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人生経験の檻

 わざわざ僕みたいな人間のnoteを読みに来てくださっている人になら、僕はもうあわれまれてもいいです。長い言い訳、どうかお許しください。

 “人生経験”という言葉はめちゃくちゃ都合が良くて謎の説得力が生まれるのであまり使いたくないのですが、自分に対して「人生経験がたりないな」と思うことが最近とても多いです。

 世の中の事象に対して斜に構えてしまい、それが世間とずれていると気がついていても自分の意見を引っ込められない。過去からずっと”斜に構えている自分“が首を絞めてきて、「僕が間違ってました」とはどうしても言えない。これが、このたぐいの人が「プライドが高い」と言われてしまう大きな所以だと思います。「間違ってました」と素直に認められないとなると、単純に「開き直って寝返る」という選択肢が浮上してきてしまいます。ですが、「そっちの方がプライドが許さないだろ」と僕だったら思ってしまいます。

 そこで僕は、「人生経験」という言葉を都合よくかかげたいと思います。
 気が滅入ること、落ち込むこと、反省すること。生きていてももうそんなことばっかりで精神的に疲れます。先日、お笑いコンビ「メイプル超合金」のカズレーザーさんのYouTubeチャンネルで『結果を出していないのに自信を持つのはただの「過信」【カズレーザーコメント返し】』という動画が公開されていました。

その中で取り上げられていた「自己肯定感が低く、彼氏に好きと言われたり、友達に可愛いなどと言われてもどこか疑って信じきれません。自己肯定感が高ければ生きやすくなるだろうと思い色々試しますがどうも自分に自信がつきません。カズレーザーさんなりの自分の自身の付け方を教えていただければ嬉しいです。」というコメントに対するカズレーザーさんの回答を要約すると、

”自己肯定感“ の方を先行させてしまうと、それは結果が出ていないのに自信を持ったただの「過信」になってしまう。生きている中で何を幸せとみなすかは人それぞれであり、信用できる他の何かがあればいいと思う。必ずしも自己肯定感がないといけない、ないと幸せじゃない、というわけでもない。

といった感じでした。そして、「自己肯定感をつけるにはどうしたらいい」や「自分に自信をつけたい」といったコメントが上記の動画内でも目立っていました。
 自己肯定感をハナから持ち合わせていないのであれば、それは自己肯定や自信に繋がる“結果”を出すことでしか解決しない。結果が出るとそこに需要が生まれて、”必要とされる”という状況が生まれる。自分の価値を、需要に委ねる。とどのつまり、「他人からの評価に頼る」ということになる。

