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小さな未来社会、あるいはオープン・コミュニティ・プラットフォームとしての新しい学校。


本記事は絶賛執筆中です
#こんな社会だったらいいな 」にエントリーさせておきたかったので、先に投稿しておきます。

(一気に書き上げるつもりでしたが、思っていたよりも長文になりそうなので、少しずつ書き足すことにしました)

みなさんは、学校は何をする場所だと思いますか?「読み・書き・そろばん…」などの知識・技術を習う場所でしょうか?

学校の役割は様々ですが、教育の目的は「人格の完成」を目指すことだとされています。つまり、学校は「生き方を学ぶ場所だとも言えます。

最近は、「無理して学校に来なくても良い」に始まり、「学校なんか要らない」といった声までも、よく聞くようになりましたが、生き方を学ぶ場であるという本質を(学校関係者と「私たち」が)見失わない限り、学校システムは必要とされ、維持され続けることになるでしょう。

であれば、これまで培ってきた良い面を残しつつ、時代に合わせて変えるべき部分を、きちんと変えていかなければいけません。今回は、自分のビジョンをクリアにするために、いまの私がどのような変化を期待しているのか、書き留めておきたいと思います。

# 学校では「社会人」になれなかった

自分のこれまでの学生生活を振り返ってみると、まるでレールの上を走る列車のように、スムーズにここまで来てしまったことに驚きます。

日々の生活に何も問題が無い、ということはありませんでしたが、温かく見守ってくれる先生方や友人、家族に支えられ、戦後に導入された単線型の教育システムと、その広い受け皿や奨学金、そして運によって、自分にとって必要十分と言えるほどのものが揃った学生生活を送ることができています。

ただ私は、「生徒として、学校に適応し過ぎている」という欠点も抱えています。これは教育システムが持つ大きな影響力の、負の面が現れた事例かもしれません。

生存戦略として、まずはルールに倣い、努力をモノで示し、積極的姿勢を示すことは、様々な場面で役に立つものでしたが、限られた世界しか知らない私は、それらの使い方について、機械学習で言うところの「過学習」を起こしてしまったようなのです。

おかしな話だと思う人もいるかもしれませんが、私は、先生たちが悪かったとは思っていません。自分の努力不足もあるでしょうし、当時の政策や現場の実態を考えても、簡単に他者を責められるものではないからです。

それでも、社会人たちは不満を漏らします。「即戦力が欲しい」「もっと、こんなことを教えてほしかった」「現実社会と学校現場が乖離している」...

恐らく、現場の先生方は基礎・基本をしっかりと教えなければならない実情と、社会からの要請との間で、板挟みになっていることでしょう。

# 学校と社会の隙間を埋める「ゆとり」に、時代が追いついた。

白羽の矢が立てられたのは、システマティックに改められた「ゆとり教育」―アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)と、ICTの活用などの働き方改革でした。

ゆとり教育は、学力低下を引き起こした犯人のように見られがちですが、あの段階での評価は時期尚早だったとする声も多くあります。

今、ゆとり教育が見直されている背景は色々あります。点数による管理が、私のような偏った人間を生み出しやすいシステムであることが再び問題視されてきたことも1つです。

ただそれよりも、時代の流れとともに、良質な教育を支える人的ネットワークとICT技術が広がり、それぞれの生徒に合った教育を提供する基盤が整ってきたことのほうが大きいと感じています。

やっと、ゆとり教育が本領を発揮できる時代に突入したのです。

アクティブ・ラーニングと働き方改革の具体的手法については、日々議論が交わされていることかと思います。これからの社会の主体を担う上で必要な知識・技能・経験などを身に着けるためには、その訓練を行う「余裕」が必要です。

学習指導要領の改訂や、学校関連制度の見直しが進んでいますが、私はこの流れに乗って、さらに次のステップへと向けた準備―「学校概念そのものの再定義をすることも、強く勧めていきたいです。

# 社会への輩出から、社会の創出へ

学校が抱える問題の1つは、未来社会が抱く需要を予測できないまま、未来の人材を育成することが求められている点です。そもそも原理的に実現不可能とも思える取り組みですが、かなり確実性の高いアプローチがあります。偉人の言葉を借りましょう。


「未来を予測する最良の方法は,それを創ることだ。」
The best way to predict the future is to create / invent it.
 - Abraham Lincoln, Peter Ferdinand Drucker, Alan Curtis Kay...

