ、してくれよ。」
年の瀬がにじり寄るような季節のくせ、妙に暖かい一日が幕を開けた。



運転席に戻って来るなり、裕は自分を叱りつけると思っていた。
けれど、裕の口から出たのは「茜さん、朝ごはん、何食べる?」だった。
「怒られると思ってた。」
茜は口を尖らせる。
「自覚あるなら、なんで自分で謝らないの。」
だって、が不意に口から溢れそうになって、茜は慌てて飲み込んだ。
「明菜さんから茜さんに伝言。」
「…伝言?」
「私は、あなたの大切なものを侵したり、奪ったりはしないから、今日だけ許してほしい。って。」
何だそりゃ。と茜は思う。
「如何にも、治と兄妹って感じだよな。」
「なんか、全部わかったような事言われて気に食わない。」
「あぁ、そう?俺はすごい事だと思うけどなぁ。」
裕が遠い目で見えない咲生を見ているような感じがして、茜の心はまた一段と重くなる。
「茜さんが何か言うたな?って空気読んだだけで、茜さんの事分かれた気になって嬉しなっとった自分が恥ずかしいわ。」
「え?」
「俺、茜さんが思うとるよりも、多分もっと茜さんの事考えとるよ?」
車を自宅の庭に停め、裕は茜の頬をとる。
「わかった事は言えんけど、でもその分考えとるよ。もっと分かろうと思うとる。茜さんは?」
茜は思った。
自分は裕に見放されないようにただ走り続けることだけで精一杯で、裕のあれこれを考えられる余裕なんて持っていないと。
「腹減ったな。飯食お。」
まるで自分でそれを理解したことだけで偉いぞ、と褒めてくれるかのように裕は茜の頭を撫でた。
「ほんで、後で一緒に物件見よか。」
「物件?」
「新しい家。島を出たら、一緒に暮らそう。」
島を出たら…。
茜の体内に凝縮された不安が一気に駆け巡る。
「もちろん、無理にとは言わんけど、俺は一緒に暮らしたいと思うとるよ。」

例えば、相手がハルだったとして。
多分、自分は何の不安も抱えずに生きていけるだろう。不安を抱える前に、不安の素になりそうな物をハルは全て取り除く。自分もハルが考えてやってくれた事を何も疑わずに受け入れるだろう。自分の前にはいつも、もうすでに出来上がった物だけを置いて、与えてくれるだろう。

それは果たして、生きていると言えるのだろうか。

頭が思考の渦に呑まれ始める。
不意に裕の香りが濃くなって、口元に暖かい唇が触れた。
裕は、何も無かったかのような顔をしている。
「私、生きたい。」
「うん。」
「誰とも比べない私を。」
「うん。」
少しの沈黙の後に、裕は静かに言う。
「できるよ。だって、ここにおるんやけん。」
茜が振り向くと、そこには強い眼差しがあった。
「俺がおるんやけん、できる。茜さんは一人やない。」
一人じゃない。茜にとってそれはじんわりと染み込む言葉だった。
いつだって欲しいものだった。
「…お風呂とトイレは、別じゃないとやだよ。」
裕は満面の笑みでくしゃくしゃと茜の頭をまた撫でる。
「その前に、朝飯何食いたいか考えろって。」
茜もつられて笑う。
二人に染み付いているあの笑顔ではなくて。
「ツナと海苔のパスタ。」
「朝から⁈」
「お腹空いたもん。」
「そやね。じゃ、そうしよう。」

