土着神

裕福な家で育ち、世界平和を目指すために大学に行ったら、カルト宗教とつながっているとは知…

土着神

裕福な家で育ち、世界平和を目指すために大学に行ったら、カルト宗教とつながっているとは知らずにボランティアサークルに入ってしまい、脱会して、次の大学での元恋人との乱れた性関係やら自殺未遂やら10回以上の転職やら経験して、また仕事している人間です。

最近の記事

自分の言葉4〜親との和解、自分との和解〜

“神は、私たち人間が恵みの可視性、いわゆる奇跡を信じないとしても、それを実現なさる。その実現し給うことが神の恵みの現れなのであり、これまで確実に一つ一つ実現し給うて来たが故に、神は、私たち人間によって愛と呼ばれ、救いと呼ばれる。私たちには、そもそも奇跡とはいかなるものであるのかを前もって理解することが赦されていない。私たちは日々祈り、何かが実現することを求める。しかし、その願いが本当にその祈り通りには叶えられず、別な形で叶えられてきたということを私たちは知ってきたし、今後も知

    • 自分の言葉3〜罪を消す関係性〜

      “〈罪を持ち、的外れな行動を起こしながらも同時に神を讃美する者たちの交わり〉のただ中に、〈罪という言葉に含まれている全ての抑圧的思考回路・神が造り給うた生命を蔑ろにする物事の考え方を消滅させ、私たちの存在そのものをありのままで良しとし、無償の受容をもって弱さ・小ささ・脆さを認めさせ導く聖霊〉がいてくださる。“ 罪という言葉を聞くと、私たちはものすごく苦しいイメージを感じはしないか。少なくとも、悟りを開いた人以外は明るい感じは持たないだろう。 この罪という言葉によって、どれ

      • 自分の言葉2〜正しいとは愛である〜

        “神に繋がっている者にとって「正しい」とは何を意味するのか。それは、その者が律法を守っているということではなく、神が人間に律法を守らせるということである。キリスト者が神に仕えるということではなく、神がその者を神に仕えるように造り変えていくということである。キリスト者が決めた正しさという基準によって私たちは「正しい人」にはなり得ず、神が決めた正しさという基準によってキリスト者が「正しい人」と勝手に判断され、一方的に認定される。私は自分自身を人間が作った基準においても神の基準にお

        • 自分の言葉1〜神の主体性〜

          “神は確実に常にどんな時代においても、どんなに悲惨な環境においても、神の救いの活動の芽を生起させる。それは神の欲し給うことであるが故に成される。神が私たちを選び、私たちを召し、私たちを一つ一つの焦点に集わせる。人間が成す活動であれば、いつかは無くなり消滅してしまう。しかし、神自らが生み出し、神自らが召し、神自らが成す。福音を伝える者を生み出すのも、福音を受け止め、信じる者を生み出すのも、神御自身。神が福音を伝える主体者で在られる。神の主体性はなんと強いことか。神の主体性はいか

        自分の言葉4〜親との和解、自分との和解〜

          全ての存在は対等

          この世界で生きている全ての人間は 神そのものです。 そして、全ての人間は対等な存在であり 同等の価値を持っています。 生命の範囲でも同じです。 全ての生命は対等な存在であり 同等の価値を持っています。 有機だけではなく 無機の世界に範囲を広げても同じです。 石もコンクリートも私たちと対等な存在であり 同等の価値を持っています。 全ての存在は愛によって生み出され 愛そのものです。 誰によっても存在そのものを否定されることは あってはいけません。 役に立つと勝手に

          全ての存在は対等

          るろうに剣心の天翔龍閃

          るろうに剣心で、剣心が天翔龍閃を修得するとき 剣心は己の中の人斬りを乗り越えて 生きようとする意志を強く見出した。 大切な仲間のためにどうしても生きようして 一歩を踏み出した。 生きるということは、どんなに恐怖と不安、後悔と自責があっても、 天翔龍閃を打つための一歩を踏み出し続けることなのかもしれない。 生きたい。 成功したい。 人生の転機を今ここに見出したい。 今まで私は多くのチャンスを逃して生きてきたことだろうが、 きっと天翔龍閃の一歩を踏み出すチャンスは山ほど

          るろうに剣心の天翔龍閃

          一切皆苦に気づいたら

          一切皆苦。全てのことが苦しみ。 このことに気づいた瞬間 一瞬だけ苦しみがなくなる。 そして 全てが苦しみどころか全てが愛であることに気づく。 全ての事象は誰かや何かのために存在していることに気づく。 動機や理由がどうあれ 何もかもが誰かや何かのために在る。 全ては執着という名の歪んだ愛であったとしても 奥底には純白の想いが流れている。 苦しみの元には執着があり、執着の元には真実の愛がある。 苦しみに気づき、執着の正体に気づき、真実の愛に気づく。 そして、本当

          一切皆苦に気づいたら

          ほとんどの人間は実は悟りを開いているのではないか

          理由は分からないが、大抵の人間は正直言って悟りを開いているのではないかと思ったりする時がある。 しかし、自分が悟りを開いていることに気づいてしまうと、社会から外されてしまうという恐怖が、最後の扉を開く勇気を与えない。 実はほとんどの人間がそう思っている可能性もある。 そして、みんながみんな、悟りの心を表現しないで閉ざす。 何か大きなきっかけがあれば、私も含めて、その最後の扉を開けるような気がする。 悟りとはそもそも何なのか。 ・大いなる存在に気づいている ・全員が

          ほとんどの人間は実は悟りを開いているのではないか

          誰のために生きるのか

          自分の命・体・心を守るために生きることこそ最初の真理。 まずは自分の命・体・心を守るために生きよう。 ステージ1においては、絶対に人のためになど生きるな。 人のために生きるステージ2は、ステージ1が終わらないとやって来ない。 さなぎはさなぎとして生きよう。蝶の世界は蝶にならないと分からないから、知ろうとしない方がいい。無暗に知ってしまうと、人生が壊れて、幼虫に戻ってしまう。 ステージ1がなかなか終わらないからと言って、一段飛ばしでステージ2に行こうとするのもなしだ。

          誰のために生きるのか