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手のひらサイズから広がる世界

この世にはスマートフォンというものがある。
インターネットも、写真や動画の撮影も、音声通話も、テキストのやりとりも、動画視聴もできる。
でもこいつでは一人にはなれない。
全ての向こう側に知らない人が見える。
ネットの記事を書いている人、SNSの投稿をしている人。
全てが、とにかく、うるせえ。
全てが本当に邪魔だ。




でもこいつは、スマートフォンとはワケが違う。
電波の向こう側に人がいて、会ったことない人がほとんどだけど、なぜかよく知っている。
いや、知ってる気になっている。
そして、そうさせてくれている。

電波の向こうの人をいつの間にか信頼している。
そしてそれを受け入れてくれているような気がする。
いや、そういう気にそうさせてくれている。

確実に俺は一人なのに、一人にさせてくれない何かがある。
一人の僕に寄り添ってくれているような気がして、俺の心をつかんで離してはくれない。

こいつからはどぎつい下ネタが流れてくる。
腹がちぎれるほど笑ってしまう話も流れてくる。
時には弾き語りの生歌が流れてくる。
本人の生の声での結婚発表が聴ける夜もある。

ラジオを聴いていて思わず泣いてしまう時がある。
年齢を重ねて涙もろくなったのかもしれないが、重ねた年齢よりも随分と涙腺が弱くなっている気がする。
大人になるにつれて涙腺が弱まるのは、人生経験を積むからだと思う。
無意識下での思い出・経験とのリンクや共感が、涙もろくしてくれているのだろう。

ラジオは、経験していないことを経験したかのように感じさせてくれる。
これまでのしょうもなくてモノクロの人生も、カラーに見えてくる。
この世を捉える解像度みたいなものも上がってくる。
変にハスに構えてしまったりするようにもなる。

ネタメールとして投稿されるあるあるの内容も、全部体験したことがあるような気がしてくる。
結婚したことも子供ができたこともないけど、分けてもらった幸せを抱えて寝るだけで十分幸せを感じれる。

そして、その他人ひとの幸せを、心からお祝いできる。

Wi-Fiなんてもちろん不要で、たった二本の乾電池が、毎晩ここまで胸躍らせ、感動させ、笑わせてくる。

たかが一週間実家に帰るだけなのに、すごく心がざわざわしてしまいラジオの実機を持ち出してしまう。
なぜかいつにも増して電波の入りが悪かったり、入るラジオ局が違ったりで結局radikoばかりを使う事になる。
それでも、俺はこいつを携帯しておきたい。

手のひらに軽く乗っかるくらいの四角い箱は、世界中とは繋がれないけど、電波の先に確実に存在しているパーソナリティとは繋がれている気がしてくる。


そこに広がる"閉鎖的でこじんまりとした世界"が好きで、「それをもう少しだけでいいから広げてみたい」なんて欲があった時期もある。

今も、まだあるのかもしれない。




#255  手のひらサイズから広がる世界

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