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自分の言葉4〜親との和解、自分との和解〜

“神は、私たち人間が恵みの可視性、いわゆる奇跡を信じないとしても、それを実現なさる。その実現し給うことが神の恵みの現れなのであり、これまで確実に一つ一つ実現し給うて来たが故に、神は、私たち人間によって愛と呼ばれ、救いと呼ばれる。私たちには、そもそも奇跡とはいかなるものであるのかを前もって理解することが赦されていない。私たちは日々祈り、何かが実現することを求める。しかし、その願いが本当にその祈り通りには叶えられず、別な形で叶えられてきたということを私たちは知ってきたし、今後も知っていく。私たちは祈ることによって神に話しかけているに過ぎないが、神は私たちの祈りを聞くことを欲する。親が子供に話をしてほしいのと同じ心境だ。神は全てを知っていても、子ども自身に打ち明けてほしい。神は私たちの祈りを聞く。聞き続け、時が来た時に、祈りの奥底に込められた思いを実現させる。祈りの奥底に込められた思いとは何か。それは、愛である。神は愛以外実現しないお方である。私たちは神に多くの言葉を投げかける。罵倒や愚痴もある。しかし、その罵倒や愚痴が愛を求める裏返しの言葉であることは、神は当然知っている。神はいつも私たちに愛と向き合うことを望んでいる。私たちが条件付きではない大いなる愛と向き合うことそのものが救いと呼ばれるものなのである。“

親に心の内を話すことはなかなかできない。少なくとも私は親を信じたくても信じることができない心があるため、なかなか真実を話すことができない。

親が子の気持ちを知りたいのは分かる。神が私の気持ちを知りたいのも分かる。神なら話す前に既に知っているから、祈りという形で私たちは話すことができる。

しかし、実際は、神様ではない目の前にいる親に許されたいのだ。「辛かったな」と言ってほしいのだ。「気付けなくて悪かったな。」と言って抱きしめてほしいのだ。それが本心。

私が借金があることを父親に言える日は来るのだろうか。父は言ってほしいかもしれない。でも、怖すぎて言えない。私のせいでまた家族がめちゃくちゃになることを恐れているし、何よりも私が自分の人生を愛することを恐れている。

それでも、奇跡は起きる。今まで多くの奇跡が私を救ってきたように、神様は思いもよらぬ形で、私と父、私と母が和解するように導いてくださることを私は確信している。

たとえ、借金があることを最後まで言えなかったとしても、私は父を愛しているし、父も私を愛している。

勇気がほしい。借金があることを話せる勇気が。でも、話さないことで罪悪感を感じることも何かが違う。つまり、私と父との関係は、私だけの過ちで成り立っているのではなく、相互のこれまでの積み重ねが問題なのだ。

神様との話に移るが、本当の自分を偽ったせいで、私は神様を見失った。神様との信頼関係を再度作り直す必要があるようだ。そのためには、自分を見つめ直し、許した上で、悪い習慣を断とうと決心しないといけない。

私だけの過ちで私と神様との関係が成り立っているのではない。つまり、多くの無数の理由から、私は神様や本当の自分との信頼関係がなくなっているのだ。自分を偽ることが全ての元凶。

奇跡は偽るのを止めることから生まれる。自分の本心に正直になった瞬間、奇跡が生まれる。

今日、昔の彼女とメッセージをやり取りしていた。私が「夢も目標もなくて虚しい」と言ったら、彼女は「目の前の小さな目標を作っていけばいいんだよ」と言った。私は「小さな目標もないよ」と言ったら、彼女は「働く。生きる。それだけですごく大変なことだよ」と言ってくれた。「そうか。小さな目標は毎日の仕事を果たすこと、それだけで良かったんだ」と思えた。

もちろん夢も長期的な目標もほしい。それがあったら、どれだけ幸せだろうと思う。使命感を持って何かに向かえることのなんと幸せなことだろう。

でも、毎日の仕事、生活をちゃんとやり遂げてこそ、使命が自ずとやってくるのだ。最初に使命があるのではない。使命は準備ができた者に自然と舞い降りるのだ。

奇跡は本心から始まる。使命も同じ。本心で生きれない者に使命なんて神様は与えようとは思わないし、そんな無理を神様は望んでおられない。

したいことが何もない。それは事実。それが今の本心。この本心を大切にしたい。今の仕事が全然面白くなくても、嘘ついて楽しいと思う必要はないし、私だけがそう思っているのではない。

いつかきっと、本当にしたいことが見つかると私は思っている。私の心の穴を埋めることができる何かがきっと自然にやってくる。そのために、私は自分に正直でありたい。

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