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#60 一年間遊べるぞ!!

#1コマでどれだけ語れるかチャレンジ

いつでも遊びに励め。
人生には締め切りがあるのだ。

野田知佑 カヌーイスト、作家

ワークライフバランスという言葉がある。

仕事と私生活のバランスを取り、より人間らしく素敵に暮らしちゃおうという意味で使われている。

この「働く」という行為は対価としての給与所得を得る以外にも、人生というゲームにおいて何かしらの「やる事がある」というカードを手に入れる事ができるため、この社会においても人気がある。とくに他にやる事が無い人にとってはそれは顕著かもしれない。

中には、働く事が何よりも楽しい。寝食も忘れて働いていたい。という、シアワセな人があなたの周りにもいるかもしれない。

だが言うまでもなく、ほとんどの人がこの「労働」の事を憎んでいる。

休日や余暇時間、つまり私生活の為に働いているのであり、働く事は人生における最優先事項ではない。という事は分かっているのだが、気がつけば人生の多くの時間は労働に費やされており、気がつけばあっという間に年齢を重ねて行ってしまう。

学生以外は、基本的にはほとんどの人が働いている。仮になんらかの事情があって働けない人たちも、何らかの方法や形で社会に参画する事を目指したり、目指さなかったりしている。人にはそういう意思がある。

程度や難易度の違いはあれ、働く事の出来る人は継続的に働いて、日々のほとんどの時間を労働に費やす。これは各会社や団体の労働環境にもよるが、つまるところは日本という国は、労働が義務となっているからでもある。

この辺の事を考えると何故か心情的に面白くない事この上ないが、敢えておさらいとして示そう。

義務という名がつく物には、労働の他には、教育と納税がある。そしてこの3つは綿密に関わっている。

労働を行うと給与収入があるが、その中からほぼ例外なく必ず納税をしなくてはならない。そして、義務としての教育を子供たちに施すのは、この納税された税金を使って学校を運営している。税金によって学校を出た人達は、社会に出て労働を行い、納税をする。そしてそれが、ぐるぐるぐるぐると回っている。

これは構造のほんの一部でしかないが、この連続的な回転が永久機関の様な形を取っている物が、国民の義務と社会を成り立たせるものである。

働くという行為を行い、国に納税をする事は社会に参画をする事であり、社会人というのはこの義務を果たしているかどうかを示すような部分もある。(もちろん、必ずしもではない。そうでなくてもきっとあなたは素晴らしい。)

つまり我々は大きな事情が無い場合は、生きている限り働いて、納税しなくてはならない。我々は社会を運営するために、労働して、納税する事を、継続していかなくてはならないのだ。

ここで、疑問に思う事がある。

我々はいつそのような社会を運営するような仕事に就いたのだろうか?いつ、我々はこの国を運営するために働きたいと思って、労働をやりだしのだろうか。これは自分の意志ではじめた事だっただろうか?

それとも学校を卒業したから?
年齢的に学生ではなくなったから?
はたまた、他のみんなが働きだしたから?

社会という仕組みを動かすためのパーツにならなくてはならない。
と決めた(決められた)のはいつなのだろうか。

だが、この疑問はもうすでに答えが出ている。
労働は義務なのだから。である。
敢えて言えば、生まれた時からだ。

働く事が義務化されているというのは、まるで使用用途が限定された何かの機械の部品のような気分でもある。よく就活生が言う言葉だ。

例え歯車の形をして生まれて来たとしても、自分はまるで貴重な宝石のように生きる。という事は実はあまり許されていない。というか、労働による収入が無い人が取れる選択肢は、限定的になる事を皆知っている。もちろん、その選択肢に自分が納得しているのであれば、別にそれでもいいのである。だが実際のところ、我々はその選択肢を取る勇気がないだけの人間であり、その分だけ社会の歯車に近いだけというだけである。

大体の人がこういうことは分かっていても、あまり言語化しないようにしている。なぜならば、悲しくなるからだ。

歯車になるという選択肢を取った我々は、歯車以外の暮らしをしようとする事は大きなリスクであり、そして大変に勇気を示さないとできやしない事である。ただそれでも、こうも思う。この葛藤の中で生きる事が、本当に自分の人生なのだろうか。来る日も来る日も仕事に追われているが、まぁ少なくとも自分は最低限でも国民の義務を果たしているんだから。と、その溜飲を下げられるのだろうか。

今年も早くも4月になろうとしている。時は恐ろしいほど加速を見せている。と言っても、これは加齢によるものが大きい。歳をとると思う。我々は、というか、私は、またはあなたは、何かを成し遂げているだろうか?何かを成しただろうか?それを胸を張って言えるだろうか?というか、それは労働の中から見出せるものなのだろうか?