車を降りると、ピアノの音が聞こえてきた。



キッチンへ向かうと、卵焼きと味噌汁、茜さんが焼き芋にしないまま置いてあった、杏香さんの家の畑で採れたさつま芋で炊いたご飯と鯖の塩焼きが準備されていた。
「豪華な朝ごはんだね。毎日こんな豪華なの?」
「そうだよ。朝七時に僕が【調子の良い鍛冶屋】を弾いてみんなを起こして、裕と茜さん、そしてここを管理している杏香さんと四人で朝食を取るんだ。」
明菜は、僕が初めてここにきた時のように、窓から外の景色を眺めている。
「お兄ちゃん、ピアノ、今でも弾いてるんだね。」
「何で弾けるのか、まだわからないままだけどな。時折、無性に弾きたくなるんだ。」
明菜はそっか、と笑った。
「少しは何か、思い出せた?」
「あの日の事は大方ね。でも、ここに来てからだ。おまえがくれたあのメモを見ても、しばらくは何も分からなかったよ。」
明菜はまた、そっかと笑う。僕に促されて、いつも裕が座っている僕の向かいの席に座った。
「まずは食べよう。終わったら、体育館に行こう。」
「体育館?」
「少し寒いけど。アイコンにしてるくらいだから、おまえも弾くんだろ?ピアノ。」
明菜は少し寂しい目をして僕を見た。
僕はまだ大事なことを思い出せていないらしい。
「そうだね。じゃあ、インヴェンションでも弾こうか。」
「インヴェンション?バッハの?」
「そうだよ。一番ね。右手を弾くのは私だよ。」

右手を弾くのは私だよ。

その言葉が僕の頭の中に響く。
聞いたことがある。この言葉を、明菜の声で。

「いただきます!」
明菜が元気よく合掌し、早速卵焼きを一つ頬張った。
明菜は僕に何か、ヒントを出しているんだな。記憶を刺激するきっかけを僕に投げているような気がする。
「一つ、先に聞いても良いかな。」
「ん?なに?」
僕も卵焼きを頬張ったまま答える。裕の焼く卵焼きは少し甘い。お祖母さんの作り方に倣っているのだという。
「茜さん?あの人は、お兄ちゃんの彼女?」
茜さんがあんな態度をとったから、勘違いされても仕方ないかと、僕は思った。
「いいや。あの子は裕の彼女だよ。もうじき、二人一緒に島を出て行く。」
茜さんとの複雑さを説明しようとして息を吸ったところで、先に明菜が話し始めた。
「佑香ちゃんに、ちょっと似てた。」
「え?」
「あの、全身に棘を生やしたみたいな威嚇の仕方とか。」
こいつはその威嚇を受けてた方だから、僕よりも敏感にそれを感じるのか。
「あの子、お兄ちゃんのこと、たぶん好きだよ?…気付いてる?」
「気付いてるよ。僕はそんなに馬鹿じゃないぞ。」
二人で味噌汁をすする音を響かす。

リビングで。
玄関から母が「行ってきまーす」と言う。
僕らの隣で弁当を鞄に詰めながら「午後からは雨だぞ。傘持って行けよ」と父が言う。
あの頃の景色が、白黒で蘇ってくる。

「馬鹿じゃん。」
明菜の声で僕の意識は現実に戻った。
「なんだって?」
「だから、馬鹿じゃないぞって言ってるけど、お兄ちゃんは馬鹿だって言ってるの。」
「なぜ?」
「なぜ⁈他人の彼女が、自分の事を好きな気持ちだだ漏らしてるなんて、お兄ちゃんがきちんと対処してあげていないからでしょう?」
したさ。しかも何度もだ。
「自分の意見だけで押し返す事は、対処とは言わないよ?」
僕はハッとした。
「私に言われたら、意味がわかるでしょう?」
佑香の事を好きだから、とはっきり告げられる事もなく、長きに渡って亮司に自分のきもちを押し返され続けていたこいつにとって、
茜さんの姿が鏡のように写ったのかもしれない。
「僕には、茜さんが取り戻したいものを取り返してやることができないから。」
「なんでお兄ちゃんが取り返す必要があるの?」
なぜ?…それは考えたことなかった。
「そんなに何でもしてあげたら、あの子は何もできなくなってしまうよ?佑香ちゃんみたいに。」
明菜の言葉、一つ一つが僕を突き刺していく。
「断ったんだよ、ちゃんと。」
「違う。それは多分お兄ちゃんが逃げただけ。」
逃げたというワードが僕のコアを刺した。
「断ったのは正解だと思う。お兄ちゃんは何もしない方がいいし、あの子が生きる邪魔をしたらダメ。」
飯の味がどんどん分からなくなってきた。
「もし叶うなら、彼女と後で話をさせてくれないかな?」
もうすっかり食べ終えてしまっている明菜に対して、まだちびちび味噌汁を啜る僕は、ぼうっとした頭で反射的に返事をする。
「何も変わってないんだね、お兄ちゃん。複雑だけど、なんだか少し安心してしまう私もいるわ。」
優しい言葉に見せかけて、思い切り僕に対しての皮肉の色をした言葉は僕の頭を打って、目の前にバラバラと散らばって落ちるようだった。
「お皿洗うから、早く食べちゃって。」
その言葉は、母の口癖みたいなものだった。
「おまえ、母さんみたいなこと言うなよ。」
「私も母さんの子だもの。」
しばらく見ない間に、妹という存在がすっかりと女性になってしまった。
あどけなく、何をするにも目が離せなかったような子供だったのに。
それはそれだけ、自分も周りから見て生きた年月を重ねたということになる。
「…僕は、体良く逃げ続けてきたんだな。」
流しで皿を洗う明菜の背に投げかけると、その背は答える。