アラン・ケイは発明( invent )と言い、リンカンやドラッカーは創造( create )と言いました。未来に対して主体的に行動を起こすことが期待されている点は、アクティブ・ラーニングとも通じます。

学校は不確実な未来に合わせた教育ではなく、確かな未来を創る、まさにその現場となることが望ましいのではないでしょうか。

今後、PBL(Problem-Based Learning:問題基盤学習や Project-Based Learning:課題解決型学習)的なクラスが増えるとすると、この意識はより重要になるはずです。生徒たちは、身近な題材や社会的議論のある題材に取り組む中で、いかに自分の生活や人生を創り、発明していくかについて、習慣的に考えることになるからです。

学校が未来社会を発見する場所であるためには、学校システムそのものが実験場(サンドボックス)になることと、何度も挑戦することができる文化づくりが必要だと思います。「Learning by Doing」を円滑に回すためにも、失敗すらも織り込んだ支援体制は欠かせません。

実験は生徒と大人が協力して行うものになります。その対象は、「読み・書き・そろばん」に留まらず、日常のライフハックから社会運動まで、「生き方」に関わるあらゆる分野に渡るでしょう。

小さな世界のほうが失敗してもリカバリしやすいので、学校単位・クラス単位・班単位で実験ができることにはメリットがあります。外部リソースの活用により、これまでの「致し方なく、一律に教えざるを得ない」という状況を脱することができるようになった今、実験活動のメリットを広く共有するべきです。

そして重要なことは、これらが「実験」であることです。自分たちの行動に責任を持つ必要はありますが、いつでもより良い方法に切り替えられる柔軟性もまた必要です。そのためには、矛盾する複数のアプローチを並行して行うことに対し、(ある程度の合理性が保たれる範囲で)社会が寛容であるべきです。

未来を創るマインドと、その実験をサポートする環境を整えることで、学校を「小さな未来社会」にし、「現代社会が」そこから学んだことを実装・反映していく、というフローは、とても魅力的です。民主主義教育・社会参画意識の醸成にも効果が期待できます。

# 先生同士、そして社会との交流の場を

前項では、小さな未来社会としての学校について書きました。ここからは「オープン・コミュニティ・プラットフォーム」としての学校像をまとめたいと思います。

現在の学校システムは、ある程度の裁量権を各学校に与えています。また、トップダウン型ではなく、ボトムアップ型に近いため、当事者の声を吸い上げることができるという強みがあり、教育システムとして適した構造を持っているはずなのですが、どうも「前例」や「お上」の影響を強く受けやすいところがあるようです。

政策問題など一般的にそうですが、一番不利益を被る人たちほど、声を上げる「余裕」を持っていないことが多いですよね。学校も同じではないでしょうか?学校はセンシティブな情報を扱うことが多く、またその場その場での柔軟性も求められるため、これまでクローズドかつ属人的な運営が維持されてきました。生徒の「やり直し」や、各教員の創意工夫を促す反面、問題を外部と共有し、解決に取り組む上で、少なからずハードルがあるわけです。

当然、これは学校のリソースを圧迫し、本質に注力する「余裕」を少しずつ削いでいきます。しかし問題をリアルタイムに、適切に解決するには、オープンさが必要です。EduTechが注目されている背景には、業務の効率化以外にも、「助け合いの促進」や Ability Sharing 的な意味もあるのです。

例えばソフトウェアエンジニアであれば、プログラムやドキュメントの共同編集・管理サービスに「GitHub」や「GitLab」、質問サイトとして「Stack Overflow」や「Teratail」、気軽に編集リクエストも送れるブログ投稿サイト「Qiita」などに加え、情報共有ツールとして「Twitter」や「Slack」など、あらゆるプラットフォームを利用しています。

では、日本の教育現場では実際にどのくらいこうしたサービスの活用が進んでいるのでしょうか?

教員向けSNSの1つに「SENSEI NOTE」があります。センシティブな相談もできるようにとの配慮からか、クローズド(実際に勤務している教員のみ利用可能)になってはいるものの、学校・地域の境界を越えて、先生同士で知識や経験を共有することができる素晴らしいサービスだと思います。

さて、このブログ記事によると、「小中高の教員の数はおよそ100万人」「センセイノートの利用者は、教員全体の1%ほど」とされています。

情報処理・通信に携わるICT人材も105万人であること(cf. 平成30年版「情報通信白書」)と比べてみると、Qiitaの「250万人」や、Teratailの「10万人」との間には、大きな開きがあります。

