没頭

ネガティブを潰すのはポジティブではない。没頭だ。

出典:若林正恭, 完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込,  p142

 この言葉は常に心の隅に置いていると言っても過言ではないくらい、心に響いた言葉です。
 ラジオを聴いている時は自然と「自意識過剰」の鎧を脱ぐことができ、パーソナリティの話を聴いて、雑念に苛まれることもなく、ただただ笑ってられます。(それと引き換えに、ラジオを聴き終わって布団に入ってもなかなか寝付けないと、急激に鎧がのしかかってきて苦しくなります。)
 これと同じことがバイト中にせっせとレジ打ちをしている時にも起こります。特にスーパーのレジ打ちは「何もやることがない」or「忙しい」の両極端なので、「忙しい」時に客観的に自分を見ると「自意識過剰」の鎧を全く着ていないことに気がつきます。逆に「何もやることがない」時に客観的に自分を見ると必要以上に「自意識過剰」の鎧を着ていることに気がつきます。
 ですが、このレジ打ちに集中しているという状態を、著者よろしく「没頭」と形容するのは些か違和感がありました。

 先日受けた大学の講義の内容で、この違和感の原因が少し分かった気がするので、書きたいと思います。授業資料を見ながらこれを書くのはルール的に黒寄りのグレーだと思うので、ちゃんと自分で咀嚼して頭で理解したことで書きたいと思います。

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 西田幾多郎という日本の哲学者が初めて書いた著書の中に、「純粋経験」という考え方があります。これは、主観と客観の区別が無くなって行動そのものに”没頭”している状態のことを指します。(また、別の言葉で「主客未分」「主客合一」などと言うこともあります。意味はそのままで、それぞれ「主観と客観が別れていない」「主観と客観が合わさる」という意味です。)
 例えば、初めて聴く曲に対して思わず「すごっ!」と言ってしまうのは「純粋経験」に該当します。逆に、「この曲はイントロのドラムの叩き方が特徴的で、ここの歌詞の意味が深くて前の曲の歌詞と繋がってるからすごい」などと考えるのはこれに該当しません。

 そして、この「純粋経験」はいくつかの種類に分けることができます。

①見惚れたり聞き入っている状態:絶景を見たり曲を聴いたりしている最中に、我に返って自分のことを考えたりはしない
②熟練していることの披露:演奏家が熟練された曲を演奏している場合など
③生まれたての子供:そもそもまだ主観と客観の区別ができない
④芸術家
⑤宗教

 話は変わって、チクセントミハイという哲学者が「フロー」という考え方を唱えています。意味としては「幸福感・楽しさ・喜びを感じることができる体験」のことです。

 西田幾多郎の「純粋経験」とチクセントミハイの「フロー体験」は似ているのですが細かな違いがあります。

 位置関係としては、「純粋経験」の①見惚れたり聞き入っている状態③生まれたての子供は「フロー」には該当しません。逆に、「純粋経験の」②熟練していることの披露④芸術家は「フロー」に該当します。

 次は、「フロー」体験はどのような条件が揃った場合になされるのかについてです。こちらの条件も何種類かあります。

A.能力を要する能動的活動:頑張ればできそうな目標の達成を目指す
B.行為と意識の統一(=主客合一):行為に注意が完全に向いている状態(=自分を意識しない)
C.目標設定と評価:達成による手応えと周りからの評価
D.行為自体への集中:行為に完全に注意が向くことで普段の”ネガティブ”を忘れる
E.コントロール:レーシングカーの運転をはじめとした危険を伴う行為に対して、自信が湧いて危険を感じなくなっている状態
F.自意識の喪失:行為への集中で主観と客観の区別がなくなり、「自分」という存在がなくなる(→B.と似ている)
G.時間感覚の変化:時間の進みが早く感じる、又は遅く感じる

 逆に、「フロー」体験を妨げるものも存在しており、それが「自己中心的な考え方」です。
 趣味に代表される、「すること自体が目的で、できていることが嬉しい」というものを「自己目的的」と表現したりします。趣味はお金にならないし使うだけだけど、それでも楽しいもので、自ずから没頭していく対象です。
 これと対照に、「すること以外に目的があって、やむを得ず行うことや見返りのために行うことは「自己目的的ではない」ということになります。
 この「自己目的的ではない」行為は自分の利益だけを求める行為なので「自己中心的」と表現されます。
 そして、自己中心的な人には他者からの見られ方を気にする「自意識」が存在していません。それ故に、自分に利益がないものには価値を見出せません。こういう人は、「自己目的的」で自分の利益にならない“趣味”よりも、「自己目的的ではな」いがお金をもらえる“仕事”の方にしか熱を注げなくなるらしいです。


 話が長くなりました。冒頭の「没頭」の話に戻ります。

 ラジオを聴くことで「自意識過剰」の鎧を脱げていたのは、まさしく主観と客観の区別がないからだと思います。生きているだけで常に頭上から俯瞰してる自分がいるのですが、それが本当にいなくなるんです。(ラジオのトークの内容次第で急に現れることもありますが。)
 趣味と仕事では、趣味の方が「フロー」になりやすいとされています。ラジオを聴くことは完全に僕の趣味なので、「自己目的的」であるこの趣味は「フロー」に該当します。
 余談ですが、ラジオでメールを採用されることに固執すると、「聴くこと」自体が目的ではなく、「採用されること」が目的になるので、「自己目的的ではな」くなるんだと思います。それゆえに、メールが採用されない期間が続くことでラジオを聴くことが辛く感じたり、気分が落ちたりしてしまうのだと思います。おそらく、メールを送ることが「ラジオ拝聴」という趣味の範疇から飛び出してしまっているんだと思います。だから、それとは別にメールを送ること自体を趣味にしたら、心持ちが変わる気がします。

 反対に、レジ打ちのバイトは「純粋経験」の②熟練していることの披露に当てはまるのではないかなと思います。こちらは「フロー」を構成する条件のA.〜G.はしっかりと当てはまっている気がするので、「フロー」に該当します。

 なんとなくバイトを「没頭」に当てはめるのはがしっくりきてなかったのですが、これなら「没頭」と言っていいですよね。「純粋体験」であるか否かという部分に引っ掛かっていたのかも知れません。


 あと、個人的にいいなと思ったのは「自己中な人は自意識を持ち合わせていない」という部分です。「自意識過剰」で検索をすると、「ナルシスト」「自分が好きすぎる」「自己中心的」みたいなサイトばっかりヒットします。いや、自分のことが好きなわけねぇだろうがよ。自分のこういう部分が嫌い、ああいう部分が嫌いって自己嫌悪してばっかりだし。うってつけは「『嫌われたくない』は自己中」ってやつです。「相手にこう思われたら嫌だ」はイコール「そんなふうに思わせてしまうのが申し訳ない」でもあります。「相手にどんな風に思われてもいいや」と相手の気持ちを慮らないで横暴に生きる方がよっぽど自己中ですよ。

 「自意識過剰な人は実はこういう人が多い!?」みたいなサイトをお書きの皆さんはもっとマシなサイト書いてくださいね。

 こういうサイトを書いてる人の「自意識過剰」は、「自信過剰」の意味合いの方が強いと思いますよ。

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参考文献
WARAI+「笑い学入門2 笑いと『純粋経験』――笑いの最中について」http://waraiplus.com/colum/humor_science_02.html (2021.11.09閲覧)


#197  没頭

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