先に挙げたカズレーザーさんの回答にある“信用できる他の何か”の例として、お金と彼氏をあげていました。(後者は依存にはなってしまう。)質問にもある「他人の言葉が信用できない」と言うのは僕もすごく分かります。僕も一度「人の言葉を信用するにはどうしたらいいですか」という内容の相談をファーストサマーウイカさんのラジオに送ったことがあります。それに対してウイカさんからいただいた回答は「褒め言葉は額面通り受け取っておいて、それに甘んじないようにすればいい」というものでした。
 先日、大学のトイレで小便をしていました。そこへ後から人が一人入ってきて、横からめちゃくちゃ視線を感じたのでそっちを向くと、前年度の後期の講義で同じ班にいた人でした。目が合うなり「元気?」と言われ、「元気ですよ」とつい敬語で返してしまった。「なんかいいことあったん?笑」と言われ、「いや、なんもないよ。笑。ほんと、マジでなんもないのよ」と返しました。お互い用を済ませてその人と隣同士で手を洗っている時、不意にその人に「なんかめっちゃオシャレになってない?」と言われました。2秒くらい間が空いてしまった後、「パーカーぱっか着てたからかな」と僕は返しました。トイレを出たところでその人とは別れました。
 久しぶりに会った人に「なんかめっちゃオシャレになってない?」と言われた後に2秒ほど間ができてしまったのには理由があって、単純に僕の頭がオーバーヒートしていたからです。この言葉を言われた瞬間、頭の中で同時に複数のことを考えてしまって訳がわからなくなってしまいました。
 まず一つ目は「この人、〇〇さんであってるっけ?」という思考。話の途中で「お、〇〇君じゃん」くらい俺が言えないと、「こいつ、班が同じだったのに忘れてんな」って思われてしまう気がしてしまいました。忘れてないことをアピールするために名前を呼びたかったのですが、浮かんでる名前が合ってるかどうかを考えてしまいました。
 二つ目は「純粋に嬉しいな」という思考。褒められるのって別に悪い気持ちしないな、という単純な感情の話です。
 三つ目は「思ったことをその場でスッと言えるのすごいな」という思考。普段僕は何かを言おうとした時に「失礼じゃないか」「誤解を生まないか」「嫌われないか」みたいな大量のフィルターを通してしまい、「結局何も言わない」みたいなことばかりです。なので、その人が一瞬でその言葉を口に出せているという事実への関心とほのかな憧れを感じました。
 四つ目は「お世辞なんじゃないか?」という疑い。
 五つ目は「お世辞なんじゃないか?」と瞬時に思ってしまった自分に対して「いかに普段の自分が損得でいろいろ考えているか」を考えてしまった自分への呆れ。
 六つ目は「頑張っておしゃれしてる」と思われるのが恥ずかしいから「頑張ってる」と思われないためにはどんな言い訳をしたらいいのかという思考。
 七つ目は「なんて返答するのが一番正解なんだ?」という根本の思考。
 この七つが同時に頭に押し寄せてオーバーヒートした結果、僕は「パーカーぱっかり着てたからかな」というよくわからないことを口走ることとなりました。
 大学帰り、「この時俺が答えるべきだったのはなんだったんだろう」と考えまくってしまいました。そして、今日のこの会話で一つ学んだのは、「トイレで顔見知りと会った時、別に話しかけても不自然ではないんだな」ということ。中高の時、元クラスメイトとトイレで出くわすことに僕はどこか気まずさを感じていました。俺には「同じクラスだから話してくれてる」と「友達だから話してくれている」の違いがわからなかったからです。大学の規模になると人数も爆発的ですし、「一つの講義で同じ班になったからって話しかけられても困るだろうな」とか「どうせ俺なんかの名前なんて覚えてないだろうし、気まずいだけだろうな」とか思ってしまいます。
 これから僕が積極的に話しかけるかどうかは全くの別の話ですが、“久しぶりに会った知人に声をかける”行為に関して、僕が考えているほどの違和感みたいなものはないのかもしれないなと感じました。

 同時にいろいろな思考が押し寄せて頭がオーバーヒートして言葉に詰まってしまうという状況に、実は数日前にもあっています。
 バイトの時間も終わりがけの頃、副店長が「品出し人足りないから来て」と言われて僕は担当のレジを離れました。閉店後も品出しは続き、途中からレジ担当の先輩方も加わってきました。品出し中にとある女性の先輩に話しかけられ、「釜飯さん、もしかしてずっと品出しやってましたか?帰ったのかと思ってました」と言われました。これに対する返答を考える時、「誤解を解く言い訳」「ユーモアチックな返答」の二つが同時に脳内を走り出しました。「ずっと副店長にこき使われてるんですよ」というニュアンスのことを言うか、「(いつも知らないうちに帰っている先輩がいることを踏まえて)そんな薄情なこと自分はしないですよ」というニュアンスのことを言うか。どっちが正解かを考えた結果、なんかボソボソ言って愛想笑いをして終わりました。二つの選択肢を同時に考えようとして、ニュアンスは浮かんでいても日本語が出てこなかったり、「失礼じゃないか」「誤解を生まないか」みたいな言葉を口に出すまでのフィルターにかけたりをもう同時にやろうとしてしまって、頭がオーバーヒートしてしまう。

