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修行か?トレーニングか?の話。(もったいぶらずに無料です。)

どうも、リキッドです。
修行とトレーニングって違うと思うんです。
どちらも、自分を高めること
また、何かしらの目的をもって行うことですが
その心がまえというか、
目指す距離感が違うなぁと感じるんですね。

例えば、花嫁修業という言葉がありますが
これを花嫁トレーニングという言葉と置き換えると
何か違和感を感じますね。っというか
花嫁修業という言葉自体が死語になってしまいました。
今の若い女の人って花嫁修業するのかなぁ?

かぐや姫の「妹よ」って歌で
「みそ汁の作り方書いていけぇ~」という歌詞があったと思います。
この歌詞って、
花嫁修業した妹がお母さんから教えてもらったお味噌汁の作り方
という意味を含んでいると思うんですよね。
つまり、おふくろの味である味噌汁。
この作り方を
嫁に行く前に書いていけというわけです。お兄ちゃんは。。。
だからこそ、じぃーんとくるわけですね!

これがですね、例えば、
もし花嫁トレーニングだったらどんな味噌汁でしょう?
クックパットで見てレシピを覚えた味噌汁。
僕がイメージする花嫁トレーニングで覚えた味噌汁の味はこんな感じです。
なんか、
「嫁に行く前に書いていけ!」感
が薄れることないですか?
お兄ちゃんからしたら
せめてあのみそ汁の作り方ぐらいは書いて出て行ってくれ!
とお願いしているわけです。
肉じゃがでも、味噌サバでも、ビーフストロガノフでもなく
「あのみそ汁。」
おそらく、花嫁修業した妹だったら
すごくきれいな字で、テーブルの上に作り方を書いてあげると思うんです。
そして最後に
「体に気を付けてね。ありがとう、お兄ちゃん。」
みたいなメッセージと一緒にね。
これが、花嫁トレーニングをした妹だったらどうでしょう?
僕のイメージでは

LINEで「ググれ。」

これで終わり。ポヨン。
「おい、妹よ。。。」って感じですね。

例えば筋トレってどうでしょう?筋力トレーニング。
これを筋力修行というとこれまた、違和感があると思うんです。
筋力トレーニングは皆さんもイメージしやすいと思います。
例えば、ダンベルでアームカールを5キロの重さで10回を3セットするぞ!のように
自分がやっていることを数字で可視化できると思うんです。
これに付け加えて、ジムにはトレーナーがいます。
このトレーナーが筋トレのメニューを組んでくれたり
また、時には励ましたりしてくれるんです。
これが筋力修行ならどうでしょう?
まず、筋力の修行を行う場所がジムではなく山です。
そして、筋肉に負荷をかけるのがダンベルではなく岩です。
そして、修行を見てくれるのがトレーナーではなく仙人です。
仙人にはひげが生えています。
白いひげです。
あくまでイメージですけどね。

僕は今ダイエットをしています。
これは自分で考案して試している
アドラー的ダイエットというものです。
それで思ったのですが
ダイエットって修行だと思いますか?
それともトレーニングだと思いますか?
僕は、ダイエットは修行だと思うんです。
というかそう思ってやっています。

まず、僕がダイエットをする目的ですが
QOLの向上というのはもちろんあります。
ですが、何のためにQOLを向上させるのか?
という部分が違うんですね。
おそらく、ダイエットをトレーニングでとらえると
3か月後に10キロ体重を落として腹筋を6個に割る。
という感じになると思うんですね。
僕はダイエットを修行ととらえているので
自分のQOLを向上させることで、
健康と幸せをさらに増やし
そのことで家族はもちろんのこと
僕と関わる他者に対してより長い期間、貢献していくことができる。
こんな風に思っています。

これって数字で可視化できないんですね。

花嫁修業の例にしてもそうです。
例えば、みそ汁の作り方一つにしても
メモ用紙にレシピを書いてもらえばそれで終わる話なのに
台所にお母さんと一緒に立ち
何をどれぐらい入れるのか?はもちろんのこと
お母さんの立ち姿や動き方また、味噌汁に対する愛情
こういった可視化できないものを自分の中に取り込んでいく作業。

これを花嫁修業というんです。

レシピだけではなく息づかいを感じ取っていくこと。

僕はこれってすごく大切なことだと思っています。

最近は修行という言葉は本当に減ってきています。
それは言い換えれば可視化できるものしか信じないようになってきた。
こう言いかえられるかもしれません。
数字を使って可視化するこれってもう少し考えてみると
目標に向かって最短距離を通ることだとも思います。

要するに無駄な時間はないと。

無駄な時間はないというか

時間を無駄にするのが嫌なんでしょう。たぶん。
寄り道する時間がもったいないと。
そういう意味で修業はとても非効率的だと思います。
修行には終わりがあるようでないですから。
それは、自分がもういいと思えば終わりですし
まだ駄目だと思えばまだ続くわけですね。

修行には長い時間がかかります。
それは最終的に自分という

一番近いようで、一番遠い存在のもの

と向き合う作業になると思うからです。

僕自身はいったい何をどういう風に感じ取れる人間なのか?

こういうことを自問自答しながら吟味していく。
この作業には正解や不正解はありません。

解釈があるだけです。

そういう意味ではいま、

僕が書いている

noteも修行

だと僕は思っています。
ゆっくり、時間をかけて
自分の内面を探っていき、呼吸し、指を動かしています。
この作業って僕にとってすごく心地いんです。
目標に向かって効率よく進んでいくことも大切です。
しかし、時には無駄の中からしか学べないものも確かにあるんです。
非効率的なものこそ実はもっと大切にしなければいけないのではないか?

非効率ってクリエイティブですね!

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