また、教員でなくても閲覧・利用が可能なサービスとして、「フォレスタネット」や「EDUPEDIA」がありますが、UX面ではまだまだ改善点があり、少し覗いてみた範囲では、活動もあまり活発には見えませんでした。EduTech業界は未だブルーオーシャンとも言えます。願わくば、日本から世界的プラットフォーマーが現れてほしいところです。

// 後日、別の記事で書く予定ですが、ICTを積極的に活用した学校運営については実験段階ではあるものの、着々と進められているようです。
また、「ICT活用」を広義にとらえれば、利用率はもっと高いはずであり、新しい世代の教員が増えることによって必然的に利用は増えるはずなので、純粋な利用率としては、そこまで悲観しなくても大丈夫ではないかというのが私の意見です。

オンラインプラットフォームの活用が教育現場で芳しくないという現実はあるものの、クローズドコミュニティにおける教員の助け合いが拡がってきていることは分かりました。

さて、ここで改めて考えたいのは、オープンコミュニティについてです。私は、先生方が日々発信するあらゆる情報を統合し、共有を促進する、一般に開かれたコミュニティが必要だと考えています。教員同士のみの交流では情報源が偏りやすく、また社会との乖離を縮めるには遠回りだからです。

教員は教育実践における専門家です。とはいえ職業の特性上、ごく限られた年代や背景の生徒を多く見ることになり、弱いエビデンスに則った教育になりやすいという弱点もあります。より適切な教育を行うには、エッジケースも含めて、多様な情報に触れる機会がさらに必要なのではないでしょうか。

また多くのブログはそうですが、発信した情報は発信されっぱなしです。ですが先述のQiitaのように、著者と読者が意見を交わし、それを記事に反映することを繰り返す中で、互いの考えを深めることができる、という文化も存在しています。

すべての教員がそれに参加すべきとまでは言いませんが、「専門家」と「市民」の間で、もっと意見交流が進んだほうが、カイゼンのサイクルは早まり、「先送り」によって蓄積され、将来の社会が抱えることになる様々な問題を、率先して解決できるようになるでしょう。

センシティブな問題であっても、抽象化して、ケーススタディの1つとして蓄積していくことで、同僚による拡散がない限りは、個人特定をある程度防ぐことができますから、むしろ積極的に共有・統合してほしいと思います。(実際、要素毎に分解して記事化することで、問題への対処法を共有しつつ、情報漏洩や個人特定を防止することは、かなり一般的な方法ですよね。)

クローズドコミュニティオープンコミュニティうまく使い分けることで、教育の在り方がより良い方向に向かうことを期待します。

# コミュニティ同士のコラボレーション

前項ではオープン・コミュニティ・プラットフォームの中での「専門家と市民」という構図における共創を考えました。ここからは、それをさらに発展させ、「個人とコミュニティ」「コミュニティとコミュニティ」という構図における「流動的で多層的なコミュニティによるコラボレーション」について考えます。

さて、世の中にはたくさんのWebサービスがありますが、ヒットするサービスは、どのような性質を持っているでしょうか?

その答えの一つは「多態性」だそうです。多態性とは…

多態性のある学校

# コラボレーション・ハブとしての教師像

シーン
・教科指導~
・生徒指導〜
・部活指導~
・進路指導〜
・学校づくり~

# ベース

DIYの精神~

そもそもインクルーシブが前提

# そして学校は文化になる。

年齢も言語も場所も関係ない~
cf.XR→高速大容量通信によるテレプレゼンス
モザイク型教育?

義務ではなく権利としての学びの再興~

# 私が思い描く未来のキーワード(仮):

・Open(広く開かれているor繋がりを持つことができる)
・Unique(個性)
・Colaborative(各個人や組織の持ち味を活かす,協創or共創)
・Constructive(建設的な議論、システムの運用と相互理解による成解・納得解の模索・振り返り)
・Liberty(責任ある自由,自治,参画)
・Just(正しさ < ちょうど良さ)// what you want, that is it
・Susatinability(持続可能性)//「いつでも休め,また戻ってこれる」「分散型」「多層性」「多態性」「あらゆる可能性の保全」など

What can i do?

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さきがき的あとがき

調べてみると、私が考えているような物事をすでにしっかりと実践しているところも多くあるようです(主に欧州。こちらはスウェーデンの例)。理想が実現した先にも新たな課題が現れるでしょうから、いまのうちにイメージトレーニングと先行研究を進めておかなくては…!

見出し画像:Photo by Jesse Zheng from Pexels

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