「そう。止まっているのはお兄ちゃんだけ。そんなお兄ちゃんが狡くて憎いから、私が全部、思い出させてあげに来たの。」

明菜に会って、いい事ばかりが起こるとは初めから思っていなかった。
突然現れたので、なんの覚悟も出来ていないけれど、僕は早急にそれらの準備が必要だと思った。

「体育館に行きましょ?インヴェンションを弾いて、昔を思い出して?」

思い出しているさ。色は付かないけれど、並んで座る椅子、交錯するフレーズを何度も何度も入れ替わって、
あの頃弾き続けていたのは…

「あ…。」
冷え切った体育館で、明菜と並んでインヴェンションを弾きながら、僕は思い出して手が止まった。
僕は、ピアノを習っていたわけではなかった。
習っていたのは明菜で、僕は明菜の練習を横で見ていただけだった。

音符、休符、音楽記号、明菜のレッスンノートを見て僕は覚えた。曲の全体像は、母がよくかけていた、クラシックのCDで覚えた。
明菜の目標であったジュニアコンクールの入賞は、彼女なりの亮司へのアピールでもあった。しかしそれに気づいていないのを良い事に、お兄さんも弾けるから…と、急遽欠員した人の代打で出場したコンクールで、あろう事か僕が賞を取ってしまったのだ。あの時弾いたのは確か…

聞き慣れたメロディーが耳に届く。
夜空に輝く星を、一つずつ結んで絵を描いていくような、明るくて細く、けれども強い旋律。
フレデリック・ショパン ノクターン第二番

明菜は、流れるような運指で真昼の空に星の絵画を描いていく。
その音には、どこか哀しみもある。
こいつの思い描く世界の中で、僕はいつも隣で邪魔ばかりしていた、のか。