では、一体どうやったら、労働しないで生きて行くことが出来るのだろう。一体どうやったら、歯車としてではなく人間として生きていけるのだろう。そもそも一体、人間らしく生きるとはなんだろう。

働くという事を考えた時に出てくる、この終わりのないモヤモヤを2人の先生が解決してくれた。ご覧いただきたい。

小学館てんとう虫コミックス ドラえもん第31巻「まんがのつづき」より

画像の人は、大人気漫画「Dr.ストップアバレちゃん」の作者、島山あらら先生その人である。

「少年キャベジン」、「少年ホリデー」、「少年らゆジャブン」、「少年チャポン」そして月刊誌の「てれびさん」に原稿を入れなくてはならない島山あらら先生は、忙しいことこの上ない。

大変な状況の中、一刻も早くどうにしかしてアバレちゃんの続きを読みたいのび太とドラえもんが、先生を文字通りカンヅメにして、その中の時間を加速する事で、連載している漫画の約一年分の原稿を全て1日で書かせた。

これによって島山あらら先生は、労働から自由になったのだ。
そして、のたまったのがこのセリフである。

「1年間遊べるぞ!!」

ここで考えるべき点が4つある。

1つ目は、島山あらら先生程の超人気漫画家であっても、労働をするのはとても大変であり、遊ぶのを我慢して我慢して、ようやっと労働をこなしていたという事実である。これはきっと全漫画家の共通の悩みでもあるのだろう。そして、我々にとっても同じである。

2つ目は、労働から自由になる為にしなくてはならないことは、これもまた労働である。という事だ。要は先んじて仕事をする事で、自分の時間を作り出す事になるという、当たり前と言えば当たり前の話である。

やらないと終わらないと言うのが、労働の本質であり、さらには仕事の対価は新しい仕事という言葉すらもある。島山あらら先生が本当に1年間の休暇があったのかは実はわからない。時間が空いたのであればうちの出版社でも連載を・・・なんて事もあり得る。

3つ目は、島山あらら先生が、ひみつ道具の力であるとはいえ、ものすごい作業量で1年分のノルマを達成しても、それでも確保できるのはたったの1年間だけ。というポイントだ。

人間には到底不可能な作業量をこなしても、稼げる自由な時間は1年間程度。この先ずっと自由とはならないのが、切ない所でもあり、リアリティーが含まれている。もしかしたら、ここにはF先生の1年くらいゆっくりしてみたいものだ。という願望だったのかも、と感じてしまう。

4つ目にして最後のポイントは、我々自身にも降りかかってくる。

「仮に1年間の自由があったとして、一体何をしたらいいのだろうか。」

という疑問である。

島山あらら先生が当時の鳥山明先生と同じであれば、多趣味だしお金もある。きっと趣味のモデルガンやプラモデル、バイクなどでいくらでも時間を潰せるかもしれない。こういう偉大な人たちに共通しているのは、やりたいことが沢山あるが時間はないという事だったりする。

では私は、そしてあなたは、どうだろうか。仕事以外の趣味をキチンと持っているだろうか?もしあるとして、それだけを1年間続ける事は出来る?時間だけあっても、お金はついてくる?我々は島山あらら先生ではないのだ。

これは私のやってしまいそうな選択肢であるが、もし仮に有り余る時間があれば、結局のところ働こうとしてしまうのではないだろうか。

なんらかの労働をしている事がエクキューズとなり、自分の本当にやりたい事、自分の本当になりたい人、そういった本質的なことから一旦、目を反らす事が出来るからである。

自分の内面にしか意識のベクトルが行かない時は、往々にして人間の精神は不安定になる。人間には社会性があるというのはこういうところからもわかる。だから気をそらす為にも、あれやこれやと走り回ってなんらかの労働を探してしまうのだ。労働を憎みながらも、労働を求めているという矛盾が同居しているのだ。

冒頭で、一体、何のために働くのか?というような事を言っていたが、つまるところは、人間にとって労働の中身はどうあれ、それによって生きている間の時間を潰すという事は、幸か不幸か非常に大きなファクターであるという事だ。願わくば、それは幸であれと強く思う。

そんな訳で、漫画の締め切りの様に人生の締め切りもやってくる。それは予感できる時もあれば、突然やってくるかもしれない。だからこそ、いつかやろうとか、歳を取って余裕が出来たらなどと思わずに、すぐやった方が良い。仕事そうだ。出来るだけすぐやった方が良い。寝かして置いていいのは、古酒、ウィスキー、そしてワインくらいの物だけだ。

そして少しでも時間を作って、それを自分や自分の大切な人の為に使った方が良い。それがほんの少しの時間だとしても、島山あらら先生の言葉を少し借りて、「これで遊べるぞ!」と口に出して言っていくべきだ。

そうじゃなくても、そういうマインドが大切なのだから。

そう。

どんな仕事も、やれば終わるし、その後は遊べる(遊ぶ)。

という事で、よし!このnoteも書き終わった「1年間遊べるぞ!!」

追悼。

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