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『ヨハネの黙示録』補足:手紙としての黙示録~当時の7つの教会、今の世界の教会

黙示録が手紙であるという点のざっくり要点は、すでに以下で:
『ヨハネの黙示録』現時点での私の訴求ポイント:黙示録という書物について(https://note.com/lion_lamb/n/naba5f90c0e26

また、黙示録の2-3章についての総括も、簡単にではありますが、以下に:
『ヨハネの黙示録』現時点での私の訴求ポイント:構成と内容(1)(https://note.com/lion_lamb/n/n48afd59f576f

重複するかもしれませんが、以下、改めて。
なお、宛先である7つの教会についての説明は、様々な注解書に記されていて、また、ネットでも拾えるので、ここでは割愛します。


黙示録は、預言の言葉を織り交ぜた黙示の文書であると同時に、手紙として、実際に小アジアにあった7つの教会に宛てられた文書(1:4, 11; 2-3章; 22:16)。新約聖書の他の手紙に見られるように、挨拶には祈り(1:4-6)、結びには祝祷(22:21)が記されている。そして、受け取った者たちが、朗読して、聞いて守る(1:3; 22:7, 16-19)ために記されたもの。

【余談】当時の手紙の長さは、今でいう数ページが一般的だったらしいので、22章にも渡る黙示録は特殊だったろう。(パウロの手紙もそうだけど。)まぁ、ジャンルなんて、後世の私たちが、残存する文書を類型化して当てはめるようなものなので、例外的なものは、他にもあったかもしれない。言えることは、その文書の形式が一般的なものかどうか、またそうであれば、そこから想定される共有体験、期待のようなもの。(例えば、祈りや祝祷があることは、そう特別なことではない。ただし、そこで使用される文言が、他の一般的なものと違えば、留意は大切! とか。)

つまり、黙示録は、宛先である当時の小アジアの教会にとって意味をなし、朗読し、聞いて守ることのできる内容の記された文書(1:3)。後世の私たちが、将来について謎解きをするための文書ではない。より具体的には、2-3章の記述を通してうかがい知れる難しい状況において、教会/キリスト者がいかに信仰を保ち、戦いに勝利を得、ついには約束の賜物を得るかを記した文書である。そのメッセージを、同じ御霊を受ける今の教会もまた、受け継いでいる。ちょうど、正典に収められる他のパウロやヤコブ、ペテロ、ヨハネの手紙を、当時の歴史、文化社会的な状況/制約を踏まえつつも、今の私たちに語りかける文書として受けとめるように。

ただし、以下では、黙示録の手紙としての特異性を幾つか挙げたい。

  1.  新約聖書の他の手紙は、宛てられた教会、また人物の具体的な状況に即した助言、その前提となる神様についての考察(神学)を記す随筆、散文的なものがほとんど。黙示録は叙述的、絵画的で非常に特異・・・と、まぁ、黙示であり預言の文書でもあるから。

  2.  しかも、その手紙の典拠はイエス・キリストである(1:4-5, 10-19 ; 2-3章; 22:16)。この手紙を、実際に文書として書き記し、送ったたのは著者ヨハネ(1:4)。だが、ヨハネは示されたことを証ししたまでで(1:2)、あくまで代筆者的な役割に位置づけられる。(さらに言えば、イエスも証しする者として自らを開示している[1:5; 22:16]。つまり、究極的には神様に帰するものである。)この点も黙示の文書であるからと言えばそれまでだが、このイエス・キリスト(引いては神様)から宛てられた手紙という点は、特筆すべき! 

  3.  先に挙げた通り、黙示録の宛先は、小アジアの7つの教会である。しかし、この7つには、ある意味で、普遍性が見いだされる。宛てられた教会は7つだが(挙げられている順番は、当時、郵便配達が道に沿って巡る順番だとか)、小アジアには記された7つ以上の教会が散在していたと考えられる。(この点、未確認です >< が!そうだとすると、)つまり、完全数である7という数字に見合って挙げられた教会は、当時の小アジアの教会を代表する特徴的な教会であり、他の教会もいずれか(ないし組み合わせたもの)にその特徴を見いだされると考えられる。この7つすべての教会に対して、「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」と言われ、すべてに告げるよう4章以下の黙示的な幻が記されている。従って、その幻には、普遍性をもったメッセージが込められている。それは、時代を超えて、言語、また文化的背景を踏まえつつも、世々すべての教会にも語られるものとして受けとめられる。

  4.  さらに、黙示録が記されたのは、エルサレム神殿崩壊後、紀元後70年代以降、ローマ帝国が地中海世界、中東地域を超えて覇権を確立した1世紀頃とされる。小アジアでは、迫害の質や程度は様々であっても、ローマの帝国的支配が、社会のありとあらゆる領域に及ぶ中での文書となる。そのような難しい状況で、イエス・キリストを直接知る使徒たちが世を去り、教会に残されたのは第2、第3世代のキリスト者。イエス・キリストの御霊、使徒たちに働いた聖霊が教会に働いていたとはいえ、鮮明なイエス様の記憶は色褪せ、新鮮な驚き、感動も失われつつあったことは想像に難くない。黙示録は、そのような生前のイエス様との原体験から隔たりのある教会に宛てて、知的理解や道徳倫理を超え、あらゆる感覚を奮い立たせ、想像力を喚起すべく幻を記した手紙でもある。(さらには、単に個々人が記された文字を追うのではなく、共同体の中で朗読され、礼拝を導くために送られた手紙でもある。)
      現代の私たちは、それからさらに二千年もの時を経ており、文化的な隔たりも大きい。よって、字義を超えた翻訳作業は必要だろう。また、日々鮮明な映像を受容している私たちは、ともすれば、言葉からイメージを構築する力を退化させているかもしれない。それでも、同じ御霊を受け継ぐ私たちが、黙示録で提示される幻を、預言のメッセージとともに受けとめ、その力をもって同じように礼拝に臨むなら、黙示録に込められた驚きと感動を追体験できるのではないだろうか。

黙示録が手紙として、つまり、ローマ帝国の支配下にあった小アジアの教会にとって意味のある文書であったこと、かつ、そのメッセージの普遍性を持つものであることを踏まえ、黙示録の幻を通して語られる預言に耳を傾けることができたら・・・ と思う。(それを聞いて従えるかというと、今の私はどうだろうか・・・ はともかくとして。)

≪追加メモ≫
*2022/6/7 画像を追加(こちら↓からです。著作権に問題があれば、お知らせください!)
https://steemit.com/christian/@froyoempire/maps-of-the-seven-churches-of-revelation

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