「私、音大を出たのよ。」
ノクターンを弾き終えると、明菜は徐に言った。
「打ち込めることが欲しかったの。亮ちゃんを待っている間。」
「おまえ、あの時から亮司を待つって決めていたのか?」
「もちろん。お兄ちゃんがあぁなってしまった以上、亮ちゃんを待っててあげられて、亮ちゃんを肯定できる人は、私しかいないから。」
言葉が少しピリッとしているのは、僕に対しての皮肉だろう。
「あの時のことを少し思い出した。亮司が佑香を刺したのは、僕の為だったんじゃないかって。」
「そう、思い出したんだね。亮ちゃんが聞いたらきっと喜ぶよ。俺は一生、治に恨まれるんだろうなって、ずっと肩を落として生きているから。」
僕は言葉を失くす。
「全ての元凶は佑香ちゃんの我儘だった。でもそれを促進していたのは、お兄ちゃんの身勝手だった。」
「身勝手…。」
「そう、身勝手。身勝手な依存。」
身勝手な、依存。
まさしく、現状を指している様であった。
「さっきの、茜さんの話に戻すけれど、あの子がいつまでも、自分の事を好きでいると本気で思っている?」
心臓をグッと握り潰されるようだった。
「まさか、うまくいかなくなったら戻って来ればいいなんて、思っていないよね?」
息ができない程に、喉も押し潰されている感覚だった。
「思い上がらないで?彼女をバカにしているの?」
「まさかそんなわけ!」
「あぁ、本当に思ってたんだ。失礼な人。」
僕は明菜の言葉に全体的に押さえ込まれる。
「あの子が選んで生きようとしている道を邪魔しないで。お兄ちゃんは、また佑香ちゃんみたいな人を作り上げるつもりなの⁈」
言葉を刺す間も無く明菜は続ける。
「自分だけ何とも戦わないところで良い事をした気になって逃げているだけで、それが生き甲斐だなんて言うなら、私、許さないわよ。」
今まで、どこかで全て見ていたように明菜は言う。
完全に杏香さんの目とは精度が違った。
「私は亮ちゃんの事が心から好きだよ。だけどね、私だって人間だから、綺麗な心だけを持って生きてるわけじゃない。周りの反対を押し切って亮ちゃんとの結婚をどうしても決めたのは、義理の兄弟として亮ちゃんをお兄ちゃんのそばに置く事で、絶対に一生、罪悪感から逃してやらないようにするため。音大に行ったのは、あの日の私の屈辱を晴らすためも含まれてるし、あの日まだなんの記憶も戻っていないお兄ちゃんにあのメモを渡したのだって、一人だけ忘れたなんて言って楽させないように全部思い出させてやろうと思ったからなんだから!」
明菜は僕に息を吸う暇さえ与えない。
「あんたの無駄なお人好しと、的外れな勘違いで、全部壊れたの!!わかる⁈」
何年間、こいつはこの気持ちを震える拳の中で隠し続けてきたんだろうか。
「なんとか言いなさいよ。」
言えと言われても言える言葉が見当たらない。
僕には感謝する資格も、謝罪する資格も、なんなら息をする資格も無いように思えた。
「勘違いしないでね。私は、これをきっかけにこれからもお兄ちゃんを突っぱねて生きていくつもりは無いよ。必ず、亮ちゃんに会わせて謝らせるし。許せない事もあるけどこれからも昔みたいに振る舞うつもり。それが自分で決めた、私の生き方。そこに亮ちゃんは関係ないの。」
強い意志でそこに立つ明菜は、昨晩僕が考えていた自分の、足元を勢いよく蹴り崩した。
「自分は何かしてあげている、なんて恩着せがましい気持ちで、人を助けているような気になって、自分で立とうとしている人の足を引っ張らないで。

思わせぶり。
ただひたすらに起伏のない日々を、殺されず、生かされ続けるのが、あなたの罰よ。」

最後の言葉で、紐が解けた感じがした。
覚えている。
あれは、佑香があの日、僕に言った言葉だ。
正確には、あんた達。
僕と亮司に対しての言葉。
自分のした事を思い知れ。そういう意味だったんだろう。
僕が思っていた通り、あの時本当ならば明菜の命が佑香の手によって奪われ、僕達は本当の正解が分からないままの世界で生かされる事で、自分という生き物と対峙し、懺悔を続ける日々を生きるはずだった。

「私は、刃から庇ってくれたお兄ちゃんに命を救われている。そうして生きられたお陰で、自分としてここに生きている。お兄ちゃんがただ嫌いなだけなら、探してまで会いに来たりしない。もう、同じ間違いをしないで欲しいと願っているから。お兄ちゃんにも、幸せを感じて生きて欲しいから会いに来たんだよ。」
僕の手を取り、明菜は繰り返す。
あなたの幸せを、と。

僕の幸せ。
それは、やっぱり、
目の前の人が、笑って生きていく世界だ。

「今の今まで、僕の考えは勘違いだった。浅はかだった。思い上がっていたし、思わせぶりだった。逃げてもいた。僕には能がないかもしれない。適性はないのかもしれない。それでも、今、核心に変った。
僕はここで、笑顔を失った人の心に、それを取り戻すための手助けをしたい。
生きたいと、思えるようにしたい。
行き先を失くした人の目印でありたい。そうなる事で、僕も生きてて良いんだと、信じたい。」

ただ、その肯定欲しさに人を選んだりなんてせずに、自分が自分として生きていく事で、誰かの灯りになれるように。

「生きてて良いという肯定は、私がお兄ちゃんに会う事でずっと伝えていく。お兄ちゃんに対しての私の感謝。私みたいに、あなたのまっすぐな気持ちに救われる人がたくさん現れますように。」

僕は、ピアノの前に座る。
明菜の、亮司の、裕と茜さんの、杏香さんの、これから出逢っていく人達の、そして、僕自身の、
素晴らしく尊い未来を祈りに込めて、僕は体育館の窓を開けて、皆にも届くように音を奏でた。
僕の背中を優しく抱いて、
明菜は、僕のバッハを聴いていた。

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