 はあ。そもそもこんなことをうだうだと考えている人に需要が生まれるわけがないんですけどね。

 話を戻してしまいますが、カズレーザーさんが言っていた「恋人への依存でもいい」という内容がずっと心に引っ掛かっています。お笑いコンビ「オードリー」の若林正恭さんの著書に

自信のない人は、失恋すると自分に価値が無いと思い込む。相手と合わなかったんだなと思えず、自分が悪かったと思い込む。その価値を取り戻すために相手を取り戻そうとするが、それは独りよがりなので相手にとっても自分にとってもロクなことはない。

若林正恭-ナナメの夕暮れ(文庫版)p91,ℓ15

という部分がある。価値を他人からの需要に委ねるやり方。その他人に当たるのが恋人の場合、これはまさしくカズレーザーさんの言う依存の形です。恋人ができたところで、肯定してもらったところで、それで得られるものが諸刃の剣であるならばそこに願望を持つのもめんどくさい。「他人に期待しない、自分にもっと期待しない。」。それで十二分。

 信頼できる“何か“を、自己肯定感なんてものの他で持つ必要がある。明確な他者からの“需要”に頼るのは信じきれなかったり諸刃だったりする。それが趣味だったりするのだと思うのですが、今の僕の趣味はラジオを聴くことしかありません。それ以外の趣味を一つでいいから確立したい。
 「佐藤満春のあなたの話、聴かせてください」(ニッポン放送)というラジオの特番が、6回ほど放送されている。当番組は、「ちょっとコアな趣味」や「理解してもらえないこだわり・好きなもの」などをリスナーから募集し、メールを読んだり電話を繋いだりする。今回の放送で言うと、「使われなくなった廃線の跡地を見るのが好き」「工具が好き」「マンホールが好き」「カレーの、ルーがかかってない部分が好き」など。ラジオを聴いているというだけでなかなか人数が絞られるのに、さらにコアな趣味趣向を持っているリスナーさんたちに対して、純粋に「羨ましいな」という感情が湧いてきた。ラジオの他に趣味の軸足がもう一本あることにすごく惹かれた。
 若干動悸は不純ではあるが、もう一つの趣味が欲しくなった。ラジオの以外で「信用できる趣味」。そして他人を噛ませる必要がなく「自己完結できる趣味」。一生懸命考えた結果、「一人旅行を趣味にしたいな」と思った。
 ライブに行った日のことをただただ書く日記がめちゃくちゃ楽しかった。さらに、最近noteで「#一度は行きたいあの場所」という投稿コンテストを見かけ、それをきっかけに東京タワー登りたいなとか、函館の夜景見に行きたいなとか、温泉地の旅館に泊まりに行きたいなとか色々考えたりしました。一人旅行なら、文字通り一人。今の生活よりもはるかに気にする他人の目が少ない。
 現世に桃源郷を見つけた気がして、嬉しかった。大学生のうちに、4箇所は行きたい。そのためにはお金がいるからバイトには行かなくてはならないし、就活も待っている。頑張れ、俺。
 2022年4月27日(日)放送の「佐藤満春のあなたの話、聴かせてください#6」のゲストがHip-Hopユニット「Creepy Nuts」のDJ松永さんでした。番組終了時刻が近づいたエンディングの時間に言っていた「自分なりの誠実さ」という言葉が心を貫いてきました。

少人数の対談企画・番組や、トーク番組が僕は好きです。先に挙げた「佐藤満春のあなたの話、聴かせてください」(YouTube)や、「あちこちオードリー」(テレビ東京)、「RED Chair」(YouTube・Yahoo!ニュース)など、まだまだ沢山あります。こういう対談・トークを聞いていて好きな瞬間が、演者の方々が「それちょっとわかるかもしれない」と共鳴して一つの結論が出る時です。その“答えが出る瞬間”を目の当たりにした時の脳汁が出る感じがたまりません。
 こういう番組を視聴していると得るものももちろん沢山あるのですが、自分と重なりすぎたり重ねすぎたりして疲れたり、思わぬ角度から論破されたりします。それでも見たい・聴きたいって思わされます。
 直近で印象に残っているのは、元体操選手の内村航平さんが出演なさった「RED Chair」の『【内村航平】「1ミリを積み上げていく」現役生活で学んだこと、引退決意の背景』という動画です。

