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トミヤマユキコ「ネオ日本食ノート」15

「冷やし中華」らしい「冷やし中華」を求めて――渋谷「喜楽」

 日本の夏は「冷やし中華はじめました」の張り紙によって始まる。少なくとも食いしん坊にとってはそういうことになっている(暗黙の了解で)。今年もそろそろ冷やしとくかな〜、という店側のアバウトな判断によって、ぼんやりと夏が始まっていくのがわたしは大好きだ。始まりだけでなく、いつ終わるのかよくわからないのも、夏の気まぐれさを思わせて大変よい。
 そんな冷やし中華は、「中華」とは名乗っているものの、日本で生まれた麺料理である。「日式中華」や「街中華」と呼ばれるような、日本で独自発展した中華料理の中でも、元ネタが「ざるそば」な時点で、冷やし中華はかなりネオっていると言える。起源としては、仙台「龍亭」の店主で、「仙台支那料理同業組合」の初代理事長だった四倉義雄と組合の仲間たちが開発した、という説と、神保町「揚子江菜館」の二代目が考案した、という説のふたつがメジャーだ。しかし、大事なのは、いずれにせよ、「ざるそば(もりそば)感覚で中華麺を食べられないかな〜?」というシンプルな欲求が、この国民食を生み出したということ。日本のそばをリスペクトする中華料理人のアレンジ力と、それをよしとした客の共犯関係が、冷やし中華をここまで有名にしたのだ。
 本場中国に元ネタが存在しないのであれば、とかく無秩序になりやすいのかなとも思うのだが、驚くべきことに、みんながイメージする「ふつうの冷やし中華」はほぼ一致している。冷たい中華麺、お酢もしくはごまだれベースのたれ、きゅうりとハム(or チャーシュー)と錦糸卵、あとは紅ショウガがちょっと乗っかっていれば完璧……ざっとこんなところだろう。しかしこれ、家庭で作るときは、めんどくさいからと錦糸卵を省略したりして、イメージ通りにならないことが多い。でも、店で頼んだら頼んだで、立派な海老が乗っかっていたり、ハムやチャーシューが蒸し鶏に代わっていたりと、贅沢さがアップした結果、やっぱりイメージ通りではなくなってしまう。みんながイメージできるけど、そのまんまの代物にはなかなかお目にかかれない。冷やし中華のイメージは、幻想。幻想なんだけどちゃんと共有されている。それがおもしろい。
 「家でも作れるものを、わざわざ店で食べるのだから」……そんな気遣いが、冷やし中華をバージョンアップさせる動機なのはわかる。わかるのだが、猛烈に「ふつうの冷やし中華」が食べたいときってないだろうか。素朴で、ふつうで、でも美味しい。そんな超典型的な冷やし中華を店で食べたいとなると、案外選択肢は減ってしまう。ああ、でも食べたい。
 そこでやってきたのが、渋谷の百軒店(ひゃっけんだな)を入ってすぐのところにある「喜楽」である。ラーメンや日式中華が好きな人にはよく知られた名店で、創業60年をゆうに超える老舗でもあるのだが、常連ばっかり! という雰囲気でもなく、サラリーマンからワケアリ感あふれる男女まで受け入れる懐の広さが頼もしいお店である(喜楽の周りは道玄坂のラブホ街なのだ)。

 入口脇の看板を見ると、「始めました! ¥900」と書き添えてある冷やし中華の写真が。いちいち「冷やし中華」と書かないところに、威勢の良さを感じる。始めました! そうですか! てなもんである。
 2階のテーブル席に通され(1階はカウンターのみ)、念願の冷やし中華を待つ。この日はすごく暑かったのだが、なぜか周囲の客は冷やし中華を頼んでいない。みんなふうふう言いながらラーメンとか炒飯を食べている。あんなに威勢のいい張り紙があったのに、なんでみんな頼まないの? と少々不安に思いながらも、じっと待つ。けっこう待つ。喜楽の中華麺はけっこう太いので茹でるのに時間がかかるようだ。


 待ち焦がれた冷やし中華がとうとうやってきた。白くて丸い皿のヘリに元気よく塗りつけられた練りからしが見えた時点で、テンションが上がってしまった(この雑さ、家っぽくて最高)。具は、きゅうり、チャーシュー、錦糸卵、もやし、そして頂上に真っ赤な紅ショウガ。これぞみんなが想像する冷やし中華である。一点、もやしが多めなのがこの店の特徴と言えば特徴だが、とにかく凝った具がないのが質実剛健でグッとくる。


 具をかきわけてみると、もっちりとした中華麺が姿を現した。さっきも書いたが、ここの麺は太い。太いということは、茹でたあと冷水で締めるにも限界があるということだが、この「ぬるいとまでは言わないが冷たくもない」温度で食べる冷やし中華、すごく旨い。最初からキンキンに冷たいと、あとは弛緩してゆくだけになってしまうが、冷たすぎないからこそ、味がずっと安定して美味しい、みたいな感じ。酢もキツすぎずちょうどいい。取材に同行した編集Kくんも「うまい……」と言ったきり、あとは無言で食べている。わりと少食なわたしもあっという間に完食してしまった。マジで、なんでみんな頼まないの? 頼めばいいのに!
 実食を終えたわたしたちは、満腹感で若干ボーッとしながら、近所のファミレスへ。われわれふたりの結論は「旨い」「また食べたい」、以上である。ほんと、悪いこと言わないから、みんな喜楽へ行ってくれ。
 喜楽の冷やし中華が教えてくれたのは、トッピングをがんばらなくても、麺の温度とかお酢にこだわれば、食べた時の満足度を引き上げられるということである。家で作るときも、そこをがんばれば、具はそこまで凝らなくていいのかも。しかし、わたしたちの多くは、そこをがんばらない。というか、店のがんばりには勝てない。「ふつうの冷やし中華」をおいしくすべく実力勝負に挑み続ける喜楽を、わたしは手放しで褒めたい。

喜楽


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