動画内で内村さんが

スポーツ選手だと『ゾーンに入る』って言うじゃないですか。ゾーンのさらに上があったんですよ。入り込みすぎると普通になるんだなって

と言っていて衝撃が走りました。ゾーンのさらに先なんて考えたこともなかったです。
「RED Chair」は他にもおすすめが沢山あります。「山田孝之」「はじめしゃちょー×佐藤二郎」「ムロツヨシ×劇団ひとり」「チョコレートプラネット松尾×シソンヌじろう」が個人的にはおすすめです。


 ここで改めて、僕に“人生経験”という言葉を振り回させてください。

 考え事をしすぎてネガティブになっている時は、往々にしてnoteを書いている時。元々備わってないに等しい”自信“みたいなものが完全になくなる。
 逆に、「自分の中の”ネガティブ“が今潰れているな」と思う時は、往々にして何かに没頭している時。ラジオを聴いたり、テレビを見たり、イベントやライブに行ったり。こういう、ネガティブなことになんか脳を割いていられない状況。

 精神的は何故か安定していて、「思い切る」という思考にもなんか納得できて、“根拠のないほのかな自信”みたいなものが頭にあるのが分かる時があります。そういう時、なんとなく「人生経験として、一回くらいはいろいろしておきたいな」という気持ちが湧いてきます。
 普段はそんなこと微塵も思いませんけど、「新入生歓迎会とか行ってみたかったな」とか、「大学の友人とお酒飲みに行ってみたいな」とか、「異性とデートしてみたいな」とか、「異性と付き合ってみたいな」とかを抵抗なく考える時があります。

 この記事に限らず、2年弱、僕はnoteにつらつらとしょうもないことを書き続けることができています。僕にも親につけてもらった名前がありますけど、ネット上では本名とは無関係の「同じ釜の釜飯」として分離できているから書けている部分がとても大きいと思います。この内容をリアルの友人に見られたら、正直立っていられないです。誰かに相談できるような内容でも量でもありません。中身が無いとはいえ散々書き溜めてきた昔のnoteがあるからこそ書けていることも多いし、イチから悩みを全部説明して相談を持ちかけるのはもう無理だと思っています。(そもそも、相手に理解してもらえるとも思えないですし。)
 でも背後に“人生経験“が立ってくれているとその相談すらも「誰かにしてみたいな」と思えたりします。「誰に相談すんだ」という現実問題は一旦無視して、単純に「受け入れてもらえるか否か」という点に興味が湧きます。
 受け入れてもらえなかった時に全部捨ててなかったことにできる、というのが匿名で使えるSNSの一番いいところだと思います。現実でも受け入れてもらえたらそれが一番の理想なんですけど、“受け入れてもらえない“という事実を突きつけられるリスクはなかなか背負えません。
 でも一回くらい誰かに受け入れてほしいんです。あくまで人生経験として、ですけどね。
 あと、恋人のために自分の価値基準を捻じ曲げるってこともしてみたいです。


 でも背後の”人生経験“はすぐいなくなり、ナナメに構えて自意識に押し潰される本来の自分が引き戻されます。不意に他人に話しかけられれば同級生であっても無意識に敬語が出てしまいます。普段バイト先で謙虚にしすぎている弊害です。バイトを始めて1年弱ですが、クソほど敬語を使って全員と一定以上の距離を保つようにしています。他人との間に壁を作っている方が僕は生きやすいです。
 あと、人との仲良くなり方を完全に忘れました。

 noteを書いている時はネガティブ以外の何者でもないです。
 でも今日は音楽を爆音で聴きながら書いたので、多少はポジティブになってると信じてます。


#266  人生経験の檻




”ドウダンツツジ”


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